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第二章
グラディアトリア
しおりを挟むカラカラと回る車輪の音は、あまり郁子には馴染みのないものだ。
土が剥き出しの地面はのどかな田舎道を連想させる。
アスファルトなどで舗装されているわけではないが、道自体は綺麗に均されていて、整備が行き届いているのがよく分かる。
慣れない馬車の旅であるが、メイド長サラが用意してくれたクッションのおかげで、郁子も快適に過ごすことができていた。
ルータスの屋敷を出発し、王城を左手に見ながら市街地を抜けてしばらくすると、辺り一面広大な牧草地帯に変わった。
建物など、ぽつりぽつりと遠くに点在するだけで、見渡す限り緑の絨毯。
そして見えるのは、もこもこの羊が草を食む姿ばかり。
一時間ほど馬車で走った頃、ようやく前方に大きな建物が見えてきた。
それは、コンラートとグラディアトリアの国境に設置された共同の警備隊の詰め所であり、越境する者の検閲をする関所のような所だった。
長年友好関係にある両国だから、検閲とは名ばかりで、コンラートの王兄ルータスなどはさすがにほとんど顔パスだった。
見慣れぬ郁子の黒髪に、警備隊の騎士は少し不思議そうな顔をしたが、彼女には身分証の代わりにコンラート国王ラウル署名の通行許可証が用意されていたので、何の問題もなく通してもらえた。
ルータスが郁子を国王陛下夫妻と引き合わせたのは、その許可証をもらう目的もあったらしい。
今回御者を務めてグラディアトリアに同行するのは、ルータスの執事コルドである。
検閲の合間にと、御者台を下りて馬達に水を与える彼に倣い、郁子も馬車を下りてみた。
周囲には、何人か制服を着て帯剣した男達がいたが、その制服が二種類ある。
共同の警備隊というのだから、一方がコンラートで一方がグラディアトリアの騎士なのだろう。
(騎士って……ねぇ……?)
そう、現代日本では馴染みのない存在に戸惑いながらも、二種類の制服の男達が混じり合って和気あいあいと仕事をしている様子に、二つの国が本当にいい関係を築いていることがうかがえて、郁子は少し微笑ましく感じた。
「国境を超えたら、グラディアトリアの王都まで半日くらいかかる。大丈夫か、イクコ?」
「大丈夫だよ。外の景色見るの楽しいし」
ルータスの態度は相変わらず淡々としていて、それはベッドを共にしてからも変わらなかった。
ただ、時々無意識のように手を伸ばしてきて、郁子の髪を撫でてくれる。
それが照れくさくもあり、けれど甘えてもいいのだと言われているような気がして、少し嬉しい。
親にも他人にも、恋人達にも甘えることなく今まで生きてきた郁子。
自分は強いんだ、一人でも平気だと気を張って己を保ってきたが、それがただの虚勢であったのだと気づかされたばかりだ。
わけの分からぬ状況と、見知らぬ土地に見知らぬ人々。
けれど、ルータスに寄り添って見回す世界は、決して郁子を拒絶することなく、温かく迎え入れてくれる。
馬車を引く二頭の馬の瞳すら、郁子を慈しむように穏やかであった。
警備隊の詰め所を後にして、郁子達の乗った馬車は国境を越え、グラディアトリア領内に入った。
しばらくは、コンラート側と似たようなのどかな田舎道が続いていたが、やがて街道の周囲に建物が現れ始める。
まさしく、古き良き西洋の街並を思い起こさせる、趣溢れる建物の数々に、郁子は窓の外の景色に思わず見入った。
グラディアトリアは、コンラートよりも都会な印象を受ける。
「グラディアトリアは、資源はそれほど豊富な国ではないが、様々な産業が発達して加工技術に優れている。コンラートから輸入した原材料を実用的に加工して、それをまた輸出することで多くの外貨を得ているんだ」
「ふうん……両国とも、経済の面においても持ちつ持たれつの関係にあるのね」
「まあ、そんな感じ」
幼少期を弟ラウルと共にグラディアトリアで過ごしたルータスにとって、この隣国は第二の故郷と言えるのかもしれない。
郁子に倣って街並を眺める彼の視線は、柔らかく親しみに溢れていた。
そうして、ついに馬車はグラディアトリアの皇都に入った。
遠くにそびえ立つのが、皇帝陛下が住まう王城。
現在この国を治めるのは、ルータスの幼馴染みであるレイスウェイク大公爵の腹違いの弟、ルドヴィーク・フィア・グラディアトリア。
御年弱冠十八歳というから、驚きだ。
しかも、お飾りの皇帝様ではなく、実際に国を動かす最高権力者らしい。
「別に、驚くことでもない。俺たちの世界の成人は十六歳だって言っただろう? 実際ヴィオラントもルドも十六で玉座に就いたんだ」
「はあ……」
十六歳で一国を背負う。
自分の世界の一般的なティーンズ達とは比べようもない重責に、郁子の口からはため息しか出ない。
そんな、カルチャーショックに呆然とする郁子を乗せて、馬車は軽やかに街道を進んだ。
途中、休憩をとるために立ち寄ったのは、大きな馬房を備えた建物だった。
馬車を移動に使う上流階級がよく利用する店らしいが、だからと言っていちげん様お断りというわけでもないらしい。
ただやはり警備上の理由からか、一般客とは出入り口が別になっていて、郁子の世界で言うVIPルームのような個室がいくつかあるらしい。
ルータスはコンラートの王族であるから、正真正銘のVIP。
店の者達の歓迎や通された個室の豪華さに郁子は恐縮するものの、王兄殿下の連れである彼女も間違いなくVIPだった。
それでなくても、この世界で黒髪は珍しいらしく、挨拶に来た店主がやたらと褒めたたえた。
それを社交辞令と受け取った郁子は、社会人らしく控えめに礼を言って当たり障りのない言葉を返す。
しかし実際のところ、服飾のスペシャリストたるルータスの次兄リヒトが選んだドレスは、郁子の魅力を最大限に引き出す素晴らしいもので、店主達は彼女を隣国の王兄殿下の大切な貴婦人と信じて疑わなかった。
「ルータス様、少しよろしいでしょうか」
「どうした、コルド」
食前酒が注がれた頃、馬車を店の係の者に預けてきたコルドが、そっとルータスに耳打ちした。
郁子は何だろうと彼らの様子を伺いつつ、ピンク色の食前酒にそっと口をつける。
しゅわっと舌の上で炭酸が弾けて、思わず笑みが零れた。
「馬房に、グラディアトリア皇家の馬車が――おそらく、皇太后陛下が店内にいらっしゃるとお見受けします」
「エリザベス様が? これは、久しい。是非挨拶に伺おう――イクコ、おいで」
「え……?」
きょとんと首を傾げている間に、郁子は椅子から立ち上がったルータスに腕を引かれて個室から連れ出された。
あやうく手に持っていたグラスを引っくり返すところだったが、さっと手を伸ばしたコルドが受け取ってくれて事無きを得た。
慌てて「すみませんっ!」と謝る郁子の声に、老執事は微笑みを返してそれをテーブルに置き、彼女をぐいぐいと引っ張って歩き出した主人の後に続いた。
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