獣の楽園

戸笠耕一

文字の大きさ
上 下
17 / 26
第二章 宮内恵

3

しおりを挟む
 午後十時。学との密会はいつも押す。家は薄暗い。キッチンとダイニングは電気を消されている。ここ最近家事育児はすべて夫の守に任せっきりになっていた。

「ただいま」

 返事は特にない。守は十時過ぎには自室に戻り、日付の変わる前に寝てしまう。律儀で勤勉さだけが取柄だから仕方がない。

 子ども用のベッドにちょこんと誉が寝ている。醜い競争社会の中での希望。この子はいずれ白鷺のブランドを背負う後継者となる。

「誉、ただいま~。寝ちゃったの?」

 かすかな寝息声が聞こえてくる。愛息の顔を見ることが唯一のこの家での醍醐味だった。

 生まれたときは誰でも無邪気で可愛いもの。歳月がたつと汚れて行ってしまう。自分だってそう。

 自分の役割は誉に害悪が注がられぬよう環境を整えてあげることなのだ。自分の取り分を取り返すだけの話。

「あなたは何にも心配しなくていいから」

 恵の指先に触れる誉の頭はマシュマロのように柔らかかった。

「帰ったの。今、寝たところだから。起こさないでね」

 バタンと背後の扉が開いた。気だるそうな夫の表情が映る。

「そうね」

「遅いね、申し訳ないが晩御飯は作らなかった。相変わらず、仕事? まあいいや」

 守はすり足気味に床をこすりながら自室に戻る。まるで幽霊のような男。何の野心も精力のない凡庸という言葉が相応しい。

 キッチンの蛇口をひねり、水道水をコップに入れる。

 透明な水をグッと飲みほした。何もかも満たされていない。すべては始まったばかりだ。

「歪んだ思想を植え付けないでくれよ」

 一年前、守は顔にあからさまな不快感を示しながら言う。そこから結婚して以来の大ゲンカになった。

「あなたには何も分からないわ」

 先代の財産の上に胡坐をかき、自分の好きな仕事をしている男には決して理解できることではない。

 安定した家業を奪われ、父は失意のあまり死んだ。その後、恵の周りに吹き荒れる風評。父は死後も尊厳を罵られ続けた。

「誉は白鷺を継ぐのよ」

 白鷺が生み出した財産を受け継ぐことは栄誉なのだ。だから息子を誉と名付けた。

 高らかに夫に自らの主義を話すと、寂しそうで悲しい顔を浮かべてそれきりしゃべらなくなった。

 以来、互いが不快にしないよう取り繕う生活が始まった。ただ対外的に関係が上手くいっていないと思われたくない。

 恵もさすがに育児を放棄したわけでない。保育園にも月に一回は顔を出す。お昼を数人の母親たちと喫茶店で食べることになった。あれこれと他愛もない話が延々と続いた。

「いつもは主人がお世話になっていて」

 守の評判はすこぶる良いようだ。

「宮内さんのお宅は旦那様がお子さんの送り向かいを?」

 恵は適当に相槌を打つ。自分は出張等が多い仕事で、在宅勤務の夫が面倒を主にという。

「旦那さんが専ら家事を?」

「交代ではありますけどね」

 恵はうまく周りの主婦たちとの空気を読みながら流れを作っていく。全員がさも感心したという表情を作っていた。

「今時ですわ。うちなんか一切手伝ってくれないですから」

 まあひどいと別の母親が顔を作る。

 全く下らないと恵は影で吐き捨てる。仮面を付けての笑顔を振りまく社交界。時間の無駄だった。

 この人たちは何一つ不自由のない生活をしてきたのだろう。保身がすべて。守るべきものを喪失し、取り戻そうと必死になっている者のことなど分かるはずがない。

「じゃ明日早いので……」

 喫茶店を出た。今日ぐらいは自宅でご飯を食べたほうがよさそうだ。言ったそばからボロが出てはたまったものではない。

 どこで誰が見ているかわからない。

 帰り道、スーパーマーケットで食材を買った。マンションに戻る途中で守ると遭遇した。手にビニール袋を持っていた。

「なんだ……あなたも買ってきたの?」

「ああ、家事は僕に任せたわけじゃないの?」

「あなたにすべて丸投げで、私は仕事だなんて恰好が悪いじゃない? ずいぶん奥様方からご人気ねえ」

「皆それぞれ家庭の事情を抱えて大変だよ」

「どんなご事情があるのかしら?」

 エレベーターの中で今日会ってきた主婦たちをあざける。家に着くといそしんでキッチンに向かう。

 料理は久しぶりだった。

「何を作るの?」

「すき焼きにするわ。煮物とあと卵焼きね」

「おい」

「あなたは誉の面倒を見ていて」

「誉は卵アレルギーだよ。こないだ病院で診断を受けたから」

「は? 知らないわよ。なんで言わないのよ」

「言ったさ。君は連絡を見ていなかった」

 無神経だと恵はいらだった。わざと恥をかかすためにこんなことを言っているのかと思いたくなった。

「わかったわよ!」

 恵は手に持ったボウルを床に本投げた。カランとボウルが音を立て、研いでいた卵が散乱した。

「もう作らないわよ。せっかくあなたの負担を和らげてあげるつもりだったのに!」

 守は冷たい眼差しを恵に注ぐ。

「君がしたいのは仕事だけじゃなく、家事もきちんとやっている姿をアピールしたかっただけだろ?」

「だったなら何? 悪い?」

 守は何も言わない。そう問い詰めるといつも黙る。卑怯な男。聡明な父親とは似ても似つかないできの悪い男。心の底から虫唾が走る。

「何よ? 何なのその目は?」

 守が示すその瞳から放つ嫌悪感に恵はいら立ちを覚える。

「何が何でも誉は白鷺の家を継ぐの」

「継ぐって……君の会社はもうないじゃないか?」

「立ち上げるだけよ。私には支援者がいる」

「鮫島の一部の社員と造反して会社を作るのか? やめたほうが言い。競業避止義務を知らないのか?」

「難しいことを言うじゃない?」

「鮫島の役員なら、そういうことをしてはいけない。最悪、裁判沙汰になるぞ」

「大丈夫。そこら辺も手は打ってあるから」

「君はどうかしている」

 じっとにらんだ視線は決別の意思だった。あれきり守とは夫婦らしい会話をしていない。

 夫との関係は表向きだけで一向に構わない。合わない人と話すのは時間の無駄だ。

 家業を維持するのは大変だ。跡継ぎの出来不出来で全てが決まる。

 宮内の家も廃れるだろう。他人の家など恵の頭にはない。恵は白鷺の家を復興させ、誉に継がせること。鮫島の一人娘である綾に自分が味わった絶望を与えてやる。

 恵にとって復讐だけが唯一の生きがいとなっていた。
しおりを挟む

処理中です...