雲の揺りかご

くる ひなた

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第二章

告白

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 とにかく、恥ずかしくて顔から火を噴きそうな郁子は一人になりたかった。
 しかし、とっさに部屋を飛び出しはしたものの、ほんの二時間ほど前に初めて訪れたばかりの他人の家。
 しかも、どこかゴシックテイストのゴージャスな屋敷は、廊下の床までふかふかの絨毯が敷き詰められていて、ヒールの靴で走ると足元をとられそうだ。
 途中、玄関で出迎えたこの家の侍従長や、お茶の用意をした女官長とすれ違い、彼らは真っ赤な顔をした客人に「おや」「まあ」と驚いた様子だったが、廊下を走る彼女に眉を顰めるようなことはなかった。
 その他にも、何人か使用人らしき人物とすれ違ったが、頭に血が上った郁子にそれを構う余裕はない。
 後から考えれば、屋敷の規模の割に人が少ないように思ったが、レイスウェイク家の使用人が少数精鋭なのは有名なことらしい。
 特に行く宛もなく我武者らに走っていた郁子は、ついに一階の玄関に辿り着いた。
 付近に張り付いているポトスな蔦執事セバスチャンが、彼女を宥めるように蔓を伸ばしてきたが、それを無視して扉を開け外に飛び出す。
 郁子の足は、自然と先ほど菫に手を引かれて行った庭の方へと向いた。
 顔の熱は、まだまだ収まらない。
 しかし、普段あまり運動をしない郁子はだんだんと息が切れてきた。
 そんな時、すっかり馴染み深くなった声が背中から追ってきた。

「イクコー」
「!」

 のんきに走ってくるように見えて、ルータスは意外に足が速い。
 彼の顔を見たとたん、慌てて猛ダッシュしたつもりだったが、すぐに追いつかれて腕を掴まれてしまう。
 はあひいと息を荒げる郁子はぐいと引き寄せられ、まったく息の乱れていないルータスの胸にぎゅっと抱き込まれた。
 ただでさえ酸欠なのに、驚いて息を止めてしまっては窒息するしかないではないか。
 精神的にも身体的にも機能停止した彼女を抱き締め、ルータスは相変わらず淡々とした口調で「捕まえた」と呟いた。

「イクコ、足遅いな」
「うう、うるさいっ! あんたが早過ぎるのよっ!」
「じゃあ、逃げても無駄だから、大人しくして」
「――っ!?」

 なんとか息を吹き返した郁子だったが、今度は苦しいほどの力で抱き締められて息が詰まった。
 ドキドキとうるさいほど響くのは、何も彼女の胸だけではないと、きつく密着した身体が教えてくれる。
 はからずとも、二人が立ち止まったのは先ほど菫に誘われてお茶をした場所。
 すでにテーブルと椅子が片付けられていたので郁子は気づかなかったが、そのちょうど真上――三階のテラスは屋敷の当主の私室に通じている。
 そこからそっと二人を見下ろす二対のアメジストに気づく余裕も、彼女にはなかった。
 郁子を拘束する男の腕が緩む気配はない。
 彼女はそれにどこかほっとしながらも、いまだ収まらない羞恥心を持て余して、ルータスの胸をドンと叩いた。


「どうしてっ――人前で平然とああいうこと言うのっ!」
「別に、悪いことをしているわけじゃないんだから、隠さなくたっていいじゃないか」
「いい悪いの問題じゃないのっ! そもそも、あんたに慎みってもんはないのっ!?」
「何を慎まなきゃいけないのか、意味がわからない」
「あんたねっ……」

 イライラを打つけているはずなのに、逆にイライラがつのるルータスとの会話に、郁子は「ああ、もおおっ!」っと頭を掻き乱したくなった。
 実際に腹立ちまぎれに、目の前のお綺麗な髪をぐしゃぐしゃと乱してやる。
 しかし、赤味の強い金髪をパンクな髪型にされたことを露程も気に掛けず、歯に衣を着せぬ男は淡々と続けた。

「俺はイクコが好きで抱いたんだ。慎むどころか、むしろ言いふらしたい。好きだし、もっと抱きたいって」
「――っ!」
「イクコも恥ずかしがってばかりじゃなくて、ちゃんと言って。俺のこと、どう思ってるの?」
「ど、どうって……」

 ルータスの真っ直ぐな言葉と視線に、郁子はたじろいだ。
 
「今は誰もいない。恥ずかしくないだろう。言って、イクコ」
「……」

 三階のテラスからこの屋敷の当主夫妻が見守っているが、郁子はそれに気づいていないので問題ない。
 ルータスに至っては、気づいていてもまったく問題ではない。
 それでも目を泳がせて口籠る郁子に、彼は少しだけ眉を寄せて言った。

「……さっきは、イクコがワタナベって男と親密そうに話してるの、だんだん聞いてて嫌になった」
「え? でもルータス、渡辺君は実は私の弟だったって聞いてたでしょう?」
「でも、嫌だったんだから仕方がない」
「……」

 開き直るルータスに、郁子は唖然とする。
 そんな彼女をしっかり腕の中に捕まえたまま、彼はなおも続けた。

 携帯電話の向こうに話しかける郁子は、どこか遠い存在のように思えたと。
 郁哉と言葉を交わす彼女は、ひどく元の世界が愛おしそうに見えたのだと。
 郁子が、向こうに戻ることを強く望んでいるように感じ、焦燥にかられたのだと。

 その後、ふうと小さくため息をこぼしたルータスの顔は、今まで見たこともないほどの憂いを浮かべていた。

「嬉しそうなイクコを静かに見守ってやれない俺に……君を好きだと言う資格はないだろうか」
「そんなこと……」
「自分が……こんなに心が狭いとは知らなかった」

 そうして、薄緑の瞳を長い睫毛の下に隠してしまった男の顔を、郁子はまじまじと見つめた。
 彼女がコンラート王族の長兄アーヴェルの屋敷に連行され、ルータスが連れ戻しに駆け付けてくれたのは昨日の出来事。
 その帰り道、慣れない馬上の郁子を後ろから抱き支えながら、足元の定まらない己が彼女を保護していていいものかと、苦悩する胸の内を打ち明けた時――ルータスは郁子の肩に顔を埋めていたので分からなかったが、もしかしたらあの時も今のような苦しそうな顔をしていたのかもしれない。

 そんな顔をしないで。私だってあなたのことが――
 
 そう叫んで、抱き締め返したくなった。
 ただし、ひどく淡白でマイペースな彼を自分はこんなに恋煩わせたのかと、少し誇らしい気持ちになってしまったのも事実。
 郁子は顔がにやけそうになるのを必死に抑えながら、ルータスの憂い顔に罪悪感をつのらせる。
 そんな彼女の複雑な表情を見て何を思ったのか、ルータスはもう一度ため息をつくと、意を決したように郁子に向き直った。 


「実は、イクコに一つ謝らなきゃいけないことがある」
「……」

 本当に一つだけ!? もう一回数え直してみてよ! 

 と言いたいのは、ぐっと堪えた。
 
 彼、いわく――

 初めて出会った日の夜。
 郁子が与えられた客室で一緒にワインを飲み、酔った彼女からルータスにキスをしたのは本当。
 ただし、郁子は唇をくっつけるだけのソフトなキスだったのに、舌を入れてディープキスにしたのは実は彼の方からだったというのだ。

「――なっ!? な、な、なんでそんなことっ……」
「だって、イクコが可愛かったんだ、すごく。あの時、キスだけで留めた自分の理性を褒めたい」
「なっ……」
「警戒されるといけないと思って、自分から舌入れたことは黙ってた」
「……」
「でも、俺のこと意識してほしいから、親愛のキスじゃないことを知っておいてほしかった」
「だからって……お兄さんの前で言うことなかったんじゃ……」

 あの時アーヴェルもいる前で、酔って前後不覚になった自分がルータスを襲ったように言われて、どれだけ恥ずかしかったと思ってるんだ。
 郁子がその時の恥ずかしさを思い出して真っ赤な顔で睨むと、ルータスはまたもきょとんとした顔で口を開いた。

「ごめん?」
「なんで疑問形で謝るのよ」
「帰ったら、アーヴェル兄上に弁明するか?」
「……いいよ、もう」

 結局は、相変わらずのルータスのペースに流されて、郁子は全てを許してしまう。
 それが、本当はそれほど不快ではないのだ。

「イクコが欲しかった。たぶん、あの時にはもうそう思ってた」

 何故なら、彼は言葉を飾ることはしないけれど、想いだけは真っ直ぐに伝えてくれるから。

「元の世界にも、どこにも返したくない」

 背中にまわっていたルータスの腕に力が入り、郁子の顔はぐっと彼の胸に押し付けられた。
 いつもより早いリズムを刻む心臓の音と、さらりと上質な絹の肌触り。
 こめかみにそっと触れた唇が、かすかに掠れた声で告げた。


「イクコが、好きだ」


 その言葉は、たちまち郁子の心に染みてゆく。
 どこかいとけなく無垢な響きの中に確かにルータスの愛情を感じ、それに触発されたように郁子の想いも溢れた。
 ぎゅっと両腕を回し、彼を抱き締め返す。
 恥ずかしくて目を合わせては言えないので、彼の胸に顔を押し当てる。
 そして、この言葉がそのまま心臓に届けと願いを込めて、郁子はようやく自分の想いを口にした。

「私も……好きだよ」
「誰が?」
「あ・ん・た・がっ!」

 ――他に誰がいるって言うのよ!

 結局郁子は顔を上げ、ぷんすか怒ったようにそう言うと、ルータスは「ふふ」と小さく微笑んだ。
 それがかつてないほど嬉しそうに見えて、郁子も赤らめた頬を緩めた。


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