ゆめうつつ

平野耕一郎

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第四章 二人の女

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 自宅などいたくない私は部屋を出ていた。西日が激しく差し込む頃合いだ。冷蔵庫に何もなかったから買い物に行く。

 サミットストア両国石原店で食材を買うと蔵前橋通り沿いの喫茶店「ヒロイ」に入る。帰る前に会うべき人がいる。

 カランカランと鈴が鳴る。入店の合図だ。

 昔ながらのオレンジのランプ、スス汚れた壁、奥の厨房で白髪交じりのマスターがフライパンを使って自慢のナポリタンを作っている。食材を買ってあれだが、食べたくなって口内に唾液が充満する。

 大事なのは合図だ。特徴のある音、臭いは覚えやすい。人は物事を把握するためにきっかけを利用している。

 廊下をおもむろに進んでいくと、着用した灰色のジャケットを誰かが引っ張られる。私は足を止めた。また合図だ。

 事態は錯綜としている。私はどうして喫茶店を訪れた?

 正直に言おう。私は物忘れが激しい人間だ。脳に問題を抱えている。何をやるのかを些細な行為でも深刻に考えなければならない。

 メモに書いていたはず。だからここに来た。でも経緯をよく忘れる。

 私を引き留めたのは女性だ。二十代から三十代ぐらいか。カールのかかった茶混じりの黒髪、面長な顔、黒いノースリーブから白い手がすらりと伸びて傷一つない。顔を覆うほどのサングラスをかけている。

「どこに行こうとしているの?」

「久しぶり、でいいかな?」

「なによ、恥ずかしがり屋さん」

 微笑みに私は戸惑う。記憶の整理が必要だ。

「とりあえずサングラスを外してくれないか?」

 私は自らの目元を指さし、女に求めた。顔が見られない相手は不安だ。

「顔が見たいわけ? こないだ見たでしょ」

「素顔が見られない相手は苦手でね。私の症状を教えていただろ?」

 つぶらな黒い瞳、筋の通った鷲鼻、薄紅色の唇。私はさらに詳細にあいての顔を分析する。やはり優里と同じ顔だ。さらに私は顔を分析する。

「君だったか?」

「忘れたの。まったくひどい男ね。散々なことしていたくせに」

「悪かった。思い出していたところ」

 君はこないだ久しぶりと私に語りかけた。いつだって君は私と一緒にいた。

 アイスコーヒーを頼んだ。スマホをテーブルに置き、録音アプリを立ち上げる。記録としては二十二番目に当たる。

「録音をさせてもらいたいが、いいかな?」

「物忘れが激しいのは大変ね。あなたからもらったものを持ってきた」

 女は隣に置いてあるハンドバックからヒスイのペンダントを取り出した。

 じっと見て私は記憶の断片を探る。覚えている。

「捨てずに持っていたのか」

「人の物をさすがに捨てないでしょ。中身は何が入っているの?」

「遺言書だ」

「なんで?」

「私は睡眠薬を飲んでいる。ぼくはPTSDを発症していて薬がないと眠れない。強力なやつで私は過去三回倒れている。もし死んでしまったら、君に財産を残して家を焼いた犯人への復讐をしてもらいたいからだ」

 蘇る悪夢を消すために私は薬を飲み、よく意識を失っている。


「財産、復讐。あと、そのPT?」

「PTSDだ」

 外傷性ストレス障害。過去に生死にかかわるような出来事に直面すると発症する障害だ。

「それだから眠れなくて、睡眠薬を飲んでいる。けどこいつには副作用がある」

 前向性健忘。薬を飲んだ後の記憶を忘れる記憶障害だ。

「物忘れがひどいのはそういうわけ。右手の親指どうしたの?」

 女は私のグラス持った右手に気づいたらしい。私の右の親指は細かい刺し傷がある。黒い斑点のように鬱血が点在している。

「これは合図のせいだ」

「どういうこと?」

「私は誤って薬を大量に飲んでしまう。依存症でね。睡眠薬は脳の機能を抑制する。場合によっては死ぬ。薬を飲んだ後、ここが現実か夢かを針で刺して確かめている」

「そんなに?」

 女は苦い表情をしていた。

「前に言ったつもりだが、忘れたか? 君には針で何度も刺してくれていた。最近は加減をしなくなって痕がひどく残っている」

 こんな怪しい儀式を忘れるはずがない。もしこの事実を知らないなら、目の前にいる女は私のマンションにいる優里とは別人だが、私たちの過去を知っている。

「十年も前だし。それに二人でいたときの記憶は忘れることにしたの。正夢君、自分が何をしたか覚えているよね?」

 女をじっと下目線で見る。きらりと光る眼から怒りでもなく、憎しみでもなく、言葉で例えられない何かに私はいたたまれなくなった。

 私たちの関係はすでに終わっていた。

「君にはとんでもないことをしてしまったと思っている。言葉だけでは表せないよ」

 十年前の私は獣だった。

「誰にだって辛いことぐらいは一つや二つはある。あなただけじゃない」

「体は平気なのか?」

「今さら心配? 大丈夫じゃなかったら、訴えているところだよ」

「言っている通りだな」

「昔の話をしてもしょうがない。レイ姉から聞いたけど。色々大変みたいだね」

「色々とは何を指しているのか即答できないが、私の障害についてはレイナから聞いているのか?」

「多少はね。私が十年前に出てから元気だった?」

「何を言っている? 君は四年前に私の元へ帰ってきたじゃないか?」

 二〇十九年十月七日。あれは銀座のバーでの話。私が長年躊躇していた復讐を決意した日。

「確かに出て行って戻ったら、レイ姉といたから、私は戻らなかったよ」

「二十年前の火事で睡眠薬を飲むようになってから、色々大変だって」

「今は飲んでいない。あいつは医師が処方した薬を変えている。私の記憶障害は君の姉さんのせいだ」

 長い間気づけなかったからくりにようやく気づけたと知ると歯がゆい。

「嘘? 犯罪じゃ? 姉さんがするわけがないよ」

「あいつは私にホットミルクに睡眠薬を飲ました」

 耳元でつぶやいた言葉を伝えた。

「敵が多いタイプだけど。それが事実ならヤバいけど」

「そういうレベルじゃない。俺の家族はあいつのせいで殺された」

「火事って新聞で見たけど、言いたくないけどお父さんの……」

「違う。真相は君も知っているじゃないか。それを知って火事の日に私の部屋にやってきて助けてくれただろ?」

 女が今度はポカンとしている番だ。

「火事の日はどこも行っていないけど」

「なんだって?」

 思わず素っ頓狂な声を出してしまった。

 火事の日を想起する。私の前に現れたのは、なーちゃんという少女。四人が火を付けたといった。

 逃げる時に右手に火傷をした。私は二人を区別するために火傷があるか、ないかで判断していた。

 目の前にいる女の右手首に火傷はない。ならば……

 この女から敵意を感じない。どこかおかしい。何か変だ。

「途中で優里と入れ替わったと言っていた。私はニイナを優里だと思っている」

「まず整理したいけど。レイ姉が優里でしょ。名前を確か変えたって」

 お互いの認識がおかしい。

「どういうことだ? レイナじゃ普通に読めるだろ? なぜ名前を変える必要性がある?」

「漢字が独特で、読めないからだよ。光に奈良の奈で光奈だからね」

「待ってくれ。冷たいに奈良の奈じゃないのか?」

「違うよ。なにそれ? どうして?」

 私は頭を抱えた。「冷奈」と思った理由はなんだ?

 考えてみる。根拠はない。養護施設にいたイメージと、妹の名前から類推して――まさかただの思い込み?

「本当に大丈夫? 学生の頃から付き合っているのに恋人の名前を憶えていないって変じゃない?」

 私は振り返る。よく考えてみればレイナは名前を片仮名で書いていたから、どんな漢字か分からない。名前を変えたときに私は書類を見たはずだ。

 夢は記憶の整理に使われるとフロイトは言っている。寝ているときに浮かび上がる世界線は支離滅裂だ。

「ニイナって名前――漢字は奈良の奈だよね?」

「そうよ」

 よかった。さすがに間違っていなかった。

「説明すれば理解してもらえると思ったし、面倒だから変えなかった。生活に不自由もないし。姉さんが変えてくれたから被らないし」

「君を優里と思っていたらしい」

 私は頭を抱えた。信じられないひどい障害だ。

「近くに住んでいるの?」

 思いついたかのように聞いてきた。

「緑三丁目だ。ここから目と鼻の先だ。君も近所なのか?」

「私は友達が住んでいるから遊びに来た帰りだから」

「なるほど」

「ちょっと寄っていい?」

「え?」

 私は自分が聞こうとしたことを言われて驚いた。

「話を聞いたけど、あんたヤバいと思うよ。レイ姉も何考えているのか、久しぶりに会いたいし」

 あんた、だと……

 ニイナは私にあんたという下種な言い方はしない。でも私の思っているニイナの話だ。薬の投与を辞めてから二か月。私は夢を見るのが下手になっていた。

 私のニイナと、目の前にいる女性と、家にいる優里は違う存在だと知るべきだ。

 人間は対面するときは仮面(ペルソナ)を付けている。表情の装いだけではない。自分はこういう人間であると定義して、自分の性格を決めて生きていく。

 私は見たくもない仮面の裏側を見せつけられていた。

「うちに来るか?」


「本当に心配だから」

「わかった。案内しよう。すみません、お勘定」

 私はマンションに私はニイナと名乗る女性を自宅に連れて行く。同居している優里に目の前のニイナと名乗る女を会わせる。それで答えが出る。どちらが狩るべき最後の相手か分かる。

 記録二十二
 日付:二〇二三年八月六日
 時刻:午後四時九分
 場所:東京都墨田区石原一‐三十五‐六 喫茶店「ヒロイ」
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