七宝物語

平野耕一郎

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第四部 楽園崩壊

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 指に電光のように痛みが走る。包丁が転がり落ちていく。ピュッと血が真白なまな板に飛ぶ。千切りにしたキャベツにも鮮血の絵の具が注いでいく。

 咲子は反射的に切ってしまった指をくわえる。周りがその様子にすぐに気が付いた。一緒に調理をしていた少女たちが群がってくる。

「咲子様。大丈夫ですか?」

 咲子様、咲子様。まるで小鳥のさえずり。

「血が・・・いけませんわ。医務室へ参りましょう」

 夏帆がそっと手を取ってくる。

「いいわ。一人で行くから。こんなの、なんてことないもの」

「咲子様?」

「お願い。一人でいいの」

 咲子は人目を避けるように調理室から出ていく。足早に廊下を抜け、階下にある医務室に向かう。

 傷口に消毒液が塗られ、ひりひりと痛む。ガーゼが貼られぐるぐると包帯で固定された。

出血はひとまず止まった。

「しばらく間、傷口には触らずに、包帯は外さないよう」

「わかりましたわ」

 保健士のやんわりとした言い方に、咲子は気まずそうな顔で返事をする。

「どうして付いてきたの?」

「私はあなた様の小間使い。主から離れるわけにはなりませぬ。陛下におしかりを受けてしまいます」

「いいわよ。私が言うから」

 夏帆が困った顔でさも察してほしい表情をする。使用人が主の考えを把握できず、困りかかった顔。いらいらさせる顔だ。

「なによ?」

「いえ。お気になさらず」

 気になるわよと思ったが、しばらくほっておく。

「そうだ。申し訳ないけれど、外して下さる?」

 咲子は思い出したことがあった。保健士は話の疎外になるから出てってもらう。

「どうかなさいましたの?」

「自分がもし死ななくなったら怪我なんてしないのかしらね?」

 咲子は完璧に縫合された指先を見て思う。死を克服出来たら、どのような怪我も意味を成さないのだろうか? そうではないのだろうか?

「ふふ」

「何がおかしいの?」

「こないだはご興味がないようにおっしゃっていましたから。指先のお怪我でお気持ちがお変わり遊ばされるとは」

「それが何よ?」

「いえなんでも」

 夏帆は咲子の指を取り、すっと唇を添えてくる。生暖かい感触。唇を通して感じる夏帆の体温。いずれ命が尽きるとするならば、夏帆の体から発するうちの熱はやがて冷めてしまう。死とは人の体温を消耗させ、あげく奪い去っていく強盗のようだ。

「あなたはどうして死ぬことを克服したいなんて考えたの?」

「知りたいのですか?」

 この子は出し惜しみしているのだろうか。咲子はわからなかった。

「教えてられない理由でもあるの?」

「いいえ。ただご覚悟はございますの? もしお知りになったら、咲子様とはいえ、半端な気持ちでは臨めることではありませんわ」

 ずいぶんな言い方である。

「いいわ。あとで聞くわ。戻るわ」

 すたすたと早足で歩く咲子に対し、同じ速度で付いてくる夏帆。まるで影法師のようだ。仕方がない。それが夏帆の生き方だ。決して矢面に立つことがない者だ。聖族に仕えることを習わし。

 戻らないと周りが心配する。毅然と姿を見せなければならない。しおれた姿などさらしたくない。

 ドンッと大きな音が調理室から聞こえた。窓ガラスが割れ、フッと灰色の粉塵があふれて床に落ちた。咲子の足がピタッと止まる。何が起きたのか、目の前の出来事が理解できなかった。人がわらわらと隣部屋などから現れる。全ての者の顔に驚愕があった。

「咲子様! ここは危ないですわ!」

 目の前に人が飛び込んでくる。人が横を通り過ぎていく。咲子は目の前の情報を処理できずにいた。危険であるという事実も咲子の脳は処理しきれていない。ただ爆発した調理室から何らかの既視感を感じていた。

 いけないわ・・・こんなところにいては・・・

「皆さん、離れて!」

 叫び声がする。人は逃げていくのと反対に咲子は調理室に誘われていく。足は意思と反して動き出している。

「いけません!」

 邪魔だ。咲子は目の前にいる教師を押しのけた。ジャリジャリと音が足元でする。散乱したガラスはところどころ赤みがかっている。ガラスに混じって白い肉片が惨状をありありと晒している。ガラスが砕け、調理室の中が覗ける。細かい粉塵にまみれた部屋の中で、散乱した調理器具や砕けた机の破片が散らばっている。それらの間に人が倒れ、うめき声が上がってくる。ある者は立ち上がり逃げ出そうとする。またある者はピクリとも動かず人形のようだ。

 生々しい感覚。ああ・・・

『行ってはなりません!』

 咲子は白濁とした世界にいた。感情の混ざる余地のない過去の一端。そこは病室の前だった。静止を図る使用人たちを差し置き、部屋に入る。母の成子が危篤という言葉に、駆け付けてきた。8歳の年端もいかない少女だったが、母が出産に際し苦しんでいるという話は自然と理解していた。

『お母さま』

 母はいつものように優しく微笑んでいる。出産だって本当はたいしたことじゃない。咲子の考えは扉の向こうにあるから開けたのだ。子どもの無邪気な好奇心だった。大人たちは咲子に隠し事をするが、事あるごとに暴いてやるのが好きだった。今回も同じだ。

 そこは大人の世界だった。あまりにも重厚で厳然と立ちはだかっていた。

 母の成子の苦痛にまみれている。逃れがたい痛みに体をくねらせている。

 血がべっとりと・・・緋色の・・・

 成子の手がすっと伸びたかのように見えた。何かを求めているようで、咲子は手を掴むか迷った。これがお別れになるとは寸分も思ってもみなかった。手は弱弱しく光を求めているようだったが、ぱたりと力が抜けたかのように落ちたきり動かなくなった。

ハッと世界が彩りを取り戻す。

「咲子様!」

「あ、ああ・・・」

「ここにいてはいけません!」

「いや! やめて! なによ、なんなのよ!」

 咲子は夏帆に掴まれた腕を振り払った。夏帆と目が合った。真剣な顔、ここは危険だと知らせる。でもそんな目で見られたくなかった。

「見ないでよ!」

咲子は駆けだしていた。

 なぜ? なぜ? なぜ?

 頭に言葉が反芻する。死がいつも雨となり咲子に注いだ。母の死、お腹のいた妹の死、その後に降り注ぐ死の数々。父、祖父と次々に死んでいく。死は誰しも逃れることができない。咲子もまた同じ。死にゆく定め。

 どこまで逃げたのだろうか?

 息が上がり、膝を折る。

 日差しはまだ高く、セミの鳴き声が止むことなく続く。校庭を走り抜け、その端にある御神木まできていた。人の数倍の高さもある木に包まれ、安心感を得たかった。

「咲子様!」

 呼ばれている。やはり死から逃げられはしない。死からの呼び声がする。

 死? 本当に死なのか?

 背後を振り返った。呼んでいるのは死ではなく、夏帆だった。
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