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第7章 王の糸
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門を越えた先は中庭だった。中央には五匹の龍が口から熱湯を出している。とても暑くて、熱気が伝わってきた。
二人は駆け抜ける。案の定中の警備は手薄だ。現れた兵は、有無を言わさず倒していく。
「どこかしら?」
「分かりません。でも腕輪がさっきより強く光っております」
邸宅の中に入った。一階に荘厳なシャンデリアがあり、部屋を赤く彩る。うっとうしい程の赤さだ。目がちかちかする。
内装は豪華絢爛だ。
「階段。どっちかしら?」
上か下か。
「おい、何奴だ!」
「うるさい」
目の前に現れた者は、皆一瞬にして斬り殺された。
「腕輪を信じて。嘘をつかないから」
信じろ。自分は聖女にお仕えする騎士。ならば答えは自ずと示される。
光の鼓動を感じた。実体を捉えることはできないが、目を閉じて感じればいい。答えはすぐそこにある。
「下です」
「わかった」
「お待ちを」
夕美が行こうとしたとき、彼は止める。
「この先、不吉なものが潜んでおります。用心して」
「わかりました。用心しましょう」
二人は階段を駆け下りた。辺りは暗くなった。光はとたんに薄れていく。
最下層に降りた。扉が一つあるだけだ。単なる赤茶色の扉だ。でも触れない方がいい。呪いがかけられている。
「ここね」
「ええ……ここです」
流星はグッとこぶしを握り締める。額にはバッと汗が噴き出す。ついに来たのだ。
「おいおい、中はお取込み中だぜ?」
ぬっと扉に赤い人面が浮かび上がる。
「また魔物の類か」この種の類はもう見飽きた。
「俺はな――」
「誰でもいい」
夕美は化け物が名乗る前に扉を粉砕した。
「陛下!」
扉は開かれた。
「流星はここにおります!」
「――流星?」
小鳥が鳴くようなか弱い声。
「何ですか、騒々しい」
誰かいるのか。知っている声だ。希和子と自分の傍にいて、よく知っている。
部屋に光が差し込んだ。そこに映し出された光景に流星は目を疑う。
四肢を縛られ、ぐったりと首を垂れる希和子。眼下で見下して楽しむ女がいた。
「一体、何を!? 血迷ったかっ」
祥子は、流星の怒声にひるむことなく、反対に相手を嘲弄するように笑う。
「ほほ、全く面倒なお方が参られましたこと」
「なぜこんなことを? 主に対し、一体――」
「主? ああこの期に及んで私が陛下にお近づきになった理由がわからぬとは。今はただあなたの言う主を堪能しておりましたの」
祥子は酔っていた。主をわが物にできたから。
「さっさと始末すればよかった」
夕美は嘆息する。とうの昔に、この女が敵であることは理解していた。
「そうです。機転の利く殿下なら、私の正体がわかっていたでしょうが。あなた様の迷いのおかげで、私はすっかりかけがえのない者になっておりましたのよ」
祥子は、グイっと肢体を布で縛り上げた希和子の顔を、自身に向けさせる。
「くそ」
「こちらには、お入りにならないで下さいまし。そうでないと、陛下とお腹の子の命は、保証できませんわ」
流星が足を一歩進めたとき、さらさらと流れる小川のような口調が聞こえてきた。言葉に二人は顔色を変える。
「何という下劣な……」
「下種ね」
「はい、そうですとも」
にこりと笑う顔は、不気味なぐらい慈悲とやさしさにあふれていた。
「あなた方は、ご丁寧に我々が必要としている物を持ってきている」
「どうしろと?」
「こちらへお渡しくださいまし」
すっとしなやかな手が伸びてきた。
「だめよ!」
希和子は叫ぶ。聖なる腕輪だけは絶対に渡してはいけない。正義にして希望の証を悪の手に渡していいわけがない。
「いいから言うことを。私は――いいの」
「陛下!」
「お願い、渡さないで。お願いよ」
「素晴らしい!」
祥子は発狂したように喜々とした声で言い放つ。
「これが愛。愛の力ですわね!」
何か珍しいものを見るかのように彼女は劇を鑑賞しているかのように、二人のやり取りを真横で見て楽しんだ。
「でも残念ですが。この状況では、ちっともお役に立ちませんことよ?」
「そうだよ。言うことを今度こそ聞いてくれよ」
また背後からだ。最悪の相手が来てしまった。
「見てのとおりじゃないか。ここは一旦手を引こうよ」
「役目を果たしてからね」
「は、は、悪いが諦めてくれ」
聡士はパチンと指を鳴らす。時が止まる。
時止めの法。
「無駄よ」
止められた時で、動けたのは術者である聡士、祥子、夕美だった。残念なことに流星は術にかけられた。
「姉さんには話したいことがあるよ」
「ないわ」
「いつまでも西王の雑用ばかりやらされて、せっかくの才能がもったいない」
「言いたいのはそれだけ?」
「まあまあ、聞きなよ。ここは姉弟水入らずといこうじゃないか。どうだい、僕と猛留と姉さんで、手を結ぼう」
夕美は返事をしなかった。
「倒すべきは、僕らの人生をめちゃめちゃにしてくれたあの女だろ?」
にっこりと笑うことが人に訴えかける上で欠かせなかった。でも聡士が受けたのは、鋭いパンチだった。
彼の体は吹っ飛び壁に激突した。壁は人型の穴が開き、辺りを粉塵が舞う。
「ああ……こうなっちゃうかー」
イテテ、と彼は痛がる。
立ち上がろうとする彼を夕美は畳みかけるように殴り続けた。
「痛いよ。さすがに」
聡士はタコ殴りにされた。さらに強い力を出して、夕美の時間すら止めた。
「殿下、大丈夫ですか?」
「そうみえる?」
「あら失礼」赤く腫れあがった顔を見て彼女はそむけた。
「恐ろしい姉君だよ」
「少しは抵抗しては?」
「面倒だよ。僕は殴り合いのけんかは苦手だ。大事なのは聖なる腕輪だ」
時間を止められるのはわずかだ。邪魔な二人は、どこにでも魔法を使って吹っ飛ばすだけだ。
「腰の刀も邪魔だね」
聡士は嫌そうに刀と腕輪を流星から抜き取り、木箱にしまう。
「閉まってどうなさるの?」
「王は腕輪やそれに付随する物に触れないし、害だ。だから箱に閉まって聖なる力を封印するのさ。もう二度と拝めないように」
よしと彼は勝ち誇ったように言う。高慢さがにじみあふれた笑顔には、確固たる勝利への念が込められている。
時間を止められた夕美と流星に魔法をかけた。彼ら二人は瞬時に目の前から消える。
「遠くよりわざわざご苦労さま」聡士は笑いながら労をねぎらう。「君もよくやった」
「嬉しい。お役に立てて何よりです」
「僕の右腕でいてね」
「殿下……」
「何だい?」
祥子は言うのか迷う。ずっと前から想ってきたことだ。彼を真横で見てきた。ドブの中にいた自分に手を差し出し助けてくれ、彼から何もかも会得した。
彼に認められるために生きてきた気がする。今はっきりと認められた。祥子の頭に『僕の右腕』という言葉が焼き付いて離れない。
「右腕……」
祥子は涙をこぼれた。感情がマグマのように爆発した。聡士の体に飛びつき唇に口づけをした。
「お許しを」
思わず祥子はその場にいるのが恥ずかしくなり、逃げ出そうとする。
「待って」
「なかったことに。ええ、お許しを!」
「少し疲れているようだね」
「はい」何ということだ――こんな真似を、相手は王なのに。いけないことをした。
「今からでいい。僕の部屋に来なよ」
「……」
「どうしたの?」
「嬉しいのです。心から――心からお慕いしております」
「分かっているよ」
聡士の部屋は、至って平凡極まりない部屋だ。リビングにはテーブル、椅子、生活に必要な欠かせないものが置いてある。だが何ら特徴はない。例えば彼らしさを表す何か、例えば写真とか書籍とか、そういったものが一つも置いていない。
色合いがなくて淡白であり無機質であり、言ってしまえば殺風景な部屋だ。同じ王である猛留とは大違いだ。
「僕の部屋は入ったことある?」
「いえ」祥子はおそるおそる入室する。
「そうか。ならここが今から君と僕の部屋だ。さあこっちおいで」
奥に扉があった。中を開くとそこは寝室だ。
「さあ」
そこから先は、ごく単純であまりにも自然の流れが待っていた。
本当の意味での寵愛を受けること。欲望にまみれているわけでも、金銭を狙うわけでもない。もっとずっと高尚な真実の愛。
「愛ですわ……」
「ん? 愛?」
「殿下の愛。今お互いの体に触れあって得られるものが愛ですわ」
「愛ね。そうだよ。君は今とても貴い存在になっているよ。僕の目にはそう映る」
「はい」祥子はもう絶頂だった。
「君だけは特別さ」
「今のお言葉もう一度」
「君だけは特別さ」
嬉しい。すでに自分は、殿下の手の内に。
「あら時計」
「僕の宝さ。君も見ているだろう?」
「はい、肌身離さず身につけているのですか?」
祥子は胸に顔を押し当て彼の鼓動を聞いた。
「殿下のお宝は、何を表しているの?」
「時計は、時計さ。今の時間を教えてくれる。ただそれだけさ」
そう、彼の胸の鼓動はただ脈打つだけ。胸に付ける時計もコチコチと音が鳴り、針が進むだけ。ただの時計で、時計は彼だ。無慈悲に時を告げる者。
「殿下……」
聞いていけない。胸の内を知ってはいけない。だが彼女には奥底に何があるのか分かる。多分何もない。無限に広がる虚無がある。広い何もない大きな胸元は、祥子を底が知れぬ無限の虚ろが、優しく包み込んでくれる。今までの苦しみも悲しみも喜びもすべて呑み込むほどの大きさだ。
「素晴らしい」
「何が?」
「いえ」
胸中の奥底にあるものを隅々まで見たい。底知れぬ虚無に酔いしれたい。
「何ですか?」
不意に祥子は我に返り、顔を上げる。様子がおかしい。
見渡すとミシミシと部屋は縦に揺れ音を立てた。段々強くなっている。祥子は経験したことのない恐怖を感じた。
「怖い」
「地震?」
揺れ動く中で、天井から笑い声が聞こえる。
「まさか……」
天井を見上げた聡士の顔が青ざめている。こんな顔は見たことがない。
今度、部屋は横に大きく揺れる。ああ壊れる。やめてお願い。祥子は叫ぶ。世界が根底から崩れる。せっかく手に入れたすべてが、お願い止まって。
部屋の床に大きな穴が開いた。まずは箪笥が、次に椅子が、扉が、ベッドが穴に呑み込まれていく。部屋全体が深い闇に落ちようとした。
二人は暗い光の当たらない奈落の底へ陥った。
死んでしまったのか……
なら唯一愛した殿下の寵愛を受けることが出来ない。ここは恐らく闇の底だ。おそるおそる目を開けてみる。
ハッとなって辺りを見た。ここは?
部屋が一つしかない。扉は壊れている。反対には階段がある。
火炉宮の最深部。幽閉の間。聖女を一時的に入れた部屋。なぜ自分はここにいる?
目の前には聡士がいた。
「しまった……」
彼は頭を抱えて悔しがった。感情を吐露しない彼にしては珍しい。
「しまった……」
同じことを言う彼に、祥子は恐れを抱いた。やはりおかしい。でも何がおかしいのか理解できない。
壊れた扉を見て、異変を知る。扉の内にあるべき者が――いない!
祥子は慌てて部屋に入った。いるべき者とは聖女。くまなく探した。だが煙のように忽然と消え失せてしまった。
消したのは、うっとうしい女と、しがない流浪人だけだ。
確かに聡士が魔術を使って飛ばしたのに。
「ありません! 陛下も、腕輪も、どちらも……」
彼はまだうなっている。いらいらしていた。爪を噛み目の前をにらみつける。
「殿下」
「くそう……とにかくあとを追おう」
「どちらを?」
「いいから後についてきて!」
初めてだ。こんな風に目が血走り、相手に感情をぶつける聡士を見たのは。ここはあまり怒らせない方がいい。もしかしたら彼の胸の底にあるのは……
二人は駆け抜ける。案の定中の警備は手薄だ。現れた兵は、有無を言わさず倒していく。
「どこかしら?」
「分かりません。でも腕輪がさっきより強く光っております」
邸宅の中に入った。一階に荘厳なシャンデリアがあり、部屋を赤く彩る。うっとうしい程の赤さだ。目がちかちかする。
内装は豪華絢爛だ。
「階段。どっちかしら?」
上か下か。
「おい、何奴だ!」
「うるさい」
目の前に現れた者は、皆一瞬にして斬り殺された。
「腕輪を信じて。嘘をつかないから」
信じろ。自分は聖女にお仕えする騎士。ならば答えは自ずと示される。
光の鼓動を感じた。実体を捉えることはできないが、目を閉じて感じればいい。答えはすぐそこにある。
「下です」
「わかった」
「お待ちを」
夕美が行こうとしたとき、彼は止める。
「この先、不吉なものが潜んでおります。用心して」
「わかりました。用心しましょう」
二人は階段を駆け下りた。辺りは暗くなった。光はとたんに薄れていく。
最下層に降りた。扉が一つあるだけだ。単なる赤茶色の扉だ。でも触れない方がいい。呪いがかけられている。
「ここね」
「ええ……ここです」
流星はグッとこぶしを握り締める。額にはバッと汗が噴き出す。ついに来たのだ。
「おいおい、中はお取込み中だぜ?」
ぬっと扉に赤い人面が浮かび上がる。
「また魔物の類か」この種の類はもう見飽きた。
「俺はな――」
「誰でもいい」
夕美は化け物が名乗る前に扉を粉砕した。
「陛下!」
扉は開かれた。
「流星はここにおります!」
「――流星?」
小鳥が鳴くようなか弱い声。
「何ですか、騒々しい」
誰かいるのか。知っている声だ。希和子と自分の傍にいて、よく知っている。
部屋に光が差し込んだ。そこに映し出された光景に流星は目を疑う。
四肢を縛られ、ぐったりと首を垂れる希和子。眼下で見下して楽しむ女がいた。
「一体、何を!? 血迷ったかっ」
祥子は、流星の怒声にひるむことなく、反対に相手を嘲弄するように笑う。
「ほほ、全く面倒なお方が参られましたこと」
「なぜこんなことを? 主に対し、一体――」
「主? ああこの期に及んで私が陛下にお近づきになった理由がわからぬとは。今はただあなたの言う主を堪能しておりましたの」
祥子は酔っていた。主をわが物にできたから。
「さっさと始末すればよかった」
夕美は嘆息する。とうの昔に、この女が敵であることは理解していた。
「そうです。機転の利く殿下なら、私の正体がわかっていたでしょうが。あなた様の迷いのおかげで、私はすっかりかけがえのない者になっておりましたのよ」
祥子は、グイっと肢体を布で縛り上げた希和子の顔を、自身に向けさせる。
「くそ」
「こちらには、お入りにならないで下さいまし。そうでないと、陛下とお腹の子の命は、保証できませんわ」
流星が足を一歩進めたとき、さらさらと流れる小川のような口調が聞こえてきた。言葉に二人は顔色を変える。
「何という下劣な……」
「下種ね」
「はい、そうですとも」
にこりと笑う顔は、不気味なぐらい慈悲とやさしさにあふれていた。
「あなた方は、ご丁寧に我々が必要としている物を持ってきている」
「どうしろと?」
「こちらへお渡しくださいまし」
すっとしなやかな手が伸びてきた。
「だめよ!」
希和子は叫ぶ。聖なる腕輪だけは絶対に渡してはいけない。正義にして希望の証を悪の手に渡していいわけがない。
「いいから言うことを。私は――いいの」
「陛下!」
「お願い、渡さないで。お願いよ」
「素晴らしい!」
祥子は発狂したように喜々とした声で言い放つ。
「これが愛。愛の力ですわね!」
何か珍しいものを見るかのように彼女は劇を鑑賞しているかのように、二人のやり取りを真横で見て楽しんだ。
「でも残念ですが。この状況では、ちっともお役に立ちませんことよ?」
「そうだよ。言うことを今度こそ聞いてくれよ」
また背後からだ。最悪の相手が来てしまった。
「見てのとおりじゃないか。ここは一旦手を引こうよ」
「役目を果たしてからね」
「は、は、悪いが諦めてくれ」
聡士はパチンと指を鳴らす。時が止まる。
時止めの法。
「無駄よ」
止められた時で、動けたのは術者である聡士、祥子、夕美だった。残念なことに流星は術にかけられた。
「姉さんには話したいことがあるよ」
「ないわ」
「いつまでも西王の雑用ばかりやらされて、せっかくの才能がもったいない」
「言いたいのはそれだけ?」
「まあまあ、聞きなよ。ここは姉弟水入らずといこうじゃないか。どうだい、僕と猛留と姉さんで、手を結ぼう」
夕美は返事をしなかった。
「倒すべきは、僕らの人生をめちゃめちゃにしてくれたあの女だろ?」
にっこりと笑うことが人に訴えかける上で欠かせなかった。でも聡士が受けたのは、鋭いパンチだった。
彼の体は吹っ飛び壁に激突した。壁は人型の穴が開き、辺りを粉塵が舞う。
「ああ……こうなっちゃうかー」
イテテ、と彼は痛がる。
立ち上がろうとする彼を夕美は畳みかけるように殴り続けた。
「痛いよ。さすがに」
聡士はタコ殴りにされた。さらに強い力を出して、夕美の時間すら止めた。
「殿下、大丈夫ですか?」
「そうみえる?」
「あら失礼」赤く腫れあがった顔を見て彼女はそむけた。
「恐ろしい姉君だよ」
「少しは抵抗しては?」
「面倒だよ。僕は殴り合いのけんかは苦手だ。大事なのは聖なる腕輪だ」
時間を止められるのはわずかだ。邪魔な二人は、どこにでも魔法を使って吹っ飛ばすだけだ。
「腰の刀も邪魔だね」
聡士は嫌そうに刀と腕輪を流星から抜き取り、木箱にしまう。
「閉まってどうなさるの?」
「王は腕輪やそれに付随する物に触れないし、害だ。だから箱に閉まって聖なる力を封印するのさ。もう二度と拝めないように」
よしと彼は勝ち誇ったように言う。高慢さがにじみあふれた笑顔には、確固たる勝利への念が込められている。
時間を止められた夕美と流星に魔法をかけた。彼ら二人は瞬時に目の前から消える。
「遠くよりわざわざご苦労さま」聡士は笑いながら労をねぎらう。「君もよくやった」
「嬉しい。お役に立てて何よりです」
「僕の右腕でいてね」
「殿下……」
「何だい?」
祥子は言うのか迷う。ずっと前から想ってきたことだ。彼を真横で見てきた。ドブの中にいた自分に手を差し出し助けてくれ、彼から何もかも会得した。
彼に認められるために生きてきた気がする。今はっきりと認められた。祥子の頭に『僕の右腕』という言葉が焼き付いて離れない。
「右腕……」
祥子は涙をこぼれた。感情がマグマのように爆発した。聡士の体に飛びつき唇に口づけをした。
「お許しを」
思わず祥子はその場にいるのが恥ずかしくなり、逃げ出そうとする。
「待って」
「なかったことに。ええ、お許しを!」
「少し疲れているようだね」
「はい」何ということだ――こんな真似を、相手は王なのに。いけないことをした。
「今からでいい。僕の部屋に来なよ」
「……」
「どうしたの?」
「嬉しいのです。心から――心からお慕いしております」
「分かっているよ」
聡士の部屋は、至って平凡極まりない部屋だ。リビングにはテーブル、椅子、生活に必要な欠かせないものが置いてある。だが何ら特徴はない。例えば彼らしさを表す何か、例えば写真とか書籍とか、そういったものが一つも置いていない。
色合いがなくて淡白であり無機質であり、言ってしまえば殺風景な部屋だ。同じ王である猛留とは大違いだ。
「僕の部屋は入ったことある?」
「いえ」祥子はおそるおそる入室する。
「そうか。ならここが今から君と僕の部屋だ。さあこっちおいで」
奥に扉があった。中を開くとそこは寝室だ。
「さあ」
そこから先は、ごく単純であまりにも自然の流れが待っていた。
本当の意味での寵愛を受けること。欲望にまみれているわけでも、金銭を狙うわけでもない。もっとずっと高尚な真実の愛。
「愛ですわ……」
「ん? 愛?」
「殿下の愛。今お互いの体に触れあって得られるものが愛ですわ」
「愛ね。そうだよ。君は今とても貴い存在になっているよ。僕の目にはそう映る」
「はい」祥子はもう絶頂だった。
「君だけは特別さ」
「今のお言葉もう一度」
「君だけは特別さ」
嬉しい。すでに自分は、殿下の手の内に。
「あら時計」
「僕の宝さ。君も見ているだろう?」
「はい、肌身離さず身につけているのですか?」
祥子は胸に顔を押し当て彼の鼓動を聞いた。
「殿下のお宝は、何を表しているの?」
「時計は、時計さ。今の時間を教えてくれる。ただそれだけさ」
そう、彼の胸の鼓動はただ脈打つだけ。胸に付ける時計もコチコチと音が鳴り、針が進むだけ。ただの時計で、時計は彼だ。無慈悲に時を告げる者。
「殿下……」
聞いていけない。胸の内を知ってはいけない。だが彼女には奥底に何があるのか分かる。多分何もない。無限に広がる虚無がある。広い何もない大きな胸元は、祥子を底が知れぬ無限の虚ろが、優しく包み込んでくれる。今までの苦しみも悲しみも喜びもすべて呑み込むほどの大きさだ。
「素晴らしい」
「何が?」
「いえ」
胸中の奥底にあるものを隅々まで見たい。底知れぬ虚無に酔いしれたい。
「何ですか?」
不意に祥子は我に返り、顔を上げる。様子がおかしい。
見渡すとミシミシと部屋は縦に揺れ音を立てた。段々強くなっている。祥子は経験したことのない恐怖を感じた。
「怖い」
「地震?」
揺れ動く中で、天井から笑い声が聞こえる。
「まさか……」
天井を見上げた聡士の顔が青ざめている。こんな顔は見たことがない。
今度、部屋は横に大きく揺れる。ああ壊れる。やめてお願い。祥子は叫ぶ。世界が根底から崩れる。せっかく手に入れたすべてが、お願い止まって。
部屋の床に大きな穴が開いた。まずは箪笥が、次に椅子が、扉が、ベッドが穴に呑み込まれていく。部屋全体が深い闇に落ちようとした。
二人は暗い光の当たらない奈落の底へ陥った。
死んでしまったのか……
なら唯一愛した殿下の寵愛を受けることが出来ない。ここは恐らく闇の底だ。おそるおそる目を開けてみる。
ハッとなって辺りを見た。ここは?
部屋が一つしかない。扉は壊れている。反対には階段がある。
火炉宮の最深部。幽閉の間。聖女を一時的に入れた部屋。なぜ自分はここにいる?
目の前には聡士がいた。
「しまった……」
彼は頭を抱えて悔しがった。感情を吐露しない彼にしては珍しい。
「しまった……」
同じことを言う彼に、祥子は恐れを抱いた。やはりおかしい。でも何がおかしいのか理解できない。
壊れた扉を見て、異変を知る。扉の内にあるべき者が――いない!
祥子は慌てて部屋に入った。いるべき者とは聖女。くまなく探した。だが煙のように忽然と消え失せてしまった。
消したのは、うっとうしい女と、しがない流浪人だけだ。
確かに聡士が魔術を使って飛ばしたのに。
「ありません! 陛下も、腕輪も、どちらも……」
彼はまだうなっている。いらいらしていた。爪を噛み目の前をにらみつける。
「殿下」
「くそう……とにかくあとを追おう」
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