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第一章
国王の兄
しおりを挟むいつの間にか、郁子の涙はとまっていた。
ルータスが彼女をソファに座らせると、黒い鞄を持った男が近づいてきた。医者だろうか。
先ほどルータスが突然部屋から消えたのは、彼の到着に気づいて出迎えに行ったのかもれない。
医者は優しい顔をして、「こんにちは、お嬢さん」と郁子に挨拶をした。
父ほどの年齢に見えるその医者も、ルータスと同じように西洋人的な彫りの深い顔立ちをしていた。
「……こんにちは」
郁子が返した挨拶はひどく掠れていたが、医者はにっこりと微笑んで頷くと、まずは彼女の額の打ち身を検分した。
そこに、なんだかとんでもなく消毒液らしい、ツンとした臭いのする液体を染込ませたガーゼが押し当てられる。
とたんにひやりとして、ずくずくと熱を持っていた痛みが和らいだ。
ついで、手足のあちこちにあった軽い火傷にも、同じような臭いのする軟膏が塗り込められる。
それが染みて、かすかに郁子が眉を顰める度に、隣に座ったルータスが励ますように手を握ってくれた。
「……あの」
「大丈夫。痛くない、痛くない」
郁子は、それなりにモテる女だった。
絶世の美女とは言えないが、適度に整った顔は男受けがまあまあよかった。
だから、異性に対する耐性もそこそこ備わっていて、自分は手を握られたくらいで照れたりはしないと思っていた。
しかし、ちらりと盗み見た隣の男は、やはり今までの相手とは桁違いの美形で、少しくらい意識はしてしまう。
何だか、親に病院に付き添ってもらってきた小さな子供のようで、恥ずかしい。
だが、心強いのも確かだ。
家族でも友達でもないのに、下心の欠片も感じさせずに触れてくるルータスに、郁子は戸惑いながらも好感を抱き始めていた。
怪我の手当を一通り終えた医者は、どこか他に痛むところはないか、気分は悪くないかなど郁子にいくつか問診をし、特に異常はないと診断を下すと、「念のために、夜まで安静にしなさい」と言い置いて席を立った。
医者が去ると、その代わりのようにソファに近づいてきたのは、白髪の老紳士だった。
先ほどルータスが戻った時に一緒に部屋に入ってきたらしい彼は、医者が郁子を診察している間扉の脇に控えて立っていたが、それが終わると素早くお茶の用意をし、温めたカップを彼女に差し出した。
「彼は、コルド。我が家の執事だ。――コルド、彼女はイクコ」
「はじめまして、イクコ様。コルド・ショルジュと申します。御用の際は、何なりとお申し付け下さい」
「あ……は、はじめまして。お気遣いありがとうございます」
さっきの医者もそうだったが、この家の執事という老紳士も、やはり西洋人風の見た目に反して流暢な日本語で郁子に話しかけてきた。
そもそも、今いる部屋の大きさからして、家全体も相当な敷地ではないかと想像はついたが、執事まで雇っているとなるといったいどれほどのセレブなのだろうか。
ルータスは先ほど「我が家の執事」と発言したので、彼がこの家の主だと思って間違いないだろう。
コルドが注いでくれた紅茶の香りが、辺りにふわりと広がった。
それは芳しく上品で、郁子は知らず強張っていた肩の力を抜いて、ほっとため息をついた。
「怪我が大したことなくて、よかった。服の手配も頼んでおいたから、じきに着替えも来る」
郁子の隣で同じように執事が入れた紅茶を飲みつつ、ルータスはそう言った。
どうやら彼が先ほど部屋を出て行ったのは、医者の出迎えだけでなく、お茶の用意と郁子の着替えの手配を申し付けるためだったようだ。
一言そう言っていってくれればみっともなく泣いたりしなかったのにと、郁子は心の中で文句を垂れたが、それがお門違いだということは気づいていた。
「いろいろ、お世話になってしまって……」
「かまわない。君はこちらの世界に馴染みがないのだから、遠慮せずに周りを頼っていい」
「……」
ルータスの上着を羽織ったまま縮こまり、かしこまって言った郁子に返ってきたのは、思い掛けず頼もしい言葉だった。
彼の言う“こちらの世界”という表現がまだいまいち理解出来ないが、そんな引っ掛かりを無視出来るほど、その時の彼の言葉は郁子を励ましてくれた。
ルータス・ウェル・コンラート
それが、郁子が出会った男のフルネームだった。
「コンラート? それって……この国の名前って言ってなかった?」
「言った」
「……ん? 国の名前と姓が同じなの?」
「そうだ。コンラートが国名であり、王家の姓でもある」
「……オーケ?」
「王家」
「……おうけ」
「王家、だ」
とんちんかんな郁子と、不親切なルータスの説明を見兼ねたのか、温和な顔に苦笑を滲ませたコルドが二人の会話に口を挟む。
「ルータス様は、現コンラート国王陛下の兄君でいらっしゃいます。イクコ様」
「――っ、こっ……国王陛下!?」
「――は、一つ年下の弟ラウルだ」
「……っ!!」
あまりのことに、郁子はソファに座ったまま飛び上がった。
郁子は、日本の一般階級出身だ。
父親に仕事の才があったおかげで少しくらいは裕福な部類の家庭ではあったが、欲張って言って上の下程度。
就職してからは父親からの小遣いも遠慮していたし、財産放棄した後は頼りなのは自分の収入と貯金だけ。
しかも、一週間前に会社をやめてしまった身なのだから、次の仕事を見つけない限りは貯金を崩さねば生活していけない。
向き合った現実は、どこか今の状況を夢の中のようにふわふわと感じていた郁子を、はっと我に返らせた。
――そうだ、仕事を探さなければならないのだ。
昨日面接に行った残りの二社からは、今日明日中に合否の返事が来るはず。
それに、週末一緒に飲む約束をした後輩渡辺も、連絡をくれることになっているのに。
だが、その連絡を受けるはずの携帯電話も、どうやら今郁子の近くにはなさそうだ。
こうしちゃいられない。
とにかく、国王陛下の兄上だろうが王家だろうが何でもいい。
何とかして、自宅に戻る方法を教えてもらって帰らなければ。
郁子は今度は、側に控えてにこにこしているコルドにそれを尋ねてみることにした。
別に、ルータスが嘘をついているとか、意地悪をして教えてくれないのだとか思っているわけではないが、執事と名乗った老紳士ならば、郁子の望む答えをくれるような気がしたのだ。
しかし――その質問は彼を困らせただけで、郁子のはかない望みが叶うことはなかった。
「申し訳ございません、イクコ様。わたくしは長年コンラート王家にお仕えして参りましたが、イクコ様がおっしゃられる“ニホン”という場所については、何も存じ上げません」
「……そんな……」
本当に申し訳なさそうに眉尻を下げたコルドに、「いえ、こちらこそすみません」と返すだけの余裕が、その時の郁子にはもうなかった。
本当に、ここはいったいどこなのだろう。
自分は、いったいどこまできてしまったのだろう。
ソファを立ち上がった郁子は、ふらふらともう一度窓際まで行き、外の景色を見下ろした。
広く続く立派な庭。
その向こうには、高い塀と門が見える。
そうして、門を越えたずっと先に広がっているのは、建物の軍勢――おそらく、町だ。
その光景は、郁子を焦燥に駆り立てた。
町に行けば、あそこに行けば何か見知ったものがあるかもしれない。
一見テーマパークのようで、見慣れた日本の風景とはほど遠く見えるが、それでも電車やバスなんかが通っているかもしれない。
居ても立ってもいられなくなった郁子はくるりと身を翻し、扉に向かってだっと駆け出した。
「――イクコ」
ところが、そんな彼女の二の腕をぐっと掴み、ルータスが止めた。
「イクコ、落ち着け」
「私は落ち着いてる。冷静です。とにかく町に行って、帰る方法を探すわ」
「いいや、全然冷静じゃない。そんな格好で、いったいどうするつもりだ」
「……」
そうルータスに呆れたように言われ、郁子は自分がぼろ切れになった服の上に、男物の上着を羽織っただけの状態であることをようやく思い出した。
「君の気持ちは分かる。混乱しているのも、俺の話が信じられないのも無理はない。けれど、現実は現実なんだ。認めないと前には進めない」
「……」
「俺の目の前に落ちて来たんだから、俺が責任を持って君を保護する」
ルータスの声はどこまでも平坦で、けして感情的ではない。
けれど、言葉は誠実で力強く、何よりも郁子の心細さを包み込んでくれた。
郁子も自分が今尋常ではない状況に陥っていることを、本心ではもう分かっている。
異世界云々は別としても、何らかの事故に巻き込まれて、常識では考えられない場所までやってきてしまったことも、本当はもう認めないわけにはいかない。
自分は、一人でも、どこでも生きていけると思っていた。
父や母に頼らずとも、男に身を委ねなくても、自由に生きていくんだと思っていた。
けれど、本当にどうしていいのか分からなくなってしまった時、郁子は自分はこんなに弱かったのかと、愕然とした。
「……こわい……」
郁子の口から弱音が吐き出たのは、いったいいつぶりのことだろうか。
そう思うほど、彼女はずっと気を張って、強がって生きてきた。
けれど、そんな郁子を知らないルータスは、彼女の弱々しい声を聞き逃すこともなく、そっと拾い上げてくれた。
「イクコ、大丈夫だ」
彼の声が奏でる“イクコ”の響きはどこまでも無垢で、その名ごと郁子の心を柔らかく包む。
郁子はその時ようやく、強張っていた全身の力を抜いて、ほっとため息をついた。
すると同時に両足の力も抜けてしまい、その場に崩れおちそうになる。
けれど、二の腕を掴んでいたルータスの手がさっと動き、どこかのんびりとした印象の彼らしくない素早さで、郁子を抱き上げた。
その時だった。
軽く扉をノックする音がしたかと思うと、返事を待たずにそれがガチャリと開く。
郁子は、先ほどルータスが着替えを手配したと言っていたので、誰かがそれを持ってきてくれたのだろうかと思った。
扉を開けて入ってきたのは、女の人だった。
執事がいるような大きな家、しかもルータスは王族であるというのだから、メイドが雇われているだろうとは想像できたが、やって来た女性はどうにもメイドには見えない。
ただ、その腕には華やかなフリルのついた衣服が掛かっているので、郁子のためにそれを持ってきてくれたのかもしれない。
彼女は部屋の中に足を踏み入れ、郁子を抱き上げたルータスを見ると、両目を見開いて固まった。
「ルータス……?」
意外にもハスキーな声がその名を奏でた時、もしかしたら彼女はルータスの妻か恋人かもしれないと思った。
何故だか、郁子の胸はずきりとひどく痛んだ。
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