雲の揺りかご

くる ひなた

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第一章

世界の客人

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 朝はまた、繰り返しやってきた。
 
 さらに郁子には、前日に引き続き非常識な目覚めもやってきた。

 ペロペロペロペロペロペロペロペロ

「――!? ぎゃあっ……!」

 ペロペロペロペロペロペロペロペロ

「まっ、また、うしぃーっ!!」
「おお、おはようイクコ」

 仰向けに安眠を貪っていた郁子の頬を、生臭い舌で一心不乱に舐め回していたのは、昨日の朝と同じく真っ白い毛並みの子牛。
 そしてその背後から、無駄に爽やかな笑みを浮かべて挨拶をしたのが、ルータスの長兄アーヴェルだった。
 アーヴェルは目覚めた郁子に満足そうに頷くと、子牛を抱き上げてルータスの脇に下ろした。
 すると、子牛は今度はルータスの頬をペロペロとし始める。
 昨日の朝と同じ事の繰り返しである。
 しかし、子牛の唾液に塗れた頬の気持ち悪さよりも、郁子はあることに気づいて再び愕然とした。

「お前達、連日同じベッドとは、仲がいいな」
「……」

 ベッドに起き上がり、呆然とした様子で子牛の唾液まみれになるルータスを見下ろしていた郁子に、アーヴェルがにやりと笑って声をかけた。
 彼の言う通り、結局昨夜も郁子とルータスは同じベッドで眠ったらしいのだ。
 ルータスはどうかは知らないが、郁子は間違いなく酔い潰れた。
 ワインがとにかく美味しくて、二杯目のグラスを空にしてからの記憶がない。
 ただし、自分も隣に寝転がっているルータスも、今夜も夜着を脱いだ形跡はない。
 アーヴェルの方は、どうやらそれが不満らしい。

「しかし、若い男女が同じベッドで寝て、連日何もないとはどういうことだ。枯れているのか、お前達」

 逞しい両腕を組み、呆れた様子でそう零すアーヴェルに、「枯れてなんかない! まだまだピチピチよっ!」と言い返そうとした郁子だったが、その前に隣でペロペロの刑を受けていたルータスが身じろいだのに気づき、彼に向き直った。
 ようやく眠そうな目を開けたルータスが、子牛の顔を両手でそっと包み込んで、「イクコ、また毛深くなったのか?」とつぶやいたのも聞き逃さない。
 のろのろとベッドの上に身を起したルータスは、子牛と反対側からじとりと睨みつける郁子に気づき、「おお、間違えた」と小さくこぼしてから、ベッドサイドに仁王立ちする長兄に顔を向けた。

「おはようございます、アーヴェル兄上。連日うちにいらっしゃるとは珍しい。どうかしましたか?」
「どうもこうも。お前とイクコが心配で見にきたのだ。今朝こそはと思ったが、まったく……」
「はあ……」

 ああ、嘆かわしいと、大げさなため息をつくアーヴェルに対し、まだ寝惚けた様子のルータスは両目を擦りながら、気のない返事を返した。
 その様子を眺める郁子の口からも、ため息がもれる。
 自分とルータスの間に何も起こらなかったのだと知った時、今日は明らかに安堵よりも落胆の気持ちの方が大きかった。
 彼とは、昨夜酔い潰れる前にキスをした。
 触れるだけの稚拙なキスだが、その時は二人とも確かに素面だったし、それによってお互いの心がより歩み寄った気さえした。
 郁子は、ルータスが嫌いではない――いや正直に言うと、かなり好意を抱き始めている。
 彼はつかみ所がなくて非常識な所もあるが、基本穏やかで優しいし、郁子を甘えさせてくれる。
 おそらく、ルータスも郁子を嫌ってはいないだろう。
 しかし、アーヴェルが呆れる通り、同じベッドで眠った年頃の二人の間には、何一つ色っぽい事が起きなかった。
 ルータスは、郁子が隣で無防備に眠りこけていても手を出したいと思わないのだろうか。
 それは、彼が紳士だからというよりも、郁子にそれだけの魅力がないからなのだと思えてならない。
 きっと酔った勢いで抱かれても嬉しいはずはないのに、何かを期待してしまう自分が虚しく、郁子は黙って俯き唇を噛んだ。
 そんな彼女の様子には微塵も気づかず、ルータスはベッドの上に乗っていた子牛をアーヴェルの方に追いやりながら、思い出したように告げた。

「我々の隣国行きですが、結局明日以降になりそうです」

 それに「そうか」と頷いたアーヴェルは、ベッドの上をのしのし歩いて戻ってきた子牛を抱き上げる。
 次いで、「ふむ……」と顎に手を当ててしばし考える素振りをしたと思ったら、くるりと郁子の方に向き直った。

「して、イクコ。そなた、乳搾りをしたことはあるか?」
「……え? ちち……?」
「俺の所に、乳牛がたくさんいる。どうだ、搾りにこないか」
「……ええっと……」

 突然のアーヴェルの申し出に、郁子は戸惑った。
 もちろん、彼女に乳搾りの経験はない。
 牛乳や乳製品は好んで口にする方だが、その生産過程についてはさほど興味はなかった。
 しかし、何ごともきっぱりばっさり断るのが苦手なのが日本人のやっかいなところ。
 郁子は愛想笑いを浮かべて「まあ……また、機会があれば」と言葉を濁したのだが、そんな曖昧な返事はアーヴェルには通用しなかった。

「機会があったらってなんだ。隣国行きが明日以降ということは、今日はどうせ暇なのだろう? 今から来い」

 彼はそう言うと、側の椅子の背に掛けてあったガウンを郁子の肩にかけ、片腕には昨日と同じように子牛を、反対側の腕には郁子を抱えた。

「――っは? えっ? ちょ、ちょっと!?」

 がっしりとした腕が腹に回って、郁子は突然のことに驚くとともに、恥ずかしくて頬が赤くなった。
 慌てて顔を上げると、ベッドに座ったまま呆然とこちらを眺めているルータスと視線がかち合う。
 何とかしてと助けを求めようとしたが、それよりも早くアーヴェルが彼に向かって口を開いた。

「異世界人っていうのは面白い。お前の恋人かと思って昨日は遠慮したが、どうやら違うようなので少し借りていくぞ」
「兄上……」
「珍しいものに興味があるのは、お前だけではないのだ」
「……」

 アーヴェルの有無を謂わさぬ雰囲気に、ルータスは困惑しながらも逆らえない様子。
 小脇に抱えられたまま「ルータス」と名を呼ぶと、その視線は一瞬郁子を捉えたが、すぐに色を無くして逸らされた。

「……行ってくればいい。俺といても、どうせ退屈だろう」

 その返事を聞いたアーヴェルは、ふんと小さく鼻で笑って「じゃあ」と告げると、郁子と子牛を軽々と抱えたままベッドから離れた。

「ルータス?」

 お腹を圧迫された体勢で、大きな声は出ない。
 郁子の声には何も答えないまま、ルータスはベッドの向こう側に脱いでいた靴を履くためにくるりと背中を向けてしまった。
 

 アーヴェルが廊下に出ると、彼の小脇に抱えられて夜着にガウンを羽織っただけの郁子が現れたことに、当然ルータスの屋敷の使用人達は驚いた。
 主人の長兄の非常識には慣れっこらしい彼らも、これはさすがに黙って見過ごすわけにはいかなかったらしい。
 執事コルドは古くから王族に仕えるだけあって、アーヴェルとも馴染みが深いらしく、困ったように彼を呼び止めた。

「アーヴェル様、おはようございます。右腕のお方は我が家の大切なお客様でございます。失礼ですが、どちらにお連れになるおつもりですか?」
「おお、おはようコルド。イクコはこの家の客人であるとともに、この世界全てにとっての客人でもある。せっかくなので、我が家においてももてなそうと思ってな」
「さようでございますか。ですが、イクコ様はルータス様にとって特別な方。いかにアーヴェル様といえど、お委ねするわけには……」
「そのルータス本人が、行ってこいと送り出したぞ」
「――なんですって!?」

 アーヴェルの言葉に悲鳴のような声を重ねたのは、コルドの後ろでそれまで静かに控えていたメイド長サラだった。
 彼女は郁子が初めて見るような怖い顔をしたと思ったら、くるりと身を翻して廊下を駆けて行った。
 おそらく、彼女が向かったのはルータスを残してきた客室だろう。
 かすかに「ルータス様っ、どういうおつもりですかっ!」と彼を叱責するような声が聞こえたが、それ以上を耳に入れる前に、郁子を抱えたアーヴェルは再び歩き出して、戸惑う弟の使用人達を残して玄関を出て行った。
 そうして、郁子は寝間着姿のまま、ミルクポットがたくさん積まれた荷台にぽいと載せられる。
 前の御者台にひらりと飛び乗ったアーヴェルは、すぐさま手綱をとって馬を発進させた。

「ちょっ……ちょっと、まっ……」
「喋っていると舌を噛むぞ」

 首だけ振り向いてにやりと返した男の言う通り、昨日ルータスと一緒に王城に向かう時に乗せられた馬車よりも車輪が荒いのか、走り出した荷馬車はガタガタと揺れて、決して乗り心地のいい物ではなかった。
 郁子は思わず、一緒に荷台に乗せられた子牛にしがみつく。
 柔らかな白い毛に覆われた身体は温かく、甘いミルクのような匂いがして少し心が落ち着いた。
 けれど背後を振り返り、遠ざかっていく屋敷を見たとたん、えも言われぬ不安が郁子を襲った。
 たった二晩過ごしただけであるが、不可解な状況に投げ出された郁子にとっては、唯一ほっとできる場所だった。
 そして、その屋敷の当主であるルータスとは、昨夜ワイン片手にお互いの心が確かに近づいたはずだった。
 それなのに――

「ルータス……」

 最後に見た彼の背中が自分を拒絶していたように思えて、郁子は鼻の奥がつんとひどく痛んだ。

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