29 / 156
第2章 霧の中より現れし男
12
しおりを挟む
夕食は、宮廷料理らしく、主食に牛ホホ肉のソテーが出た。侍女は相変わらず滑らかな口調だ。食事が終わると、女たちが風呂の準備をする。
流星は、一人で身の回りをやってきたからそこまでやらなくてもいいと言いつける。
「私たちは、あなた様の周りを世話するよう言い遣っておりますから」
侍女たちは訊かない。
「ならば湯の支度まではやっていただこう。もうあとのことはよいから」
まさか、いくら位が付いたからと言って身体まで洗うわけではない。
「わかりました。この者を一人置いておきます。何かありましたら彼女へ」
流星は、ある種のカマをかけてみた。侍女は、ホッと安堵した顔をした。まさか、殿方の体を洗うまでやるつもりだったか、まあ内心やらずに済んでよかっただろう。
一人の侍女を浴室の外に残し、流星は入る。
湯気がもうもうと立ち込めている。久しぶりの湯である。風来坊として諸国を転々としていた彼にとって、ときに雨水で体を洗い流すこともあったぐらいだ。
位が付き、賓客として扱われるということが、これほど素晴らしいとは思いもよらなかった。あの時、聖女を救ったことが救ったことが変えた。
きっと何かこの世ならぬ者の思し召しだ。
ふうと吐息が湯気と混ざりあった。
いい湯だった。一息ついて体をふき、浴槽から上がる。
流星が湯から出たのを確認すると、部屋に残っていた侍女がスッと代わりに入り、清掃を行った。
数分ほどして彼女は仕事を終え、出てきた。
「用が済んだのなら、引きとってもらって結構だが?」
用事は済んだのだから、退出すると思っていた。しかし侍女は動じない。何だかおかしかった。
「私が――まだ分かりませんか?」
一人残った侍女は、小柄で細身であった。少々ある種の体力を使うであろう侍女には、細すぎやしないかと流星はいぶかしむ。
顔を絹の衣で覆っているのは、一体どういうわけか。
彼女はそっと絹を取り外し、素顔をさらす。
身の覚えのある顔だ。おしとやかで、慎ましい人。
「陛下……」
「静かに」
確かに目の前に昼間の中庭で、午後の謁見の間で、見かけた聖女が目の前にいる。
「驚かせてしまって、申し訳ありません……」
希和子は、心からすまないという顔を浮かべる。
「あなたには、無理難題ばかりを言ってばかりで、いきなりわが身を守ってくれなどという役目を任ぜられ、きっと悩んでいることでしょう」
「ですから――」
彼女は言い淀んだ。まるで謁見の間であった時のような気高さ、荘厳さはどこへ行ってしまわれたのだろう。目の前にいる女性は、今後の将来を不安視している若い女性そのものであった。
「陛下、よろしいですか?」
「はい」
「私は、決してあなた様のお傍に仕える特別な騎士になれたことに対して悩んでなどおりませぬ。むしろ嬉しいのです」
「昼のあなたは、今日にでも宮中を去ろうとし、祖国の仇を討とうとしてたではありませぬか」
「ええ」
「なら、その変節は一体?」
「仇は討ちます。しかし、私が単身東国に乗り込み王に一太刀浴びせるのは無理というもの。相手は王、並みの者では到底倒せませぬ。昼までの私は、どうかしていました。ただ仇討という大義に取りつかれていた死人だった」
「今では違うのですか?」
「少なくとも、考え直す必要があると悟りました――陛下、私の願いお聞きくださいませ」流星は手を突き嘆願する。
「私は陛下の手となり足となり身を粉にして働きます。そして功を上げて見せます。誰もが追随を許さぬ武功を上げて見せます」
流星は言う。
「そうしたら、私に数万の兵を与え下さいませ。かの王の地へ出向き聖女陛下の名のもと、王を成敗してまいります。それが私の、尊いかけがえのない国、家族、朋友の借りを取り返すことになりましょう」
「そう――ですの。あなたは、絶対に自らの使命を果たすおつもりなのね」
「覚悟の上です」
「私に軍勢を与える権限はありません。決めるのは王です。でもここにいることはきっと正しい方向へ導くと思われます」
彼女の言葉は、己が使命を認めてくれた。
「ありがとうございます」
「ですが、あなたが言う男は恐ろしくおぞましく、そして強い」
「ええ」
「かの王は、命というものを何とも思っておりません。女子供であっても、自らの家族であっても。彼にとっては虫けら以下なのです」
希和子の話は震えが伴っている。家族、言葉が意味するもの、それは……
「あなたの仇であるかの王とは。私の弟のことです」
流星の目に驚愕の色が浮かんだ。
「なんと――」
「多分、国外の者やもう聖都の者でさえ忘れてしまったのでしょうね。私とかの者との忌まわしい関係を……」
希和子は口をつぐんだ。
「いやです。言いたくもない。ああ――」
聖女は、首を振り瞳に浮かんだ涙がこぼれないよう歯を食いしばる。だが限界で、ほろりと一筋の線となり、頬を濡らした。
「自分から言っておいて何を言っているのでしょうね…・・どうか、今日こちらに私が来たことは、内密に。私が言ったことも。どうか――忘れて」
悲しみに惑う聖女は、身の思いを打ち上げずにいる。
「かしこまりました」
沈鬱な想いを胸に流星が口に出せたのはその一言であった。
「ただ――これだけは覚えておいていただきたいの」
「はい」
「あなたを手放したくない。勝手な言い分です。ずっとそばに置いておきたいと思っております。どうぞ、御体にはご自愛を」
希和子は、そう言って部屋を退去した。
流星は、一人で身の回りをやってきたからそこまでやらなくてもいいと言いつける。
「私たちは、あなた様の周りを世話するよう言い遣っておりますから」
侍女たちは訊かない。
「ならば湯の支度まではやっていただこう。もうあとのことはよいから」
まさか、いくら位が付いたからと言って身体まで洗うわけではない。
「わかりました。この者を一人置いておきます。何かありましたら彼女へ」
流星は、ある種のカマをかけてみた。侍女は、ホッと安堵した顔をした。まさか、殿方の体を洗うまでやるつもりだったか、まあ内心やらずに済んでよかっただろう。
一人の侍女を浴室の外に残し、流星は入る。
湯気がもうもうと立ち込めている。久しぶりの湯である。風来坊として諸国を転々としていた彼にとって、ときに雨水で体を洗い流すこともあったぐらいだ。
位が付き、賓客として扱われるということが、これほど素晴らしいとは思いもよらなかった。あの時、聖女を救ったことが救ったことが変えた。
きっと何かこの世ならぬ者の思し召しだ。
ふうと吐息が湯気と混ざりあった。
いい湯だった。一息ついて体をふき、浴槽から上がる。
流星が湯から出たのを確認すると、部屋に残っていた侍女がスッと代わりに入り、清掃を行った。
数分ほどして彼女は仕事を終え、出てきた。
「用が済んだのなら、引きとってもらって結構だが?」
用事は済んだのだから、退出すると思っていた。しかし侍女は動じない。何だかおかしかった。
「私が――まだ分かりませんか?」
一人残った侍女は、小柄で細身であった。少々ある種の体力を使うであろう侍女には、細すぎやしないかと流星はいぶかしむ。
顔を絹の衣で覆っているのは、一体どういうわけか。
彼女はそっと絹を取り外し、素顔をさらす。
身の覚えのある顔だ。おしとやかで、慎ましい人。
「陛下……」
「静かに」
確かに目の前に昼間の中庭で、午後の謁見の間で、見かけた聖女が目の前にいる。
「驚かせてしまって、申し訳ありません……」
希和子は、心からすまないという顔を浮かべる。
「あなたには、無理難題ばかりを言ってばかりで、いきなりわが身を守ってくれなどという役目を任ぜられ、きっと悩んでいることでしょう」
「ですから――」
彼女は言い淀んだ。まるで謁見の間であった時のような気高さ、荘厳さはどこへ行ってしまわれたのだろう。目の前にいる女性は、今後の将来を不安視している若い女性そのものであった。
「陛下、よろしいですか?」
「はい」
「私は、決してあなた様のお傍に仕える特別な騎士になれたことに対して悩んでなどおりませぬ。むしろ嬉しいのです」
「昼のあなたは、今日にでも宮中を去ろうとし、祖国の仇を討とうとしてたではありませぬか」
「ええ」
「なら、その変節は一体?」
「仇は討ちます。しかし、私が単身東国に乗り込み王に一太刀浴びせるのは無理というもの。相手は王、並みの者では到底倒せませぬ。昼までの私は、どうかしていました。ただ仇討という大義に取りつかれていた死人だった」
「今では違うのですか?」
「少なくとも、考え直す必要があると悟りました――陛下、私の願いお聞きくださいませ」流星は手を突き嘆願する。
「私は陛下の手となり足となり身を粉にして働きます。そして功を上げて見せます。誰もが追随を許さぬ武功を上げて見せます」
流星は言う。
「そうしたら、私に数万の兵を与え下さいませ。かの王の地へ出向き聖女陛下の名のもと、王を成敗してまいります。それが私の、尊いかけがえのない国、家族、朋友の借りを取り返すことになりましょう」
「そう――ですの。あなたは、絶対に自らの使命を果たすおつもりなのね」
「覚悟の上です」
「私に軍勢を与える権限はありません。決めるのは王です。でもここにいることはきっと正しい方向へ導くと思われます」
彼女の言葉は、己が使命を認めてくれた。
「ありがとうございます」
「ですが、あなたが言う男は恐ろしくおぞましく、そして強い」
「ええ」
「かの王は、命というものを何とも思っておりません。女子供であっても、自らの家族であっても。彼にとっては虫けら以下なのです」
希和子の話は震えが伴っている。家族、言葉が意味するもの、それは……
「あなたの仇であるかの王とは。私の弟のことです」
流星の目に驚愕の色が浮かんだ。
「なんと――」
「多分、国外の者やもう聖都の者でさえ忘れてしまったのでしょうね。私とかの者との忌まわしい関係を……」
希和子は口をつぐんだ。
「いやです。言いたくもない。ああ――」
聖女は、首を振り瞳に浮かんだ涙がこぼれないよう歯を食いしばる。だが限界で、ほろりと一筋の線となり、頬を濡らした。
「自分から言っておいて何を言っているのでしょうね…・・どうか、今日こちらに私が来たことは、内密に。私が言ったことも。どうか――忘れて」
悲しみに惑う聖女は、身の思いを打ち上げずにいる。
「かしこまりました」
沈鬱な想いを胸に流星が口に出せたのはその一言であった。
「ただ――これだけは覚えておいていただきたいの」
「はい」
「あなたを手放したくない。勝手な言い分です。ずっとそばに置いておきたいと思っております。どうぞ、御体にはご自愛を」
希和子は、そう言って部屋を退去した。
0
あなたにおすすめの小説
存在感のない聖女が姿を消した後 [完]
風龍佳乃
恋愛
聖女であるディアターナは
永く仕えた国を捨てた。
何故って?
それは新たに現れた聖女が
ヒロインだったから。
ディアターナは
いつの日からか新聖女と比べられ
人々の心が離れていった事を悟った。
もう私の役目は終わったわ…
神託を受けたディアターナは
手紙を残して消えた。
残された国は天災に見舞われ
てしまった。
しかし聖女は戻る事はなかった。
ディアターナは西帝国にて
初代聖女のコリーアンナに出会い
運命を切り開いて
自分自身の幸せをみつけるのだった。
【完結】使えない令嬢として一家から追放されたけど、あまりにも領民からの信頼が厚かったので逆転してざまぁしちゃいます
腕押のれん
ファンタジー
アメリスはマハス公国の八大領主の一つであるロナデシア家の三姉妹の次女として生まれるが、頭脳明晰な長女と愛想の上手い三女と比較されて母親から疎まれており、ついに追放されてしまう。しかしアメリスは取り柄のない自分にもできることをしなければならないという一心で領民たちに対し援助を熱心に行っていたので、領民からは非常に好かれていた。そのため追放された後に他国に置き去りにされてしまうものの、偶然以前助けたマハス公国出身のヨーデルと出会い助けられる。ここから彼女の逆転人生が始まっていくのであった!
私が死ぬまでには完結させます。
追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。
追記2:ひとまず完結しました!
タダ働きなので待遇改善を求めて抗議したら、精霊達から『破壊神』と怖れられています。
渡里あずま
ファンタジー
出来損ないの聖女・アガタ。
しかし、精霊の加護を持つ新たな聖女が現れて、王子から婚約破棄された時――彼女は、前世(現代)の記憶を取り戻した。
「それなら、今までの報酬を払って貰えますか?」
※※※
虐げられていた子が、モフモフしながらやりたいことを探す旅に出る話です。
※重複投稿作品※
表紙の使用画像は、AdobeStockのものです。
クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?
青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。
最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。
普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた?
しかも弱いからと森に捨てられた。
いやちょっとまてよ?
皆さん勘違いしてません?
これはあいの不思議な日常を書いた物語である。
本編完結しました!
相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです!
1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
主婦が役立たず? どう思うかは勝手だけど、こっちも勝手にやらせて貰うから
渡里あずま
ファンタジー
安藤舞は、専業主婦である。ちなみに現在、三十二歳だ。
朝、夫と幼稚園児の子供を見送り、さて掃除と洗濯をしようとしたところで――気づけば、石造りの知らない部屋で座り込んでいた。そして映画で見たような古めかしいコスプレをした、外国人集団に囲まれていた。
「我々が召喚したかったのは、そちらの世界での『学者』や『医者』だ。それを『主婦』だと!? そんなごく潰しが、聖女になどなれるものか! 役立たずなどいらんっ」
「いや、理不尽!」
初対面の見た目だけ美青年に暴言を吐かれ、舞はそのまま無一文で追い出されてしまう。腹を立てながらも、舞は何としても元の世界に戻ることを決意する。
「主婦が役立たず? どう思うかは勝手だけど、こっちも勝手にやらせて貰うから」
※※※
専業主婦の舞が、主婦力・大人力を駆使して元の世界に戻ろうとする話です(ざまぁあり)
※重複投稿作品※
表紙の使用画像は、AdobeStockのものです。
追放された聖女は旅をする
織人文
ファンタジー
聖女によって国の豊かさが守られる西方世界。
その中の一国、エーリカの聖女が「役立たず」として追放された。
国を出た聖女は、出身地である東方世界の国イーリスに向けて旅を始める――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる