蟲ノ市 -ムシノシ-

モノリノヒト

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二日目

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 翌朝、目が覚めた男は居住区を探索していた。
 自動ドアは近づけば勝手に開くので、様々な部屋を見た。
しかし、どこも同じような印象しか受けなかった。

 どの部屋も水色の壁、4つのベッド、そしてロッカーがある。
中にいる男性達は、人数の差はあれど全員が魂の抜けたような顔をしていた。
誰もいない部屋もあった。

 一通り回ってわかった事は、このシェルター内部に、人は思いのほか少ないようだ。
 地下にも居住区があるらしく、一階毎に違った生活サイクルを用意されているらしい。

「ここはあの災厄が起こる前の、今まで通りの生活ができるフロアだ。農産、畜産、水産などの養殖が行われている」

 男の前を歩き、得意気に語る青年がいた。
身長は170cmぐらいで利発そうな顔立ちをしていた。
何より違うのは、今まで見てきた中年男性達と違い、健康的ではつらつとしていた。

「地下の居住区は実験的な生産が行われている。
 宇宙食だったり、遺伝子操作した蟲を食ったり、な」
「へぇ…」

 頼んだわけではないが、探索中に会った青年は、男を新入りと見るや否や地下一階のフロアを案内してくれた。

「おっと、この先は女性用フロアだ。近づかない方がいいぜぇ」

 十字路に差し掛かったところで青年は嫌らしい笑みを浮かべ、注意を促してきた。
 さすがに女性の居住区を覗く必要は特にないと判断した。

「地下には行けるか?」
「地下に行くのか?なら俺も行くぜ」

 男が尋ねると青年はふたつ返事で了承した。

「あ、私もー」

 ふと青年の後ろを見ると、身長160cmぐらいの女性がいた。
ピンクのワンピースが見た目以上の若々しさを演出しているような雰囲気で、女性というよりは少女のようだった。

「なんだよ、亜里沙かよ、脅かすなよ」
「いーじゃん、連れてけ細蟹ササガニ~」

 どうやら二人は既知の仲のようだ。
興味なさげに見ていた男に対し、青年が語り掛ける。

「おっ、アンちゃん、紹介が遅れてわりいな。
 こいつは水掛ミズカケ亜里沙アリサ。幼馴染だ。んでもってオレは細蟹ササガニ智樹トモキ

 細蟹ササガニが大げさな身振り手振りで教えてくれる。

「お兄さんの名前は?」

 亜里沙の質問に答えようとするが、頭に靄がかかり、言葉が出ない。

「俺の…名前…?名前は…」

 思い出せない。名前が思い出せないとはどういうことだろう。
名前のない日本人などいるのだろうか。
 そう、男は日本人であることを自覚しており、名前の概念も知っていた。
しかし名を名乗ろうとすると頭に靄がかかってしまう。

「何?言いたくねえの?」

 細蟹ササガニが不快そうに男に尋ねた。

「違う…。名前は…俺の、名前は…」

 何度考えても出てこない。名前は確かにある。ただその単語が頭の引き出しから引き出せない。
まるで発音できない言葉でも口にしているように、男の口からは息が漏れるだけだった。

「うーん、言いたくないならいいけどね」

 亜里沙が不思議そうに男を見ながら言う。

「…すまん、そんなつもりじゃないんだが…」

 この状況をどう説明すればいいかは男にもわからなかった。
 一般的に言えば記憶喪失だろう。
だが記憶喪失として説明するには、男はあまりに不可解な情報を知りすぎている。
 特定の事柄に対し、頭に靄がかかったかのような感覚は、男にとっても十分に気持ちが悪く、記憶喪失という言葉で片付けるのは、違うと思われた。

「ま、いいや。地下行こうぜぇ」

 細蟹ササガニのお気楽な切り上げ方に救われた男は、地上への通路へと向かう細蟹ササガニについて歩きはじめた。

「…そっちは地上じゃないのか?」

 昨日、警邏の男に案内されて通った通路だった。

「こっちからでも行けるんだぜ」

 なるほど、と男は頷いた。

 暫く歩くと二重の自動ドアが見えた。
細蟹ササガニがセキュリティカードを翳し、扉が開く。

「地下へ行くなら階段だな」
「セキュリティコードがないと地下へのエレベーターが使えないもんね」
 
 どうやら地下へ行くには階段とエレベーターがあるようだ。
エレベーターはセキュリティコードが必要らしく、細蟹ササガニ達の知るセキュリティコードでは、この地下一階居住区と地上一階にしか行けないらしい。

「地上へ…」

 地下じゃないのかよ、という声が聞こえたが無視して地上に出てみる。

 1階のエントランスに出ると眩しい朝日が照り付けていた。
 石をぶつけても、びくともしない強化ガラスから見える外は静かだ。
なぜ外に出てはいけないのだろうか。

「未知のウイルスとかあるかもしれないからだってさ」

 いつの間にか声に出ていたのであろうか、細蟹ササガニがふと答えてくれた。

「…俺は外から来たんだが…」
「え、マジか。外から来たのかよ。すげーな、体に異常とかない?」

 シェルター外から来たという言葉に、二人は目を見開いて驚いていた。

「大丈夫なら、外に行ってみたいなあ」
「亜里沙がそう言うなら、ガラス破るか」

 亜里沙がふと漏らした言葉に対し、細蟹ササガニはなかなか過激な返答を返した。
 男は、石をぶつけても割れない強化ガラスの頑丈さを説明した。
その代わり、屋上から入ったことを説明すると、行ってみようということになった。

 2階にあがり、屋上に続く梯子を登る。

「へー、こんなところに道があったんだな」

 感心する細蟹ササガニを尻目に、マンホールのような蓋を開けようと力を籠める。
 だが、屋上の扉は来た時と違い、びくともしなかった。

「まー、そうだよな。コンピュータで管理されてるから行けるわけないよな。お前、よく入ってこれたな」
「あーあ、外に出てみたかったな」

 その様子を見た細蟹ササガニと亜里沙は残念そうに梯子を降りて行った。

 確かに夜には明かりも付くし、エレベーターも動くということは、電気が通っているということだ。
各居住区の生活を管理する為に、コンピュータによる管理は必要なのだろう。
しかし、なぜ入ることはできたのか。
 男は短絡的に、外からは簡単に開けられるのだろうと結論付けて考えることをやめた。

 地下へ向かう扉は封印されている。
封印といっても物理的に封じられているだけで、機械的な管理はされていない。
 基本的に他階への立ち入りは、衛生管理上禁止されているとのことだった。

「…進めないのか」
「ま、こんなもん力ずくよ」

 細蟹ササガニが工具のようなものを取り出すと、小気味の良い音が扉の封印を解いた。

 扉の奥の階段から通路へと進む。
階段をかなり降りたところで異変はあった。

 異様な雰囲気が流れ込む。
 生物独特の臭いが鼻をつく。
ただし、その臭いは自然界特有のものではない。
人工的な科学薬品の臭いと、生物の臭いが混じって、不快感を覚える臭いだ。
水色の壁もくすんだ茶色に変色している。

「もうすぐ地下二階なんだけど」

 "けど"。
 訝しげな細蟹ササガニの目線。心なしか亜里沙も不安そうだ。
 地下への階段を、老朽化していないか確かめながら降りる。

「なんか、雰囲気が違うな」
「暗いし、怖い」

 異様な雰囲気を感じつつも地下二階へ到着。
やはり扉は封印されているようだったが、今度は工具を使わず、体当たりで壊すことができた。

 目の前にはやはりセキュリティカードの必要な自動ドアがあった。
 細蟹ササガニがセキュリティカードを翳して自動ドアのロックを解除する。

「ここは宇宙食で過ごしてる人達のエリアだ」
「なんか、くさい…」

 自動ドアが開かれると同時に鼻につく生物の臭い。
やや甘ったるい臭気を吸うと、すぐに強烈な腐臭がツンとくる。

「長いシェルター生活で、結構な人が亡くなったからな。この地下二階でも同じなんだろう」

 亜里沙は顔を真っ青にしていたが、細蟹ササガニは慣れているようだった。
 通路の作りは地下一階と同じで、特に迷う事はなかった。
居住区を中心に探索して回るが…。

「酷いな…」

 地下二階は凄惨な光景だった。
 あちこちに散乱する人の死体。
通路の壁にへばりついたまま腐臭を漂わせている。
 蟲が入らないようになっているせいか、蛆すら湧いていない。

 生存者は誰もいなかった。
暴れたような形跡もなく、ただ、無気力が向かった先の死だったようだ。
 地下一階の中年男性達が、ふと脳裏を掠めた…。

「換気がしっかりできてるからなのか、これだけ死体があるのに、そんなに臭くないな」
「なんて話をするのよ、気持ち悪い」

 細蟹ササガニが亜里沙に叩かれながらも通路を進む。
亜里沙は細蟹ササガニの袖をしっかり掴んでいるようだ。
 男も慣れているのか、死体をある程度検分しながら歩を進めていた。

 結局、生存者はなし。地下二階は全滅だった。
得たものは怪しい宇宙食と、メモ、そしてエレベーターのセキュリティコード…
 メモには、神器と書いてあるだけで、他にはない。

「…神器?」

 神器という言葉に引っ掛かりを覚える。

「ゲームのメモじゃね?」
「メモするほどのこと?」

 そうか、娯楽としてのゲームはあるのか、と男は得心が行った。
ゲームがテレビゲームを指すのか、携帯ゲームなのか、はたまたボードゲームなのかはわからなかったが、神器やゲームといった単語に頭の靄が少し晴れそうな気がした。

「そろそろ戻ろうか、疲れた」

 細蟹ササガニが提案し、亜里沙はもちろん、男も頷いた。

 地下一階に上がると、清涼な空気が心を癒してくれた。
 地下二階とは世界が違う。
あの光景が嘘のように、地下一階は平和だ。

「じゃーね、なかなか楽しかったわ」

 十字路で亜里沙と別れ、男性用の居住区へ向かう。

「いやー、それにしても、なかなかハードな現実だったな」

 ある程度はわかっていたと言わんばかりの顔で細蟹ササガニが言った。

「…どういうことだ?」
「このシェルターも限界なんだよ。俺も亜里沙も、ここで産まれてここで育った。もう頼れる大人なんていねぇ」

 話を聞きながら、男は無気力な中年男性達を思い出していた。

「警邏の人は元気そうじゃないか」
「警邏?ああ、兄さんはまだ大丈夫さ」

 "まだ"か。
 今後無気力になる可能性があるということか。
 男はとんでもないところに来てしまったのではないかと感じていた。
 実のところ、地下二階を探索している時から、頭の中では警鐘が鳴りっぱなしだった。
それでもここに来なければならない理由がある気がしていた。

「…腹が減ったな」
「お、じゃあオレの部屋に来いよ。美味い飯くわせてやるぜぇ!」
「…蟲はゴメンだぞ」
「オレだってあんなもん食わねえ。麦飯だよ」
 
 細蟹ササガニの料理は確かに美味しかった。麦飯、野菜、みそ汁、何かの肉とバランスも良かった。
途中で細蟹ササガニの兄だという警邏の人も参加し、三人で料理に舌鼓を打ちながら語り合った。

 しかし、やはり自分の名前は思い出せず、なぜ外にいたのかもわからなかった。
 また、地下二階の惨状についても警邏の男に話す気にはなれなかった。
細蟹ササガニもあえて触れることはなかった。

 眠気を感じた頃、二人に別れを告げ、部屋に戻った男は何の憂いもなく、ぐっすりと眠りについた。
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