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第二章 宮内恵
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三月九日。思ったより目が覚めた。役員になってから一年。今日は父の命日。人生が狂わされた日。
悪夢は今日限りで終わる。三月九日は人生の汚点から美点に生まれ変わるのだ。
恵は出社して、ゆうゆうと社長室に乗り込む。忙しいと道を遮ろうとする秘書になど目もくれず扉を開ける。
「だあれ?」
「おはようございます。社長」
「なんだ、あなただったの?」
「朝早くから申し訳ございません。こちらご納め下さいませ」
恵はジャケットの内ポケットから白い便箋を差し出した。黒字で退職届と書いてある。
綾はポカンと恵を見つめていたが、フッと笑ってしまった。
「いきなりどうしたの? 役員まで昇格したあなたがまさかこんなことするはずがないわよね? 何かのサプライズ? だとしたら悪趣味だわ」
「詳細は読んでいただきますでしょうか?」
「ま、いいけど。退職届。私、宮内恵は自ら事業を立ち上げるため、鮫島エステハウスを退職いたします……なあにこれ?」
綾はひらひらと退職届の紙を弄んだ。
「書いた通りですわ。鮫島で培ったノウハウをもとに事業を立ち上げるつもりです」
「起業ねえ。何をするの?」
「エステです。社名も決めております。白鷺エステサロン。私の旧名は白鷺と言いますの。覚えておいででしょう?」
恵はもはや素性を隠す必要がなかった。今は堂々と自らの正体を隠さず歩いていける。綾は興味なさげに恵を見ていた。
「あなたもずいぶんとのし上がったのに、どうしちゃったの?」
綾がふっと息を吐いた。
「何のことでしょう?」
恵はあえてはぐらかした。
「もう隠し事は辞めにしたら?」
互いの顔が交差する。
「覚えているようね。あなたに会ったのはもう二十年前。高校生だった時かしら?」
目の前の景色が変わる。二十年前の父の葬儀の日。黒いセダンの車から一人の男が降り立った。鮫島忠信。恵の父からすべてを奪い取った男。外道という言葉が恵の頭によぎる。その後に、忠信の妻と娘が出てきた。きちんとした身なり。頭頂部から足のつま先までお金持ちのお嬢様だと一瞬で分かる。
鮫島綾……
歳は恵と変わらないだろう。背丈も立ち振る舞いも変わらなかった。両者を分けているのは競争の勝者と敗者という違いだ。自分がそこに立っているべき地位に綾がいた。
自分が惨めな思いをしているのは運が悪かった。神という見えざる手により恵が敗者となり、綾が勝者となっただけ。
恵は綾の一挙手一投足をじっと見ていた。恵の圧力を感じて些細なことでもいい。失敗してほしかった。しかし綾は香典の場もきちんとこなした。社内の者の死を悼む者としての務めを果たした。
向こうが遺族に対しお辞儀をした。視線が少し合った。そのときは何も語らなかった。
あれ以来、綾の悔しがる顔を見たくて仕方なかった。今まさにその瞬間が訪れようとしている。準備はできた。鮫島は一気に収入源を奪われて衰退する。エステ業界に波乱が起きる。
白鷺のブランドが高々と掲げられる。
「私と同じぐらいの子がいるって話はパパから聞いたわ」
「ええ、私は自殺した父の姿が焼き付いて離れなかった。もちろんあなたのことも。憎い鮫島のオフィスを見て誓ったの。必ずや会社を復興させるってね」
「ずいぶんと長いこと恨まれたものね。あなたの鮫島への忠義に報いてそれなりの地位を与えたのだけど」
「地位? 馬鹿みたい。私は元来あなたと同じ地位なのよ。城ケ関係はないはずよ」
「そうね。二十年前、あなたの憎しみが私にはわからなかった。正直、眼中にすらなかったの。でも最近負けた人間のはかない感情が理解できるようになったの」
「本当? これからじゃないの?」
「自分が体験しなくても、私の周りには多くの敗者が打ちひしがれているのよ」
七川蒔を言っているのだろう。綾に媚を売り、会社の金を横領して身を破滅させた女。スポンジ程度の頭なのだろう。それが去年役員の地位を巡って争っていたなんて笑わせてくれる。
「あなたが目をかけていた子。だめだったわね。焼きが回ったものね。もっと周りの人間を精査したほうがいいわ」
ふん、と綾は勝ち誇った表情をする。
「あなたじゃ私には勝てないわよ」
「あなたの会社の経営は風前の灯だった。財務諸表を見たけど
真っ赤。どうやって立て直すの? そういう状態を、私の父が救いの手を差し伸べたのに」
「嫌味のつもりかしら?」
「そうじゃなくて事実を言っただけよ。あなたが影でこそこそと動いているのは耳に入っているから。だから」
綾は口元に手をやりクスクスと笑っている。
「だから何?」
笑っていられるのは今のうちだ。跪いて懇願しても遅い。自分が社長になったときには手遅れだ。
「引き返すなら今のうち。いいじゃない鮫島の役員で。潰れた看板に誰が付いてくるのかしら?」
「せっかくの誘いですがお断りさせていただきます。ではお世話様でした。鮫島社長」
バタンと扉が閉まる。鮫島のオフィスに足を運んで十数年。今日ほど快活な日はなかった。
宮内恵辞職の報は本社にあっという間に広まった。
恵の役員室にはぞくぞくと旧白鷺の社員が結集してくる。会社を支えた重鎮、二代で使えた使用人、など来訪者が絶えることはない。
「懐かしい顔ぶれじゃない?」
「お嬢様……とうとうこのときが……」
「竹松さんね。父がお世話になったわ。あなたにも長い間苦労をかけました。でも、安心して白鷺は復活する」
悪夢は今日限りで終わる。三月九日は人生の汚点から美点に生まれ変わるのだ。
恵は出社して、ゆうゆうと社長室に乗り込む。忙しいと道を遮ろうとする秘書になど目もくれず扉を開ける。
「だあれ?」
「おはようございます。社長」
「なんだ、あなただったの?」
「朝早くから申し訳ございません。こちらご納め下さいませ」
恵はジャケットの内ポケットから白い便箋を差し出した。黒字で退職届と書いてある。
綾はポカンと恵を見つめていたが、フッと笑ってしまった。
「いきなりどうしたの? 役員まで昇格したあなたがまさかこんなことするはずがないわよね? 何かのサプライズ? だとしたら悪趣味だわ」
「詳細は読んでいただきますでしょうか?」
「ま、いいけど。退職届。私、宮内恵は自ら事業を立ち上げるため、鮫島エステハウスを退職いたします……なあにこれ?」
綾はひらひらと退職届の紙を弄んだ。
「書いた通りですわ。鮫島で培ったノウハウをもとに事業を立ち上げるつもりです」
「起業ねえ。何をするの?」
「エステです。社名も決めております。白鷺エステサロン。私の旧名は白鷺と言いますの。覚えておいででしょう?」
恵はもはや素性を隠す必要がなかった。今は堂々と自らの正体を隠さず歩いていける。綾は興味なさげに恵を見ていた。
「あなたもずいぶんとのし上がったのに、どうしちゃったの?」
綾がふっと息を吐いた。
「何のことでしょう?」
恵はあえてはぐらかした。
「もう隠し事は辞めにしたら?」
互いの顔が交差する。
「覚えているようね。あなたに会ったのはもう二十年前。高校生だった時かしら?」
目の前の景色が変わる。二十年前の父の葬儀の日。黒いセダンの車から一人の男が降り立った。鮫島忠信。恵の父からすべてを奪い取った男。外道という言葉が恵の頭によぎる。その後に、忠信の妻と娘が出てきた。きちんとした身なり。頭頂部から足のつま先までお金持ちのお嬢様だと一瞬で分かる。
鮫島綾……
歳は恵と変わらないだろう。背丈も立ち振る舞いも変わらなかった。両者を分けているのは競争の勝者と敗者という違いだ。自分がそこに立っているべき地位に綾がいた。
自分が惨めな思いをしているのは運が悪かった。神という見えざる手により恵が敗者となり、綾が勝者となっただけ。
恵は綾の一挙手一投足をじっと見ていた。恵の圧力を感じて些細なことでもいい。失敗してほしかった。しかし綾は香典の場もきちんとこなした。社内の者の死を悼む者としての務めを果たした。
向こうが遺族に対しお辞儀をした。視線が少し合った。そのときは何も語らなかった。
あれ以来、綾の悔しがる顔を見たくて仕方なかった。今まさにその瞬間が訪れようとしている。準備はできた。鮫島は一気に収入源を奪われて衰退する。エステ業界に波乱が起きる。
白鷺のブランドが高々と掲げられる。
「私と同じぐらいの子がいるって話はパパから聞いたわ」
「ええ、私は自殺した父の姿が焼き付いて離れなかった。もちろんあなたのことも。憎い鮫島のオフィスを見て誓ったの。必ずや会社を復興させるってね」
「ずいぶんと長いこと恨まれたものね。あなたの鮫島への忠義に報いてそれなりの地位を与えたのだけど」
「地位? 馬鹿みたい。私は元来あなたと同じ地位なのよ。城ケ関係はないはずよ」
「そうね。二十年前、あなたの憎しみが私にはわからなかった。正直、眼中にすらなかったの。でも最近負けた人間のはかない感情が理解できるようになったの」
「本当? これからじゃないの?」
「自分が体験しなくても、私の周りには多くの敗者が打ちひしがれているのよ」
七川蒔を言っているのだろう。綾に媚を売り、会社の金を横領して身を破滅させた女。スポンジ程度の頭なのだろう。それが去年役員の地位を巡って争っていたなんて笑わせてくれる。
「あなたが目をかけていた子。だめだったわね。焼きが回ったものね。もっと周りの人間を精査したほうがいいわ」
ふん、と綾は勝ち誇った表情をする。
「あなたじゃ私には勝てないわよ」
「あなたの会社の経営は風前の灯だった。財務諸表を見たけど
真っ赤。どうやって立て直すの? そういう状態を、私の父が救いの手を差し伸べたのに」
「嫌味のつもりかしら?」
「そうじゃなくて事実を言っただけよ。あなたが影でこそこそと動いているのは耳に入っているから。だから」
綾は口元に手をやりクスクスと笑っている。
「だから何?」
笑っていられるのは今のうちだ。跪いて懇願しても遅い。自分が社長になったときには手遅れだ。
「引き返すなら今のうち。いいじゃない鮫島の役員で。潰れた看板に誰が付いてくるのかしら?」
「せっかくの誘いですがお断りさせていただきます。ではお世話様でした。鮫島社長」
バタンと扉が閉まる。鮫島のオフィスに足を運んで十数年。今日ほど快活な日はなかった。
宮内恵辞職の報は本社にあっという間に広まった。
恵の役員室にはぞくぞくと旧白鷺の社員が結集してくる。会社を支えた重鎮、二代で使えた使用人、など来訪者が絶えることはない。
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