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第一章
単純思考回路
しおりを挟む「……」
「どうした? イクコ。やけに大人しいな」
開き直りというのは、心の平穏を保つためには最適の手段であると、郁子は知った。
現在、爆発で破損したルータスの私室兼研究室は、修繕の真っ最中である。
危ないからと、執事コルドに部屋を追い出された二人だったが、いまだ郁子の足を包む靴がない。
あの後、一度退室したリヒトが靴を何足か見繕って戻ってきたが、残念ながらそのどれもが郁子の足にぴったりとはいかなかった。
郁子本人としては、少しくらいのサイズ違いは気にならないのだが、そう言う彼女にリヒトはきっと眦をつり上げた。
「だめだよっ、絶対だめ! 衣類に関しては絶対に妥協を許さない主義なんだ。待ってて、すぐにイクコちゃんにぴったりなのを手配するからっ!」
彼はそう言うと、愛馬を飛ばして自分の屋敷に戻っていった。
そういうわけで、とりあえずは室内履き用の柔らかい靴が用意され、郁子はそれを履いて絨毯の敷き詰められた廊下を移動した。
屋敷の中には、やはり予想通り何人ものメイドが働いていて、郁子を見ると不思議そうな顔をしてみせたが、悪意のこもった視線は一つも感じなかった。
執事コルドが手配してくれた客室は、大きなリビングにトイレ・バスに繋がるドアと、奥には寝室がある。
間取り的には郁子の住んでいたマンションと似ていたが、当然それよりもずっとずっと広い。
そしてそこには、ルータスとコルドに連れられてやってきた郁子を出迎える者がいた。
「はじめまして、イクコ様。サラ・メイヴェルと申します」
そう名乗って優しく微笑んだのは、郁子やルータスよりも少しだけ年上らしい、落ち着いた雰囲気の女性だった。
亜麻色の髪を綺麗にまとめ上げ、紺のワンピースに白いエプロンドレス・黒いタイツに靴と、まさにイメージ通りのメイドさんの格好をした彼女は、コンラート家に仕えるメイド長なのだそうだ。
サラは、郁子の額に貼ってあったガーゼを見て痛々しそうな顔をしたが、ルータスが医者が大事ないと言ったと伝えると、ほっと表情を綻ばせた。
「お困りのことがございましたら、何なりとおっしゃって下さいね。ルータス様は気が利かないので、私を頼って下さいませ」
「……」
にっこりと微笑んでそう言ったメイド長の言葉に、気が利かない自覚があるらしいルータスは否定も抗議もしなかった。
サラはルータスの乳母の娘で、二人は乳姉弟にあたり、たいへん気が置けない間柄のようだ。
突然玄関をすっ飛ばして主人の私室から現れた女を、訝しがる様子も見せず温かくもてなせるのは、執事もメイド長もプロの使用人であるからだろうか。
それとも人間として、いくらか郁子の存在を受け入れてくれたのだろうか。
後者であってくれればいいのにと、右も左も分からぬ郁子は心の中でそう願った。
リビングと寝室はベランダでも繋がっていて、欄干から下を覗けばやはり見事な庭が見渡せた。
ルータスは、その向こうに目を凝らす郁子の後ろ姿を眺めていたが、退屈なら庭に出てみるかと誘った。
しかし、先にも述べたとおり、いまだ郁子の足を包む靴がない。
さすがに室内履きで外に出るのは憚られて逡巡していると、とことこと近づいてきたルータスがおもむろに彼女を抱き上げた。
「――ぎゃっ! ルータス?」
「うん?」
「なっ、なんで抱っこしてくれたの?」
「だって、靴がないから困っているんだろう?」
“靴がなくて庭に出るのをためらうなら、足を地面につけなければいい”
そんなものすごく単純な思考回路が、ルータスに彼女を抱き上げさせたらしい。
「えっ……ちょっ、ちょっと……!?」
小さな子供でもあるまいし、さすがにそれは……と顔を引きつらせる郁子になど構わず、「うむ、名案」とばかりに一人納得したルータスの足はすでに庭に向かっている。
郁子は助けを求めるように、部屋の中に控えていた執事コルドとメイド長サラに視線を向けたが、彼らは主人のそんな言動にも慣れっこなのか、微笑ましいものを見るようににこにことしながら「いってらっしゃいませ」とのたまった。
そういうわけで――現在、郁子は緑溢れる庭園を、会ってまだ数時間も経たない美形に抱き上げられて散策するという、客観的に見れば“おいしい”状況にあるのだった。
庭は、上階から見下ろしたとおり実に見事であった。
日本における入場料を取るような高級な庭園に、少しも退けをとらないだろうとさえ思う。
しかし郁子にしてみれば、ただただカチコチに身を硬くして、散策を楽しむどころではない。
もともと全体的に細身の体型ではあるが、身長自体は百六十センチと日本の成人女性の平均。
郁子は、そんな自分をずっと抱いているのはたいへんなのではないかと、ひどく恐縮してしまう。
「お、重いでしょ、ルータス。あの、部屋に戻ろう? 靴をもらうまで大人しくしているから……」
「別に重くない。それに、部屋にじっとしているなんて退屈だろう?」
「でも……そうだ! 本とか、この国のことが載っているものを見せてくれない?」
「それは別に構わないが……さっきも言ったが、文字は君たちの使っていたものとは違うから、読めないと思うぞ」
それが事実か否かは、後ほど部屋に戻ってから郁子は知ることとなる。
結局、緊張する郁子を終始気にすることもなく、抱き上げたまま庭木や花々の間をそぞろ歩きながら、ルータスはそれらについてぽつぽつと説明した。
もともと、そう口数の多い方ではないらしい彼だが、植物の研究を生業にしているだけあって、それ自体が好きなのだろう。
自分が品種改良に携わって咲かせた花を、そうとは知らない郁子が「綺麗だね」と素直に褒めると、とても嬉しそうな顔をした。
途中の果樹園で彼がもいで渡してくれた果実は、温かい太陽の香り。
勧められるまま齧り行くと、梨に似た果肉がシャクッと音を立て、甘酸っぱくて瑞々しい果汁が口の中いっぱいに広がった。
ルータスは疲れた素振りも見せず、郁子を抱いたままゆったりとした足取りで庭を案内してくれた。
照れくさく感じているのは郁子ばかりで、彼の方はまるで本当に子供かペットを抱いているように、ほんの欠片も下心をのぞかせることもない。
そんな相手を見ていると、郁子の方もだんだんと一人ドギマギしている自分が馬鹿らしくなってきた。
そうして、「ルータスがいいって言うんだから、いいか」と開き直ってみれば、やはり見渡した庭園は素晴らしかった。
一面を包む緑が生み出す空気は澄んでいて、排気ガスの臭いも、煙草の臭いも、濃い香水の臭いも――人工的な臭いは一切しない。
思わず、肺一杯に深く空気を吸い込む。
そうすると、疲れと汚れと、たぶん心の奥の方でずっと幼い頃からこびり付いていただろう寂しさも、すっと払拭されるような気がした。
心と身体の中が綺麗な空気に洗われて少し気持ちが軽くなった郁子に、その時ふわりと香ってきたのは、ぴたりとくっつく男の香りだ。
ほのかなそれに包まれているのはいやに心地よく、郁子はそっと力を抜いて、彼の腕にようやく身体を預けた。
「……本当だ……読めない……」
庭の散策を終えて郁子に与えられた客室に戻ってくると、ルータスは電話帳のように分厚い本から絵がほとんどを占める絵本まで、様々なジャンルの本を持ってきてくれた。
しかし彼の言ったとおり、中に書かれた文字を郁子が読むことはできなかった。
どこか幾何学的な文字は、郁子の知るどの外国語とも違っていて、まったく理解出来ない。
しかし、先ほどルータスが話していた、郁子よりも先にこの世界に飛ばされてきたという女子高生は、すでにその読み書きを憶えて扱えるようになっているのだとか。
「そりゃ、十代の子の柔らかい頭だったら、憶えるのも簡単かもしれないけど……」
「イクコも頑張れ」
がっくりとため息をつく彼女に向かい、淡々と応援の言葉を口にしながら、ルータスが紙の上にさらさらとペンを走らせた。
もちろんシャーペンでも鉛筆でもない、無駄にゴージャス感の漂う羽根ペンだ。
そんな時代錯誤的アイテムで何を書いたのかと郁子が彼の手元を覗き込むと、若干不格好ながらもなんとか読める字でこう書かれていた。
『がんばれいくこ』
「――っ! ルータス、日本語書けるんだっ!?」
「そのジョシコウセイに、ヒラ仮名っていうのを少し習った」
ルータスはそう言って、平仮名をあいうえお順にぽつぽつと書き始めた。
その姿が随分と一生懸命で、郁子は(なんだか、可愛い人だな……)などと、年上の男性には若干失礼な感想を抱きつつ、ふっと口元を綻ばせた。
そして、「ちょっと貸して」と彼の手からペンを奪うと、不格好な平仮名群の横に大きくインクを走らせた。
『郁子』
「これは?」
「私の名前。漢字でこう書くの」
「漢字は……難しい……」
ルータスはううむと一つ唸ったが、郁子の手からペンを取り返すと、彼女の字をお手本に『郁子』と書き始めた。
紙の上には、幼い子供が書いたようなヘロヘロの『郁子』がいくつもいくつも誕生する。
けれど、郁子にはその一つ一つが何だかとても愛しいものに思えた。
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