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第一章
気の利かない男
しおりを挟む……痛い。おでこが痛い。
手足も、なんだかひりひりする。
とにかく、痛い。
そして――かたい!
郁子は、どうやら気を失っていたようだ。
身体のあちこちの痛みに顔をしかめ、呻いて寝返りを打とうとした彼女だったが、何かが腰に引っ掛かったような気がして、薄く目を開けた。
「……君、大丈夫か?」
抑揚のない声が、突如頭上から降ってきた。
慌てて見上げた先にいたのは、一人の見知らぬ青年だった。
金色に、赤が混ざったような明るい髪色。
穏やかそうな目元には、薄緑色の綺麗な瞳が嵌っている。
年の頃は郁子とそう変わらないくらいだろうか。
郁子の見慣れた日本人よりもずっと彫りが深く、非常に整った顔立ち。
そんな男は、寝転がった郁子の脇に座り込んで、じっと彼女を見下ろしていた。
「……」
「……」
郁子が黙って男を見つめていると、彼も黙ったまま郁子を見つめた。
辺りを静寂が支配する。
次いで郁子は顔を仰向けにして、天井を見上げた。
高い天井だ。しかも、部屋自体も随分と広い。
自分がライターをしゅぼっとした瞬間、何かが起こったのは覚えている。
それからどうなったのかは分からないが、しかしどうやら郁子は今まで気を失っていて、どこかに寝かされているようだ。
もしかしたら、この傍らにいる男が自分を介抱してくれたのかもしれない。
そう思った郁子は、どこか呆然としたままながらも、彼に向かって一言礼を述べようと顔を横に向けた。
そして、気づいた。
「――って、固いと思ったら、床!?」
やたらと堅い布団だと思っていたら、郁子はただ床にそのまま転がされた状態だった。
(か弱い乙女が気を失って倒れてるってのに、床に放置って、ちょっとあんまりじゃない?)
しかも、腰の上には何だか中途半端な大きさの布が、申し訳程度に掛けられてある。
「このスケスケのレースの布は、いったい何?」
「テーブルの花瓶の下にあった」
「そうね。どう見てもテーブルクロスね」
「冷えるといけないと思って」
「いやいやいや、おしいっ! ほらそこ。すぐそこに、ソファがあるじゃない? 温かなソファに寝かせてあげようとか、思わなかったわけ!?」
「どこか打っているかもしれないから、動かさないほうがいいかと思って」
「……で?」
「そのうち起きるかなと思って、観察していた」
「……」
一体何なんだろう、この男は。
おそらく悪い人間ではないのだろうが、思考回路が少々ずれているというか、天然というか……。
観察していたと言うとおり、遠慮の欠片も無くただじろじろと郁子を見下ろしてくる。
郁子は戸惑いながらも、いつまでも床に寝転がっているわけにもいかないので、両手をついて身体を起こそうとした。
「っい……いたたたっ……」
「大丈夫か?」
身体のあちこちが、どうにもひりひりとする。
皮膚が赤くなっていて、どうやら打ち身というよりは軽い火傷をしているようだ。
一番痛んだのは額だった。しかしこちらは火傷ではなく、打った痛みらしい。
「君、俯せに落ちてきたからな。床で打ったんだと思う」
「……あー、そう」
男は相変わらず郁子を興味深そうに見ているが、本当に観察しているだけで怪我人相手に手を貸そうともしない。
(なんて気の利かないヤツ……)
そう思いながら、ふと自分の身体を見下ろした郁子は、次の瞬間悲鳴を上げた。
「――ぎゃあっ! ふっ、服がっ……!!」
「まあ、君、爆風に吹き飛ばされてきたからね」
郁子が身に着けていたはずの、お気に入りのレースのチェニックはぼろぼろに破け、下に履いていたスキニーパンツも度が過ぎたダメージジーンズのように無惨な有様。
下半身はともかくとして、上半身はもろに下着が覗き、むしろブラジャーの上に端切れを纏っていると言っても過言ではないような状態だった。
思わず叫んで両腕で胸元を隠した郁子に、男はなおものん気な様子で言葉を返しつつ、今気づいたとばかりに自分の上着を脱いで、彼女の身体に掛けてやった。
そういう親切心を持ち合わせているならば、もっと早く上着を貸してくれればよかったのに。
郁子は男を恨めしく思ったが、けれどとにかくマイペースな様子の彼を見るにつけ、何だかそれを口にするのも無駄のような気がして、言葉を吐き出す代わりにため息をついた。
郁子は拝借した男の上着に腕を通して前のボタンを嵌めつつ、あらためて周囲を見回した。
広くて、天井の高い、とにかく大きな部屋だ。
正面の扉の脇付近だけ、なぜか壁が焦げてしまっている。何があったのだろうか。
いや、それよりも――郁子自身にこそ、いったい何があったのだろう。
自分は確かにマンションの自転車置き場にいたはずなのに、今いる場所は見知らぬ部屋の中。
ライターを付けた瞬間にものすごい衝撃にさらされた記憶から推測するに、その時の火の作用で爆発か何かが起こり、郁子を吹き飛ばしたのかもしれない。
そうだとしたら、わずかな火傷と打ち身で済んだのは運がよかったのだと言える。
ただ、吹き飛ばされてきた先が、一体どこなのかが全く分からない。
「あの……ちょっと……」
「うん?」
「今さらですけど……お邪魔してます」
「ああ」
まさか、道路を挟んだ向かいのお宅だろうか。吹き飛ばされて、窓から突っ込んでしまったのだろうか。
しかし郁子の記憶が正しければ、そのお宅に住んでいるのは老夫婦で、目の前の彼のような外人男が家に出入りしているのは見たことがない。
さらに、向かいのお宅は昔ながらのこじんまりとした日本家屋で、郁子が今いるような豪勢な部屋とはあまりにもイメージがかけ離れている。
もう一度首を巡らせてみると、大きな窓から空が見えていた。
郁子は無言のまま立ち上がり、吸い寄せられるように窓に向かってふらふらと歩いた。
華奢に見えた男だったが、それでも郁子が借りた上着は大きく、もともと丈が長めに作られたそれは、女性の彼女が着ると脹脛まで覆う。
背中に男の視線を感じつつ、ようやく窓辺に辿り着いた郁子だったが、そこから外を覗いた瞬間、再び叫ばずにはいられなかった。
「――どこよ、ここっ!」
思わず窓に貼り付いた郁子の眼下に広がっていたのは、見慣れた自宅周辺の景色とはほど遠い、緑溢れる広大な庭。
そして、その向こうに見える街並は、どこかレトロで西洋のノスタルジックな――とにかく、日本らしさのどこにも感じられない景色だったのだ。
――夢でも見ているのだろうか。
郁子の頭はひどく混乱した。
窓の外の景色をそのまま見ているのが怖くて、震える身体を叱咤して後ずさった彼女だったが、覚束無い足元がもつれて後ろに転びそうになった。
しかし、傾いだ郁子の身体を、いつの間にか側にきていたらしい男が支える。
初めて触れた彼の手は大きく、そしてとても温かかった。
それにはっと我に返った郁子は、ばっと後ろに向き直って思わず彼に縋り付いた。
「あのっ! あのあの、ここはどこなのでしょう? 私は、どうやってこちらにお邪魔したのですか?」
先ほどはついつい砕けた口調で突っ込みを返してしまったが、冷静になってみれば彼とは初対面であるし、不本意ながらも郁子は不法侵入者であるかもしれない。今さらながら言葉を丁寧にし、郁子は恐る恐る男に尋ねた。
すると、彼は「ふむ」と片手を顎に添えてしばし考えるような仕草をしたと思ったら、さらりととんでもないことを告げたのだった。
「君は、ニホンから来たんだろう。ここは、君の世界とは別の世界だ」
「……は?」
「君は、世界を渡って来たんだ。爆風に乗って壁を越えて、違う世界に来てしまったんだ」
「……はあ?」
「いわゆる、ふぁんたじーってやつだよ」
「……なによ、それ」
その時の郁子には、男の言葉の意味も、彼の瞳がやたらとキラキラし始めた意味も、何も分からなかったし分かりたくなかった。
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