蟲ノ市 -ムシノシ-

モノリノヒト

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五日目

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「俺はもう探検はしない」

 起床後、細蟹ササガニを地下探索に誘うと、にべもなく断られた。
細蟹ササガニはもう探検に乗り気ではないらしい。

「ほら、このカード使えよ」

 セキュリティカードだ。しかし、細蟹ササガニのものではない。
このカードは亡くなった男性の持っていたカードとの説明を受けた。

 また、出るには容易いが、再度シェルター内に入る事ができない可能性についても聞いた。
 男がシェルター外から来たため、DNA鑑定機能が活きていた場合、弾かれてしまうからだ。
 弾かれる可能性は低いだろうと思いつつも、男は礼を言って立ち去った。

 この日は久しぶりに一人になった。

 エレベーターで特定の階層まで降りるにはセキュリティコードが必要になるが、地下三階までのコードは既に得た為、割と自由に行動ができる。

 地下は五階まであるが、地下四階への階段は壊されており、階段では降りられない。
 エレベーターのセキュリティコードも、地下四階と地下五階の分までは知らないので降りることはできない。

「さて、どうしたものか…」

 エレベーターに入り、地下四階を押してみる。
行きたい階層を指定した後、セキュリティコードを入力するのだ。

「ふぅ…」

 知っているコードを入力してみたが、やはり地下四階には行けなかった。
 エレベーターが壊れている可能性を考え、試しに地下三階を選択し、セキュリティコードを入力すると、内臓が持ち上がる感覚を覚えた。

 地下三階に到着。
 エレベーターの動作に問題はないようだ。

 ここからは白蟻がどこから現れるかわからない。
昨日帰還した時には見つけられなかった白蟻がいるかもしれない。
 そう考えた男は、警戒心を強め、階段を見た。

 地下四階へ続く階段はやはり壊されており、眼下には深淵が広がっているだけであった。
 通路灯すらも点いていないところを見ると、よほどの事があったのだと推察できる。

 と、その時──。
不意に背中を押された。

 警戒していたはずが、突然の衝撃にバランスは崩され、深淵に向かって前のめりになる。
ダメ押しにもう一度、棒のようなもので突かれると、重力に逆らえなくなった。

 落ちる!

 浮遊感が体を包む。
 一体誰が…と思う余裕すらなく、落下感による恐怖だけが体を支配する。
 このままでは地面に叩きつけられ、死んでしまう。

 地下四階を通りすぎ、地下五階だろうか…
そこは広い空洞になっており、ぼんやりと明るい。
 遠くに地下鉄の車両が見えた。

 ──この光景、前にも見たことがある…。
 ここで、この高さで、何かを言われた、と男は思った。
 誰かに何かを言われた、という強い記憶。

 しかし、何を言われたのか、思い出せない。
地面が見えた時、男の頭の靄が晴れた。

 ──生キル為ニ 選ベ――

 これだ、この言葉を言われた。
 思い出した男は、顔面から激しく水に叩きつけられた。
 激しい音と痛みで一瞬のうちに視界と聴覚を失ったが、水から感じる暖かさが意識を引き戻す。

 これは水ではなく、お湯だった。
 車両の隣に…風呂…?
 体全体に激痛が走るが、男は一命をとりとめた。
湯から上がると、とりあえず死んではいない事に安堵し、息を吐く。

 遠くに見えた車両は、湯からそう遠くに離れてはいないようだった。
 反対側を見ると洗い場があり、桶で湯をかぶり続ける男性と思われるご老体の背中が見えた。

 洗い場はまるでそこだけが切り取られたかのように、水色のタイルが敷き詰められ、手前の湯舟は温泉をそのまま持ってきたかのような造形になっていた。
 地面はどうやら土のようで、もしここに落ちなければ即死だっただろうと思わされた。
 そして湯船には…。

「あ、あなたは…」

 男が気付くと同時に声をかけられた。
 湯船に浸かっている裸の女性…それは、地下三階で助けてくれた大人しそうな女性、鈴子だった。

「どうしてここに…。白蟻を食べてしまったんですか?」

 いや、と男は首を振り否定した。
 むしろ、この子がなぜここにいるのかが気になっていた。

「私は…どうやらいつの間にか、蜘蛛に卵を植え付けられていたみたいなんです。卵が孵り、自分で歩けなくなる前に、ここに自分から落ちました」

 それはどういうことなのだろうか。

「すみません…ここに落ちた身で言うのも気が引けるんですが…そんなに見られると、恥ずかしい、です」

 その言葉で、男は裸の彼女を凝視する怪しい人物になってしまっていた事に気付き、慌てて目を逸らした。

「あそこのおじいさんが、ここに詳しいはずです。聞いてみてください。
…私は自分で歩けませんから、ご一緒はできません」

 彼女の指し示した先にいたのは お湯をかぶり続けるご老体。
 アドバイスに従い、話しかけてみると、酷く疲れた声で話しはじめた。

「ここから出るには…コンピュータの決めたルールに従わなきゃならん…」

 湯を被る手を止めず、顔もこちらへ向けないまま、ご老体は語り始める。

「電車の先にホームがある…。
 どこかのホームは正しい地下四階へ続くホーム…。
 どこかは地下五階居住区へ続くホーム…。
 それ以外のホームは、犯罪者を取り締まる牢獄へ続くホームじゃ…」

 ふぅ、とご老体は一息吐いた。
一体いつからお湯を被り続けているのだろうか、桶を持つ手は震え、手は擦り切れていた。

「わしはここで道案内をし、このお湯を浴び続けることをコンピュータに決められたんじゃ…。
 これをコンピュータがいいというまで続けなければ…外には出られん…」

 そう語るご老体の体は、まるで溶けてしまいそうにふやけている。
 どれほど続けているのだろう、と考えると老人は心を読んだかのようにポツリと呟いた。

「どれほど続けてるかって…? そろそろ四、五日は経つか…もう、限界じゃよ…」

 と、ご老体はお湯をかける動作を止めてしまった。

 ──警告、警告。

 突如、機械音声が空洞内に響く。
 目線だけで確認すると鈴子も驚いている。

「…もう、いいんじゃ…もう…」

 ご老体は脱力した。
 その瞬間、背筋にうすら寒いものを感じた男は素早く距離をとった。

 ──住人にエラー発生、処分します。

「処分…」

 その意味を理解する間際、どこからともなく現れた白蟻の大群がご老体に群がり、異様な音を出し始めた。音の中にはご老体のうめき声も混ざっていた。

「早く、湯舟に入って!」

 鈴子の声で正気に戻った男は、湯舟に浸かる。

「白蟻も、お湯には入れないみたいです」

 鈴子は群がる白蟻の群れに対し、手ですくったお湯をかけてみせた。
お湯から一気に離れた白蟻だが、僅かな時間で隊列を戻し、またご老体へと侵攻していった。

「…こんなに大量の白蟻がいるとは」

 地下三階に出てくる白蟻はそこまで多くはなかったが、ここにいる白蟻の量は異常だった。
 いつの間にかご老体にはびっしりと白蟻が群がり、聞こえていたうめき声も聞こえなくなっていた。
少しずつ、少しずつ蟻酸で溶かされていくご老体。

 これ以上は見ていられない、と男は目線を外す。

 どういうことだ。
 ここには何か、非常に危険な何かがあるような気がしてならない。
 コンピュータが暴走している…と考えるのは、あまりにも短絡的すぎているだろうか。

 そもそもこのシェルターは何の為に作られたのか。
蟲から逃げる為にしては、妙に杜撰だ。

 男がその事を鈴子に問えば、あっさりと教えてくれた。

「隕石だそうです」

 尚も湯船に浸かったままの彼女から話を聞く。

「隕石で、放射能とか紫外線とか、色々な問題が起きたので、私達の祖先がシェルターを作ったそうです」

 祖先というほど時間は経っていないのでは、と男は考えていた。
 町並はゴーストタウンではあったが、まだしっかりとその姿を残していた事も理由だった。

「シェルターの生活も、長い年月が過ぎて、色々な問題が起きました。
 地下三階では食物連鎖に異常が発生し、私達は蟻や蜘蛛に捕食されるようになりました」

 異常が発生した、と簡潔に話す鈴子。
 そこに大きな問題点がありそうではあったが、男は別の事を気にしていた。
もしかして、彼女も先ほどの老人のように湯船に浸かることを強いられているのでは、と。

「あ、違います。あなたも特に役割は与えられていないでしょう?」

 確かにそうだった。ではなぜ湯船から出られないのか。

「うんと、えっと、そうですね、蜘蛛の卵が孵ると、歩けなくなりますから、その対策です。
 お湯の中なら体が軽いですし」

 そう言う鈴子の顔には一種の諦念が見えていた。

「でも残念です。生きてるうちに恋のひとつもしてみたかったなぁ…」

 そういうことなら俺が、と迫る男。

「ええっ、や、やだなぁ、ありがとうございます。お気持ちだけで充分です」

 鈴子は照れくさそうに顔を赤らめた。
 男は諦める気がないのか、尚も迫る。

「…まあ、そう言わずに。俺の事が嫌でなければ」
「い、嫌じゃないですけど、は、恥ずかしい…」

 男は恥ずかしがる鈴子に近づき、右手で顎を持ち上げて優しく口付けをした。

「え、今のって、ええっ、恥ずかしい…。
 あ、あの、また会いに来てくださいね?」

 もちろん、と出来る限りの笑顔で男は応えた。
 どうやら鈴子もまんざらではなかったようで、二人の間には少しだけ緩和した空気が流れた。

 服を着込んだままであった為、服を乾かしがてら、鈴子と色々な話をした。
 だが男にはあまり多くの記憶がなく、このシェルターに来てからの話題しかなかった為、鈴子の日常についての話が多くを占めた。

 日付は、いつの間にか変わっていたようだ──。
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