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初日
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気が付くと誰もいなかった。
ただただ人の気配のない町を歩いていた。
閑散とした町並。
眼下に見える道路にも、建物にも人の気配はなく、そこに住んでいた人々がいたことを思わせる跡が残るのみ。
ここは住宅街だろうか。
同じような高さの建物が並び、同じような十字路があり、多くの電信柱が見える。
──俺は何をしているのだろうか。
歩きながら考える。
──知らない。
いや、知っている。知っているが、思い出せない。
頭に靄がかかったように、大切な部分だけが記憶から取り出せない。
ただ、地面を這う蟲は危険だと感じていた。
理由などわからない。
蟲を避けるため、屋根伝いを歩いていた。
時折かぶさる蜘蛛の巣が気持ち悪い。
「なんでこんな高いところに蜘蛛の巣が…」
顔を顰めながら歩き続ける。
目指す場所なんて、ない。
いつの間にか陽は傾き、茜色の空模様を醸していた。
「降りるしかないのか…」
地上を拒み、屋根伝いに歩いてきたが、ついに家屋が途切れた。
「…よっ、と」
塀に飛び降りる。
元々は四角であっただろうブロックが、経年劣化によって崩れている。
そのブロックの奥に隠すように袋があった。
「これは…」
袋を手に持ち開いてみると、中に入っていたのは、大量の蟲。
それも蟻だ。
黒い頭に赤い体を持ち、6本の脚がわしゃわしゃと蠢く。
一匹辺りの大きさは2cmといったところか。
袋から出てくる様子のない蟻を見ていると、自分が空腹であることに気付く。
「何か食べたかな…」
自分がいつから歩いていたのかは知らないが、空腹具合から相当に歩いていたことを知った。
少なくとも、とても食べる気にはならないはずの、蟻に食欲をそそられるぐらいには。
「…そういえば」
記憶の靄がひとつ晴れる。
この蟻は遺伝子操作された蟻で、栄養が豊富な食べられる蟻であることを思い出した。
しかし、気になるモノがひとつ……。
「…これは何だろうな…」
近くにはゲル状の物体がある。
上半身は人の形に見えなくもないが、下半身はどろどろに溶けている。
ゲル状に見えるが上半身は固まっており、彫刻にしては、やけにリアルだ。
上半身をよく観察してみると、苦悶の表情を浮かべているように見えなくもない。
なんとなく、この蟻を食べるのは危険な気がした。
「うおっ!」
突然、袋の中から不気味な色をした10cm程の蜘蛛が現れた。
咄嗟に手を放し、袋を落とす。
手を突っ込んでいたら、蜘蛛に噛まれていただろう。
「…!」
男が落とした袋から、塀の上に大量の蟻が飛び散る。
蟻の大群をかきわけるようにして、8本の脚が迫ってきた。
それは蜘蛛だった。
蜘蛛が素早く男に近付いていた。
蜘蛛に攻撃性を感じとった男は、素早く距離をとり、手近なブロックで蜘蛛を潰した。
何度も、何度も。
「このっ!このっ!」
念入りに潰した後、ブロックですり潰し、男は一息ついた。
蜘蛛は最早原形を留めておらず、体液まみれになった塀を見て、少し気持ち悪いと感じた。
ブロックはそのまま墓代わりに立てておいた。
無心だった。
この行為に意味など、なかった。
「はぁ…」
塀から地上を見ると、地上には大量の蟲が見えた。
もし降りれば間違いなく踏み潰してしまう。
靴が汚れるのは、なんとなく嫌だった。
隣の塀までは少し距離がある。
助走もつけられない状態で果たして飛び越えられるのだろうか。
もし落ちてしまったら、素早くこの場を離れよう。
靴が汚れるのは仕方ない。
そう気持ちを切り替えた男は、軽い気持ちで跳んだ。
「おおっ…」
2m弱の距離を跳躍し、見事に隣の塀に飛び移ることができた。
やればできるもんだ、と自分に感心しながら、屋根へと跳んだ。
思えばこのような方法で歩いてきたのかもしれない。
どれだけ歩いても人の気配のない住宅街を抜けると大きな建物が見えてきた。
「降りないと行けないか」
地上に蟲がいないことを確認すると、男はすぐに飛び降りた。
近づくにつれて建物が明確になっていく。
「ふむ」
役所のようなその建物は、どうやらシェルターになっているようだ。
だが入口がない。
「正面玄関は開かないな…」
近くにある石を投げつけてみたが、ガラスには傷ひとつ入らなかった。
「……」
なぜ石を投げたのか、自分の行為を不思議に思いながらも、建物をぐるりと周回した。
非常階段だけが見つかった。
非常階段は屋上に繋がっているようだ。
階段の中腹まできたところで、男の脳裏に何かがよぎる。
また、何かを思い出しそうだ…。
「…そう、そうだ」
この役所はシェルターだ。
地下深くまで作られていて、有機物による食物連鎖を人工的に作り出すことで、無限に食物を確保することを想定されていた。
だが、そこに住んでいるはずの人の気配はとても少ない。
非常口からの侵入はできなかった。
仕方なく屋上へと跳んだ男は、マンホールのような鉄の塊を発見する。
マンホールをこじ開けると、建物内に続く梯子が降ろされていた。
「…降りるか」
誰に言うでもなく独り言ちた男は、梯子を少し降り、マンホールの蓋を内側から閉めた。
もしも蟲が入ってきた場合を考えると、背筋がぞっとした。
しばらく梯子を降り、2階に着いたが、やはり誰もいない。
しかし、確かに人の気配はする。機械の稼働する音が聞こえる。
思えば住宅街は静かだった。今度こそ人に会えそうだ。
エレベーターは稼働している。
自動ドアも問題なく開く。
辺りは既に夜の帳が降りてきており、段々と視界を奪われつつあった。
「君、こんなところで何してるんだ。早くこっちへ」
突然声をかけられ、振り返ってみると、人がいた。
全身を守る防護スーツを着込み、大槌を持っていた。
警邏の人だろうか。声からすると男だ。
どこかへ連れていってくれるらしい。
「あ、はい」
気のない返事をしながら警邏の男についていくと、エレベーターで地下に降りた。
役所の地下一階。
警邏の男がセキュリティカードのようなものを翳すと、二重になった自動ドアが開いた。
その時、男の靄はまたひとつ晴れた。
そうだ、ここが地下シェルターだ。
この水色の壁は特別な合金でできていて、縦の衝撃にとても強いのではなかったか。
「ここが居住区だ」
既視感のあるシェルター内を進むと人が現れ、居住区に案内された。
水色に包まれた真っすぐの通路。通路の両横には入口と同じような扉がある。
通路の一番奥、右の部屋に案内されると、ドアが自動で開いた。
やはりこの扉も自動ドアらしい。
セキュリティカードは必要ないようだった。
「今ここは危険なんだ。外にも安全な場所なんてないが、とにかくここにいれば、とりあえずは安心だよ」
そう言うと警邏の男は退室していった。
「危険…?」
気になることを言って去った男の方を見て、また何かを思い出しそうだったが、…思い出せなかった。
一息ついて部屋を見渡す。
この部屋は、どうやら4人で使う部屋のようだった。
中には3人の中年男性がぐったりとしていた。
一人は部屋の隅に座り込み、ある一人はベッドに側臥位で体を預け、またある一人はベッドの上で枕を抱いて中空を見つめていた。
綺麗に用意されているベッドがひとつあった。
中年の誰と話すわけでもなく、部屋のロッカーから寝具を一式取り出し、自身のベッドメイクを行った。
…なぜこんなに淀みなく動けるのか。
ロッカーに寝具があることを知っているかのように、それを行うのが当たり前のように、自然に体が動いた。
靴を脱ぎ、布団に潜った男は、頭の靄が晴れそうで晴れない状態のまま、考えていた。
──何か、何かを思い出していない。大切な、何か…。
思い出そうとすればするほど、男の意識は遠のいた。
知らず知らずのうちに疲弊していた身体と精神は、そのままぐっすり寝ることにためらいなどなかった。
ただただ人の気配のない町を歩いていた。
閑散とした町並。
眼下に見える道路にも、建物にも人の気配はなく、そこに住んでいた人々がいたことを思わせる跡が残るのみ。
ここは住宅街だろうか。
同じような高さの建物が並び、同じような十字路があり、多くの電信柱が見える。
──俺は何をしているのだろうか。
歩きながら考える。
──知らない。
いや、知っている。知っているが、思い出せない。
頭に靄がかかったように、大切な部分だけが記憶から取り出せない。
ただ、地面を這う蟲は危険だと感じていた。
理由などわからない。
蟲を避けるため、屋根伝いを歩いていた。
時折かぶさる蜘蛛の巣が気持ち悪い。
「なんでこんな高いところに蜘蛛の巣が…」
顔を顰めながら歩き続ける。
目指す場所なんて、ない。
いつの間にか陽は傾き、茜色の空模様を醸していた。
「降りるしかないのか…」
地上を拒み、屋根伝いに歩いてきたが、ついに家屋が途切れた。
「…よっ、と」
塀に飛び降りる。
元々は四角であっただろうブロックが、経年劣化によって崩れている。
そのブロックの奥に隠すように袋があった。
「これは…」
袋を手に持ち開いてみると、中に入っていたのは、大量の蟲。
それも蟻だ。
黒い頭に赤い体を持ち、6本の脚がわしゃわしゃと蠢く。
一匹辺りの大きさは2cmといったところか。
袋から出てくる様子のない蟻を見ていると、自分が空腹であることに気付く。
「何か食べたかな…」
自分がいつから歩いていたのかは知らないが、空腹具合から相当に歩いていたことを知った。
少なくとも、とても食べる気にはならないはずの、蟻に食欲をそそられるぐらいには。
「…そういえば」
記憶の靄がひとつ晴れる。
この蟻は遺伝子操作された蟻で、栄養が豊富な食べられる蟻であることを思い出した。
しかし、気になるモノがひとつ……。
「…これは何だろうな…」
近くにはゲル状の物体がある。
上半身は人の形に見えなくもないが、下半身はどろどろに溶けている。
ゲル状に見えるが上半身は固まっており、彫刻にしては、やけにリアルだ。
上半身をよく観察してみると、苦悶の表情を浮かべているように見えなくもない。
なんとなく、この蟻を食べるのは危険な気がした。
「うおっ!」
突然、袋の中から不気味な色をした10cm程の蜘蛛が現れた。
咄嗟に手を放し、袋を落とす。
手を突っ込んでいたら、蜘蛛に噛まれていただろう。
「…!」
男が落とした袋から、塀の上に大量の蟻が飛び散る。
蟻の大群をかきわけるようにして、8本の脚が迫ってきた。
それは蜘蛛だった。
蜘蛛が素早く男に近付いていた。
蜘蛛に攻撃性を感じとった男は、素早く距離をとり、手近なブロックで蜘蛛を潰した。
何度も、何度も。
「このっ!このっ!」
念入りに潰した後、ブロックですり潰し、男は一息ついた。
蜘蛛は最早原形を留めておらず、体液まみれになった塀を見て、少し気持ち悪いと感じた。
ブロックはそのまま墓代わりに立てておいた。
無心だった。
この行為に意味など、なかった。
「はぁ…」
塀から地上を見ると、地上には大量の蟲が見えた。
もし降りれば間違いなく踏み潰してしまう。
靴が汚れるのは、なんとなく嫌だった。
隣の塀までは少し距離がある。
助走もつけられない状態で果たして飛び越えられるのだろうか。
もし落ちてしまったら、素早くこの場を離れよう。
靴が汚れるのは仕方ない。
そう気持ちを切り替えた男は、軽い気持ちで跳んだ。
「おおっ…」
2m弱の距離を跳躍し、見事に隣の塀に飛び移ることができた。
やればできるもんだ、と自分に感心しながら、屋根へと跳んだ。
思えばこのような方法で歩いてきたのかもしれない。
どれだけ歩いても人の気配のない住宅街を抜けると大きな建物が見えてきた。
「降りないと行けないか」
地上に蟲がいないことを確認すると、男はすぐに飛び降りた。
近づくにつれて建物が明確になっていく。
「ふむ」
役所のようなその建物は、どうやらシェルターになっているようだ。
だが入口がない。
「正面玄関は開かないな…」
近くにある石を投げつけてみたが、ガラスには傷ひとつ入らなかった。
「……」
なぜ石を投げたのか、自分の行為を不思議に思いながらも、建物をぐるりと周回した。
非常階段だけが見つかった。
非常階段は屋上に繋がっているようだ。
階段の中腹まできたところで、男の脳裏に何かがよぎる。
また、何かを思い出しそうだ…。
「…そう、そうだ」
この役所はシェルターだ。
地下深くまで作られていて、有機物による食物連鎖を人工的に作り出すことで、無限に食物を確保することを想定されていた。
だが、そこに住んでいるはずの人の気配はとても少ない。
非常口からの侵入はできなかった。
仕方なく屋上へと跳んだ男は、マンホールのような鉄の塊を発見する。
マンホールをこじ開けると、建物内に続く梯子が降ろされていた。
「…降りるか」
誰に言うでもなく独り言ちた男は、梯子を少し降り、マンホールの蓋を内側から閉めた。
もしも蟲が入ってきた場合を考えると、背筋がぞっとした。
しばらく梯子を降り、2階に着いたが、やはり誰もいない。
しかし、確かに人の気配はする。機械の稼働する音が聞こえる。
思えば住宅街は静かだった。今度こそ人に会えそうだ。
エレベーターは稼働している。
自動ドアも問題なく開く。
辺りは既に夜の帳が降りてきており、段々と視界を奪われつつあった。
「君、こんなところで何してるんだ。早くこっちへ」
突然声をかけられ、振り返ってみると、人がいた。
全身を守る防護スーツを着込み、大槌を持っていた。
警邏の人だろうか。声からすると男だ。
どこかへ連れていってくれるらしい。
「あ、はい」
気のない返事をしながら警邏の男についていくと、エレベーターで地下に降りた。
役所の地下一階。
警邏の男がセキュリティカードのようなものを翳すと、二重になった自動ドアが開いた。
その時、男の靄はまたひとつ晴れた。
そうだ、ここが地下シェルターだ。
この水色の壁は特別な合金でできていて、縦の衝撃にとても強いのではなかったか。
「ここが居住区だ」
既視感のあるシェルター内を進むと人が現れ、居住区に案内された。
水色に包まれた真っすぐの通路。通路の両横には入口と同じような扉がある。
通路の一番奥、右の部屋に案内されると、ドアが自動で開いた。
やはりこの扉も自動ドアらしい。
セキュリティカードは必要ないようだった。
「今ここは危険なんだ。外にも安全な場所なんてないが、とにかくここにいれば、とりあえずは安心だよ」
そう言うと警邏の男は退室していった。
「危険…?」
気になることを言って去った男の方を見て、また何かを思い出しそうだったが、…思い出せなかった。
一息ついて部屋を見渡す。
この部屋は、どうやら4人で使う部屋のようだった。
中には3人の中年男性がぐったりとしていた。
一人は部屋の隅に座り込み、ある一人はベッドに側臥位で体を預け、またある一人はベッドの上で枕を抱いて中空を見つめていた。
綺麗に用意されているベッドがひとつあった。
中年の誰と話すわけでもなく、部屋のロッカーから寝具を一式取り出し、自身のベッドメイクを行った。
…なぜこんなに淀みなく動けるのか。
ロッカーに寝具があることを知っているかのように、それを行うのが当たり前のように、自然に体が動いた。
靴を脱ぎ、布団に潜った男は、頭の靄が晴れそうで晴れない状態のまま、考えていた。
──何か、何かを思い出していない。大切な、何か…。
思い出そうとすればするほど、男の意識は遠のいた。
知らず知らずのうちに疲弊していた身体と精神は、そのままぐっすり寝ることにためらいなどなかった。
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