記憶にない思い出

平野耕一郎

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年老いた狼Ⅱ 手詰まり

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 多摩中央署の交通課を板倉と秋山は訪れていた。刑事課もだが、事故がなければ交通課の仕事はデスクワーク。事務作業である。

「百合奈ちゃん、ちょっといいかい?」

「秋山さん。お久しぶりです」

「九月の交通事故について調書を見たくてね。調べてくれるかな」

「九月ですか? 何かありましたか?」

 板倉がすかさず入って尾坂夫妻の殺人事件に関与している被疑者が九月に事故に遭っている可能性が出たことを共有した。

 受付にいた女刑事は机に戻って調べ始めた。警視庁のデータベースには何千という事故や事件の資料、被疑者の写真、指紋がと登録されている。

 数十分して女刑事は戻ってきた。待っている間、待ちくたびれていた。結果は三件。プリントアウトされた調書を見た。

「おい、これだな」

「やっぱり事故の届け出が出ていましたね」

 交通課の受付にいた女刑事に尋ねるとすんなりと認めてくれた。調書によると事故発生日は九月十日午前二時三十七分。刑事が到着して確認した時刻を発生時刻とするから、実際はもう少し早いだろう。

 交通事故が発生すると警察への通報は義務となっている。通報は本人からではなく目撃者からによるものだ。

 事故車両は一台だ。周辺の防犯カメラを調べてみても、他に車両は写っていなかった。車両は追突されたわけではなく自ら事故に遭遇したわけだ。

「さっき病院に行って風井空が多摩市内で事故に遭ったと聞いたので、事故の届け出があったのは間違いないわけですね」

 女刑事は秋山の確認に答えていた。

「交通事故捜査係が車体を調べたところブレーキオイルが壊れていたみたいです。バルブが緩くなっていたとか言っていましたけど?」

 板倉と秋山は同時に驚いた顔を浮かべていた。

「事故の原因は単なる車の整備不良なのかな? 人為的なもの?」

「車体もかなり損傷が激しいため、原因の特定は時間がかかっているとしか報告は受けていません」

「事故じゃなく事件の可能性もあるわけだ。空がドライブ中に事故に見せかけて死ぬよう誰かが仕込んだとか考えられるな」

「何のためにですか?」

「それをこれから調べる」

 板倉はあきれた顔で突っ込んだ。すぐに何でも聞きたがる。秋山を見ているとなぜ刑事になったのか不思議でしょうがない。

 話を整理したい。

 風井空は多摩中央センター病院で入院していたことが分かった。

 原因となった交通事故についても詳細がわかった。

 空は多摩市で交通事故に遭い、病院に搬送される。容体が回復後、尾坂夫妻に二週間ほどで退院後引き取られる。夫妻との生活でトラブルが発生して尾坂夫妻を食事中に殺害して、家を立ち去った。

 殺害後、体に着いた返り血を洗い流し、アイスクリームを食べ、煙草を吸った。着替えとダウンジャケットを拝借し、家を出た。

 以後の行方は不明である。

 疑問が起こる。少なからず収入もあるのに、わざわざ伯父と伯母の家に住む理由が全く分からない。

「謎はあるが、風井空を重要参考人として話を進めてよさそうだな」

「そうでしょうね。とむさん、事件が上手く解決してよかったですね。管理官に報告して風井空を引っ張りましょう」

「待て、事故現場を見るのが先だ。分かっているだろ」

 秋山が肩の荷が落ちたとばかりに伸びをするから、板倉は釘を刺した。

「覚えておけ。事件が解決したっていいこと何かねえ。死んだやつは戻らねえし、遺族も浮かばれない。俺たちは人のあら捜ししているハイエナと一緒だからな」

 いつの間にかザーッと雨が降ってきていた。板倉は雨が社会に潜む犯罪というドブを全て洗い流してくれたらいいのにと期待していた。

 やがて雨はやむ。

 事故現場は多摩市内のマンションが立ち並ぶ道路の合間の細い道である。周りは森林で囲まれている人気の少ない場所だ。多摩地方は全体的にどちらかというと二十三区と比べ平穏である。

 搬送されたのは調書を見ると午前三時だから見通しが悪く事故につながったのかもしれない。目撃情報も夜中のため、少ない。

 二か月前の交通事故。板倉の記憶がぼんやりと呼び覚まされた。

 あの日の事故現場か。

 二か月前。九月十日だったか。真夜中の静寂を突き破った音が聞こえて、オレンジの炎が舞った日である。

 事故は板倉の眠りを妨げていた。事故現場から板倉の住むマンションまでは遠くない。火事かと思って駆け付けた近所の住民により発覚した。事故現場周辺で倒れていた若い女性を見つけたというのが駐在員の話だった。

 若い女は二十代でピンクのカーディガンを羽織って、事故現場付近にたたずんでいたそうだ。額から血を流していたが、ずいぶんと冷静にいたそうだ。

「女性はこの人ですか?」

 板倉たちは駐在の案内に従って、事故現場に居合わせた女性に顔写真を見せた。

「正直覚えていません。あたりが暗かったから、はっきりと覚えていなくて。ただ美人だったと思います」

 すでに二か月以上も前だから仕方がない。忘れるのが自然かもしれない。警察署に戻る途中、板倉はぼやくように言った。

「ずいぶん辺鄙な所で事故が起きたな。普通起きないだろ。どうだね、交通課さんよ?」

 板倉は秋山が交通課にいた経緯からからかい混じりに呼んだ。

 周りに防犯カメラもなく、人気も少ない。事故が遭ったという記憶がない。風井空はどうしてこんなところを運転し、何の因果で事故に遭ったのだろうか。空は足立区住まいなのでおかしな話だ。

「普通こんなところでは事故に遭いませんね。交通量の多い道や3本以上の道路が複雑に重なっている交差点とかですかね。何です、交通課って」

 板倉はトントンと車の窓ガラスを叩いた。秋山の疑問は理解している。

「多摩には何の用で来たのでしょか? 尾坂夫妻に会いに来るためですかね? こんな真夜中に?」

 それもわかっている。

「でも尾坂家に向かうコースじゃないですよね?」

「うるせえ。今考えているところだ。静かにしろ」

「全く勝手ですね……」

 板倉は矢継ぎ早に質問をする秋山を黙らせた。

 尾坂家の住所は聖ヶ丘三―五―十。事故現場は本郷一―五―六という正反対にある場所だ。

 秋山は交通課にいた経験があるから、事故現場を見て変だなと感じていたのは自然なことだ。

 調書によると車はガードレールに激突し、横転していた。派手な事故をやらかしたものだが、事故に遭う場所でもない。

 何だかしっくりしない。風井空の行動は不可解だ。事故に遭うはずもない場所で事故に遭っている。しかも真夜中だ。目的が見えてこない。

 空の職業や住所も警察は調べている。職場は首都圏内で電車を使っている。車の免許は持っているが、日ごろから運転していないようだ。

 ここまで来ると重要参考人である風井空の身辺調査をすれば造作もなく解決する話だ。

 何より風井空を見つけ出す。任意で引っ張って落とせれば、この事件は解決すると板倉も秋山も思っていた。二人の頭には風井空イコール犯人という方程式ができ上がっていた。
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