七宝物語

平野耕一郎

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第2章 霧の中より現れし男

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 夕食は、宮廷料理らしく、主食に牛ホホ肉のソテーが出た。侍女は相変わらず滑らかな口調だ。食事が終わると、女たちが風呂の準備をする。

 流星は、一人で身の回りをやってきたからそこまでやらなくてもいいと言いつける。

「私たちは、あなた様の周りを世話するよう言い遣っておりますから」

 侍女たちは訊かない。

「ならば湯の支度まではやっていただこう。もうあとのことはよいから」

 まさか、いくら位が付いたからと言って身体まで洗うわけではない。

「わかりました。この者を一人置いておきます。何かありましたら彼女へ」

 流星は、ある種のカマをかけてみた。侍女は、ホッと安堵した顔をした。まさか、殿方の体を洗うまでやるつもりだったか、まあ内心やらずに済んでよかっただろう。

 一人の侍女を浴室の外に残し、流星は入る。

 湯気がもうもうと立ち込めている。久しぶりの湯である。風来坊として諸国を転々としていた彼にとって、ときに雨水で体を洗い流すこともあったぐらいだ。

 位が付き、賓客として扱われるということが、これほど素晴らしいとは思いもよらなかった。あの時、聖女を救ったことが救ったことが変えた。

 きっと何かこの世ならぬ者の思し召しだ。

 ふうと吐息が湯気と混ざりあった。

 いい湯だった。一息ついて体をふき、浴槽から上がる。

 流星が湯から出たのを確認すると、部屋に残っていた侍女がスッと代わりに入り、清掃を行った。

数分ほどして彼女は仕事を終え、出てきた。

「用が済んだのなら、引きとってもらって結構だが?」

 用事は済んだのだから、退出すると思っていた。しかし侍女は動じない。何だかおかしかった。

「私が――まだ分かりませんか?」

 一人残った侍女は、小柄で細身であった。少々ある種の体力を使うであろう侍女には、細すぎやしないかと流星はいぶかしむ。

 顔を絹の衣で覆っているのは、一体どういうわけか。

 彼女はそっと絹を取り外し、素顔をさらす。

 身の覚えのある顔だ。おしとやかで、慎ましい人。

「陛下……」

「静かに」

 確かに目の前に昼間の中庭で、午後の謁見の間で、見かけた聖女が目の前にいる。

「驚かせてしまって、申し訳ありません……」

 希和子は、心からすまないという顔を浮かべる。

「あなたには、無理難題ばかりを言ってばかりで、いきなりわが身を守ってくれなどという役目を任ぜられ、きっと悩んでいることでしょう」

「ですから――」

 彼女は言い淀んだ。まるで謁見の間であった時のような気高さ、荘厳さはどこへ行ってしまわれたのだろう。目の前にいる女性は、今後の将来を不安視している若い女性そのものであった。

「陛下、よろしいですか?」

「はい」

「私は、決してあなた様のお傍に仕える特別な騎士になれたことに対して悩んでなどおりませぬ。むしろ嬉しいのです」

「昼のあなたは、今日にでも宮中を去ろうとし、祖国の仇を討とうとしてたではありませぬか」

「ええ」

「なら、その変節は一体?」

「仇は討ちます。しかし、私が単身東国に乗り込み王に一太刀浴びせるのは無理というもの。相手は王、並みの者では到底倒せませぬ。昼までの私は、どうかしていました。ただ仇討という大義に取りつかれていた死人だった」

「今では違うのですか?」

「少なくとも、考え直す必要があると悟りました――陛下、私の願いお聞きくださいませ」流星は手を突き嘆願する。

「私は陛下の手となり足となり身を粉にして働きます。そして功を上げて見せます。誰もが追随を許さぬ武功を上げて見せます」

 流星は言う。

「そうしたら、私に数万の兵を与え下さいませ。かの王の地へ出向き聖女陛下の名のもと、王を成敗してまいります。それが私の、尊いかけがえのない国、家族、朋友の借りを取り返すことになりましょう」

「そう――ですの。あなたは、絶対に自らの使命を果たすおつもりなのね」

「覚悟の上です」

「私に軍勢を与える権限はありません。決めるのは王です。でもここにいることはきっと正しい方向へ導くと思われます」

 彼女の言葉は、己が使命を認めてくれた。

「ありがとうございます」

「ですが、あなたが言う男は恐ろしくおぞましく、そして強い」

「ええ」

「かの王は、命というものを何とも思っておりません。女子供であっても、自らの家族であっても。彼にとっては虫けら以下なのです」

 希和子の話は震えが伴っている。家族、言葉が意味するもの、それは……

「あなたの仇であるかの王とは。私の弟のことです」

 流星の目に驚愕の色が浮かんだ。

「なんと――」

「多分、国外の者やもう聖都の者でさえ忘れてしまったのでしょうね。私とかの者との忌まわしい関係を……」

 希和子は口をつぐんだ。

「いやです。言いたくもない。ああ――」

 聖女は、首を振り瞳に浮かんだ涙がこぼれないよう歯を食いしばる。だが限界で、ほろりと一筋の線となり、頬を濡らした。

「自分から言っておいて何を言っているのでしょうね…・・どうか、今日こちらに私が来たことは、内密に。私が言ったことも。どうか――忘れて」

 悲しみに惑う聖女は、身の思いを打ち上げずにいる。

「かしこまりました」

 沈鬱な想いを胸に流星が口に出せたのはその一言であった。

「ただ――これだけは覚えておいていただきたいの」

「はい」

「あなたを手放したくない。勝手な言い分です。ずっとそばに置いておきたいと思っております。どうぞ、御体にはご自愛を」

 希和子は、そう言って部屋を退去した。
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