七宝物語

平野耕一郎

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第2章 霧の中より現れし男

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 二月二三日、聖女は多くの護衛を引き連れ、南征道を抜けて都を出た。これまた多くの人々に見送られての移動である。二月の終わり、聖女は宮殿を離れ別荘に行く。そこでしばしの間、休息をとる。

 聖女は業務からは一切せずにいる。

 式典、祭事、認証式、任命式、恩赦……といった儀式的要素が聖女の仕事であったが、すべて希和子にとって重いものであった。

 忘れたい。逃げたい。

 だから都を出る。これまでの日々を忘れ物思いに耽るのだ。

 今の希和子の頭にあったのは別荘で、どう伸び伸びと過ごしていくか、である。彼女を乗せた馬車はゆっくりと進んでいく。

 行列は、幾重にもうねる川のようで永遠と続き途切れることがない。

 隊は、前衛に騎馬が十五、歩兵百と続き、後ろに黒服の親衛隊が居並ぶ。希和子の乗る馬車は、黒服に前後を包まれていた。馬車の直後に馬が二騎ほど乗り付けていた。お伽衆たちである。長い行軍の中、聖女の話し相手になる者が左右に馬車と並行して進んでいた。

 ふと周囲の景色が気になり窓を開ける。日差しはよく照り付け、辺りは耕作を終えたばかりの田園に差し掛かっていた。

 「陛下、ご機嫌麗しゅう」

 「あら、横にいたの?」

 「ええ、お伽衆は馬に乗ってよくて、陛下のお傍におるようお達しがありましたのよ」

 「そうなの、嬉しいわ。道中よろしく」

 「もちろんですわ、何なりとお申し付けくださいまし」

 よかった。宮廷内で、信における数少ない者がいた。

 聖都から緑白荘へは、半日ほどの時間がかかる道のりである。道中話し相手が欲しいと思っていた。

 馬車はゆっくりと道を進む。道中畦道に差し掛かったのか幾分揺れることもあったが、至って快適な旅だった。

 何も問題なく行列は進んでいたので、希和子はうとうとしてきた。かすかな寝息を立てる。

 しばし時が過ぎた。気持ちの良い眠りだ。今はどこを走っているのか気になり、希和子は窓を開ける。

 外は真っ白だ。一旦、雪景色が広がっているかと思った。ならば山の麓にある緑白荘の近くに来たということ。しかし違う。景色が白いのは雪ではなく霧のせいだ。

 なにここ?

 聖都から別荘まで、数十キロ。途上で霧が発生する地帯は知らない。気になったので、馬車の横に付けている馬に乗っていた祥子に話しかけた。

 「妙なところを通るのね、ここはどちら?」

 「ええ、おかしいですわ。前の者に聞いてまいります」

 「お願いね」

 彼女は自分の馬を前に走らせる。祥子はこういう時頼りになった。身近に親身になってくれるものがいるだけで、なんと心強いことか。

 彼女の乗る馬は前を歩み、濃霧の中へ消えていく。

 先ほどまで雲一つなく晴れていたというのに、一体どういうことだろう。

 辺りはすっかり霧に包まれた。深い霧で、隣にいる親衛隊の顔も覗き見ることができないほどだ。

 前方で何やら声がする。声はやがて大きくなった。ざわざわとわななく音がする。人の声、馬のいななきが相まって希和子の乗る馬車に伝わってくる。

 希和子の心はたちまち不安に包まれる。一昨年、通った道のはず。こんな妙な事態はなかったのに。なによ、なにがあったの……

 ますます不安が彼女の心を支配していった。祥子は、彼女はどうしたのだろう。なぜ、なぜ早く戻ってこないのか。

 気づけば、外の喧騒は絶えていた。ゴトリと馬車は揺れ、動かなくなった。

 音なき世界が広がる。希和子はただ一人馬車の中に取り残されていた。恐怖のあまり窓の外の景色を見る勇気はなかった。

 やがて小さくトコトコと地を踏む音がする。音は大きくなり、いななきが聞こえる。馬の鳴き声だ。希和子は音に一瞬警戒したが、祥子が帰ってきたのだと思いこんだ。

 馬の蹄が地を踏み散らす音は馬車の横で止む。窓がスウッと開いた。外はやはり白く包まれている。人の顔が、輪郭が霧で隠れて判別がつかない。だが祥子だと希和子は信じ切り、話しかけた。

 「ねえ――」

 だが窓の外に表れたのは女の顔ではない。希和子は自分の予想が外れ、思わず後ろに後ずさりした。

 「やあ」

 映し出されたのは、屈託のない笑みを浮かべる好青年だった。彼は希和子のことを知っているように、親しげに話しかける。

 「お久しぶりですね、陛下」

 辺りを霧に包まれた中、突如表れた笑顔。希和子もまた知っている。

 「聡士……君?」

 「嬉しいなあ。僕のこと、覚えて下さったのですね」

 聡士は本当に嬉しそうな顔をしていた。

 「で、でも、何で? 何であなたがいるのよ?」

 「驚かないで。僕は陛下をお迎えに来ただけです」

 お迎え?

 希和子にはちっともわからない。目の前に聡士がいるのも、なぜ彼が相変わらず人好きのする笑顔を浮かべられるのかも、わからない。

 「猛留が会いたいって、言っています。あなたの唯一の弟の」

 猛留という言葉は、希和子にとってタブー以外の何物でもない。

 「はあ?」

 希和子の心は荒波に覆われる。馬鹿げた聡士の登場も、言っていることも。彼女は笑みをこぼし続ける男を恐れていた。

 「何をしに来たの?」

  状況を見計らって聡士はゆったりと事情を説明する。

 「聖女が、同じ場所、特定の国に留まっているのがおかしいのですよ。ぜひ外の世界を、聖都の外に住む人々に目をかけてください」

 希和子にとって彼の物言いは、イライラさせる。

 「陛下はいつも聖都におられて、中々諸国を訪れて下さらない――特に火都には」

 とうとうと話を続けていたが、希和子の答えは決まっている。

 「行かないわよ」

 はっきりとした声が窓越しに響いた。

 「あの野蛮な、人を弑する国に誰が訪問するものですか。死んでもごめんです」

 「私には弟なんていない。帰ってください。」

 聡士の顔は一瞬、ひやりと凍てつく視線を放った。だがすぐに元の笑顔に戻る。

 「そう……ですか。残念です。なるべく手荒な真似はしたくはない、ですが。仕方ありません」

 紳士な口調だったが、やっていたことは暴漢である。

 「やめて!」

 ガラリと開いた戸から手が伸びてくる。彼女はその手を切ろうと必死になる。互いの手が交錯する。希和子は相手の力に押し切られていた。

 腕輪がぴかっと輝きを放った。聡士は光に思わずウッとうめき、目を閉じる。一瞬の隙に希和子はとっさに馬車を降り、霧の中を逃げる。

 ちっと聡士は舌打ちをした。忌々しい聖なる供物だと内心思った。やはり邪魔だ。王と聖女は、相反するものを持ち合わせている。七つの宝と腕輪。邪な霊魂に支配された宝を持つ王は本来けがれた存在である。ゆえに聖なるものを忌避する。光を帯びる腕輪はいかなる邪気も打ち払い、遠ざける。

 やれやれ、あの腕輪を何とかして取り上げよう。ともかく聖女は今度の諸王の会議で有意に立つために確保しておくべきだ。

 逃げ出した姫を捕らえに行かなければ。まあどこに逃げようが、霧は自分が作り出したもの。逃げられはしない。

 そうとも、ここは俺の籠なのだ。
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