ゆめうつつ

平野耕一郎

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終章 正夢

1

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 光奈は私に二十年という歳月をかけて復讐をしかけていた。最も屈辱的な方法で確実に心に影響を及ぼす方法だ。
「じゃあ出発しよう」
「恨むなら、私を奈々だと思い続けていた過去の自分を呪え。ほら、車を出しな」
 自宅から車を出して四時間。懐かしい風景が広がる。私の心は安らぎではなく、焦燥感だった。
「奈々をどうするつもりだ」
「あいつはトランクだ。普通に乗せていたら、警察に通報する、逃げ出すという可能性があるからな」
「乱暴はするな」
 縛られた奈々と目が合った。こらえてくれ。私が決着を付けてやる。
 ばたりとトランクが閉じた。ゴトゴトと音が空しく聞こえた。これは犯罪だ。
 運転中に私はRPGゲームのクライマックス前を想起する。一刻も早く魔王を倒し、囚われた姫を救出して、ハッピーエンドを迎えたかった。
「そう焦るな。たっぷり時間はある。私も聞きたいことがある」
「なんだ?」
「遺言書だよ。どういうものか見ておかないと」
「それが目的か。見てどうする? あれは破棄する」
「お前は私への遺言を棄却しない。そうしないと奈々が死ぬ」
 奈々の命。これこそが光奈の切り札だった。
「狙いは私の財産だな?」
「それも一つだな」
 他にもあるのか?
 欲張りな女だ。光奈はキリスト教の原罪である七つの大罪のすべてを余すことなく持っていて、贖うつもりは毛頭ない。欲望の限り相手を貪り食い尽くす。ターゲットが死ねば、次のターゲットを探す。永遠の捕食者(サイコパス)である。
「ホットミルクに睡眠薬を入れた理由は何だ?」
「そりゃ正体がばれそうになったからだ。さとみのばかが私のせいだと喋りやがったのが悪い。睡眠薬を飲めばお前は記憶を忘れる」
「私を殺すつもりだったのか?」
「致死量は超えていないから安心しろ。お前を殺したら私の狙いは果たせない」
 確かに私を殺して発覚すれば、私の財産はもらえない。この女の性格上、私を薬漬けにして飼い殺しにするつもりだろう。
 不思議なものだ。魔王の居城に、魔王本人と向かっている。どんなゲームでもない設定だろう。一体どうなるのか?
「またお前の考えを当ててやろうか?」
 考え込んでいる私の顔を見て光奈はにやける。
「もう話すな」
 私は車のサイドボックスに置いてあった銃をちらつかせて黙らせた。ここでぶっ放すわけにはいかないし、光奈に効果がないだろうが、けん制をするためには他に方法がなかった。
「物騒だな。検問で見つかったらどうする? お前は捕まってしまうぞ」
「うるさい。黙っていてくれ」
 車は高速道を降りた。オリンピック街道をひたすら走る。途中でわき道にそれて坂道を登っていく。整備されていた道路はガタガタと砂利があふれ、周囲に草木が生えてしまって林道になっていた。
 さすがに二十年の時間の経過に歳月を感じる。
「懐かしそうだな。瓦礫になっても我が家は、住み慣れた場所だな。現実は廃墟でも頭の中では今でも家が建っているだろ?」
「しゃべるな」
 光奈はヘッと笑う。その口の動きは奈々と同じだった。それでも私は一切心が動かなかった。坂道を登り切るとひらけた広場が見える。門があってその奥には白亜調の二階建ての家がある。プールがあったじゃないか。
 光奈の言い分は正しく、私の中では自宅はしっかりとあるからこそ、夢中の世界線で綺麗に思い出せる。
 記憶が交差する。ここで過ごした人生、家庭、願望が混ざり、私の視界を歪ませる。
「しっかりしろ。あまり思い出に浸り過ぎるなよ。現実を見ろ。直進すれば壁にぶつかってしまうぞ」
 しゃべりかけられて、私はそっと右手で銃口を向ける。隙は見せらなかった。廃墟になった自宅には別の車が止まっていた。
 ブレーキを踏んだ。私はシートベルトを外して荒涼とした大地に降り立つ。
 奈々はどこだ? 
 私は急いでトランクに乗っている奈々を助けに向かう。手を縛られている。ほどいてこっちにものにしてしまえば。
「奈々!」
 私はトランクを開けようとした。
「おっと。待ちな。下がれ」
 カチャリと無機質な金属音が私たちの再会を分断した。
 私は出方を見計らうため背後に下がる。光奈は車から奈々を下ろして立たせる。手馴れている素振りだった。
「奈々を放せ! 約束を守れ!」
「状況が分かっていないのか。まず先にお前が銃を捨てろ」
 にらみ合いの緊張が続く。私が不利だ。奈々を失っては元も子もない。私は銃を下ろした。
「こっち側に投げろ」
 光奈は銃を持っていない手で私に手を招く。
 人質に取られてはどうしようもない。
 命が最優先だ。
「歩け」
 私たちは地下へ続く螺旋階段を降りていく。自宅は全焼となり焼け落ちた火元は地下室だ。あの忌まわしき場所は黒く何も見えなかった。
「光を付けよう」
 私は地下室を避けていた。夏場トイレに行くのが嫌だったのは、夜な夜な聞こえてくる喘ぎ声が理由だ。
 何が繰り広げられていたか知るべくもない。ここは父の特別室だ。お気に入りの子どもたちの中でも別格の存在をここに連れ込み、欲望の限りを尽くす。
「あんたは覚えているか? 親父の所業を知っていないか?」
 知らないわけがない。父の裏の顔など……
「あいつはうなじを舐めるのが好きでよ。ベッドが置いてあった。私はよくベタベタと体を触れられた。初めての相手がオッサンだったからな」
「やめてくれ」
「お前の親父が私にやったこと。あれが愛っていうんだろ?」
 私たちは続けざまに撃鉄で頭を殴られた。
 光奈は私たちを悠然と眺め下ろしていた。
「ざまあない」
 私は挑発には乗らない。両親を失って私はあらゆる謗りに受けてきた。親戚たちの目、転校先で待つ風評被害、精神疾患によるうつ症状。廃人に陥りながらも私は死ななかった。
 希望があったからだ。
 奈々だけが生きていればいい。状況は極めて不利だ。縄目をほどいて銃を奪う必要がある。私はチクリと指先に痛みを感じた。血が親指ににじんでいた。
 ガラスの破片だ。希望はまだ残っている。私は破片に活路を見出した。ただ悟られてはいけない。
「喜べよ。お前の大好きなーちゃんに会えたんだから」
「お前の勝ちだ。奈々を解放し、俺を殺せ。終わりにしてくれ」
「バーカ。お前は殺さない。こないだは話しただろ。私に言うことがあるだろ? 忘れたつもりじゃないだろ?」
「それはできない。あきらめてくれ」
 俺は光奈から視線を逸らす。無理なのだ。
「ならば死ね」
 私は向きつけられる銃口に焦った。奈々を殺させはしない。
「やめてよ、どういうことよ! 二人は付き合っているんじゃないの?」
 状況を把握できず奈々は叫んだ。
「口答えするな! お前は黙って見ていればいいんだよ!」
 光奈は斟酌もなく感情のままに妹に蹴りを入れ続ける。
「奈々に手を出すな! やめろ!」
 蹴りが止まった。
「わかった。奈々に手を出すな。お前の要求は呑む。だから暴力はやめてくれ」
 口が裂けても言いたくない。だったら死んだほうがましだが、光奈は容赦なく銃口から火花を飛ばす。ごまかしは通用しない。
「光奈、私と結婚しよう」
 最悪だ。自分のすべてが嫌いになってしまう。光奈は私が望まない全てを持っていた。
 傲慢、嘲笑、冷酷、過信。父が私から遠ざけようと思っていた悪にあふれていた。
「ヘッ、アハハ、アハハハ!」
 光奈は腹の底から笑っていた。
「聞いたか? 正夢が私を好きだってさ。旦那様はあんたに飽きちまったのさ。こいつは性懲りもない男だ。私とのセックスを病院でご堪能していたし」
「やめなって! 意味が分からない!」
 私は助命を光奈に頼んでいた。奈々は耐え切れず発狂した。
「どうした? 何も口もきけないか?」
 理解ができないものを私は見ていた。レイナはありもしない埋蔵金などで四人を焚きつけ、放火までさせた。それで自分は何を得るのだ?
 光奈は綺麗だった。確かに奈々と違い自分の美しさに気づき、最大限に表現することに長けていたが、私はその隣にいて地味で存在感のない奈々を選んだ。
 光奈は心がない美しいだけの造花だった。
 私は赤いバラではなく、野に咲く一輪の名も無き花を選んだ。
 振られたときの敗北が狂気に走らせたのか?
「人に無理やり告白などさせておいて、お前は幸せなのか?」
「ちっとも感じなかったね。お前とのセックス、キスは乾いていた。最悪だ。だから死んでくれ」
「私はお前を愛せない。許してくれ」
「理解したわ。告白なんて下手に受けるものじゃない。くだらない愛のために、死ぬのはばからしいってこと」
「お前は何のために私の家に火を付けたんだ? あの四人は何なんだ?」
「あいつらは私に言われてお前の家で宝探しをしていただけだ」
「ならお前の単独での犯行か」
「動機はお前の親父の善人面が気に入らなかったからだ。金持ちの道楽か知らないが、施設建てて、チャリティーイベント?」
 ヘッと特徴ある笑い方をした。
「あの人は、家のいない子どもたちが楽しめる場を」
「くだらない。金持ちの前で無理やり歌を歌わされて、暑い中で踊りをさせられる。皆、必死だった。こんな施設を建てて、慈善活動だと誇らしく言うあんたの親父に教えてやった。クソでもくらえとね」
 光奈は饒舌になり、まくし立てて話している。
「そんな理由で火を付けたのか?」
「待て。何でも私のせいにするな。もともと火を付けようとしたのはお前の親父だ」
「ならお前が代わりに火を付けたのか?」
 伯父から聞いた話は本当だ。父は不動産経営に行き詰まり悩んでいた。十三歳の私はパニックになり受け入れず、その事実を無視して、目の前にいる光奈の策略に乗せられ、何の関係のないあの四人に復讐していていた。
「火を付ける段になり、親父は怖気づいてしまったわけよ。耳元で私に何やら言うから、面倒になって寝込みに火を付けさせてもらった。夜な夜なお前が聞いていたあえぎ声はただのヘタレの泣き声だったわけだ」
 私はどうしたらいいか混乱していた。
「十歳ながら考えた。人の親父を殺したところで、メリットは何があるかと。ある、私は答えを出した。樫谷家自体は大きな財産を持っている。私はそれを狙おうと思った。オヤジには息子がいる。世間知らずのお坊ちゃんだ。家族を火事で失ったら、お前はどうなるか?
復讐する相手を知っていると告げたらどうなるか?」
「金のためなら何でもするのか!」
「そうだよ! 金、金、金だよ! 正解! 正解もど真ん中の正解! 大正解!」
 光奈は全身全霊をもって金への執着を見せる。それは貧しさがもたらした欲求なのか、両親の愛情の欠如の埋め合わせなのか。答えは知るよしもない。
 ただ私は目の前にいる女に憎悪を感じる。
「私は妹にそっくりだ。話し方も癖も知っている。お前は妹の奈々に興味がある。うまくなりすまして接近ができればと思ったが、お前は東京に行ってしまった。奈々があんたの住所を聞いて、やり取りしているのを見て利用した! あいつらの履歴書を見ただろ!」
 記憶を想起する。一通目は手書きで養護施設の思いでのはがき、二通目は四人の履歴を印刷したもの。明らかに精度が違った。
 奈々はデジタル音痴だ。父のパソコンを壊してこっぴどく怒られていた……
「すべてはお前が私を復讐に誘っていたのか? 私の財産のために? 金ごときに?」
「他に何がある?」
 光奈がおしゃべりを続けている間に私は腕を縛っていた縄目を瓦礫の山の一部を使って削っていた。誤って手を切ってしまったが、何としても縄目を解くことが肝心だ。
 パサリと腕の締まりがほどけた感覚がした。
「お互い長い計画だったわけだ。終わりだ。ここで奈々とはお別れだ。あとはお前の残した遺言書を頂く。筋書きは薬漬けになった男が発狂して恋人を発砲して自殺。私は希坂優里として生きる」
「愛が欲しいんじゃないのか? 子どもが欲しいと言っていただろう?」
「お前の中身のない告白に冷めた。私はそんな形のないものじゃなく実利を取る」
 光奈の冷たい視線が迫る。先に妹を殺すつもりだ。じきに縄は解ける! 
 注意を引きつけ、私は隙をついて立ち上がる。
「お前とも長い付き合いだが、お別れだ。死ね」
 させるか!
「やめろお!」
「てめえ!」
 ドンと銃声が鳴り響く。奈々に当たっていないか一瞬確認した。問題はない。私は次の弾丸が放つ前に光奈に飛びついた。
「やめろ! くそお、離せ! 汚ねえ! 触るな!」
 私はなりふり構わず光奈を倒し、瓦礫に落ちていた石で光奈を叩いた。
「暴れるな!」
 銃口をこちらに向けさせてはならない。
「くそったれが!」
「抜かったな。悪人は得意になると饒舌なり、油断するからいい気になって、自分でチャンスを棒に振るから、最後に負けるんだ」
 光奈も例になく自己愛が高く傲慢な人間だった。
「女を追い詰めて正義のヒーロごっこかよ! いい気なもんだぜ」
「お前の負けだ。なぜだかわかるか?」
「知らない」
「お前は一人だからだ。大勢を手玉に取って、俺たちを追い詰めた。けど思い通りにはいっていない」
 光奈は追い詰められても捨て台詞を吐き続けている。私は銃口を向けつつも、中の銃弾が飛び出されないことを願っていた。私は善人だ。自分の手を染めたくない。
「もう十分だろ。妹を解放してやれ。復讐で人殺しになるつもりはさらさらない。縄をほどけ。そうしたら命は助けてやるから、消えてくれ」
「だめだね、と言ったら?」
 カチャリと私は銃口を向ける。光奈は笑っていたが、揺らがない銃口に焦りを覚えだしたようだ。どんな悪人も死が迫れば、うろたえるわけだ。
「待ちなよ。うちらは三人で仲良く持ちつ持たれつ二十年やってきたんだ。いわば兄妹じゃないか?」
「残念だが、お前と兄弟の契りを交わすつもりはない。俺は奈々を守るだけだ。俺たちの世界にお前はいない」
 光奈の表情は引きつっていた。完全なる拒絶にプライドが傷つけられたからか。違う、目の前に立っている私が別人に見えているのだろう。そう、私は変わった。
「私と奈々の何が違う? 顔もしゃべる声も全て一緒だ。情報だって共有している。いわば脳までも一緒だぜ」
「全然違う」
 私は迷うことなく断言した。私には真実がはっきりと見えていた。何が正義で、何が開くか見極めていた。
「どこがさ?」
「確かに。お前と奈々は瓜二つだ。俺が睡眠薬に依存していたせいもあるが、入れ替わっても気づかないほど似ている。でも、お前はただ奇麗なだけの抜け殻だ。
「何が言いたい?」
「ようは心がないってことだ。妹の奈々を見ろよ。二十年間、お前の無慈悲な願いを叶えてきた。お前は虫けらのように殺そうとしている。そんなやつが愛を叫ぶ資格があるのか?」
「心? そんなものありゃしねーよ。あんたは上辺しか見ていないから、言えるんだ! あの養護施設が何のためにできたのか知らないだろ?」
「父が子どもたちにした事実は悪だ。夜中に廊下を通るたびに吐き気がした」
「だったらこの忌まわしい家が焼いてもらって嬉しいだろうよ? お前の親父は獣だ。心から死んでよかった。それにあいつは自分で家族を巻き添えにしようとして心中しようとしたやつだ。死んだほうがいい」
 私は暑い夏になると、いつも寝苦しく夜中に起きてしまう。トイレに行くときに、どうしても一階のトイレに行く過程で五つの空き部屋を通らなければいけない。
 その時々に聞こえてくる喘ぎ声、父が子どもたちで欲望を満たしている獣の叫びを私は耳にする。
 吐しゃ物を拭いた雑巾を飲み込む気分がしていた。学校に行って友達と話しているときも、家族でご飯を食べているときも、頭から離れない。不意に気分が悪くなり、わけもなく何度もトイレで吐いていた。
 私の背中をさすってくれる人はこの世界においてたった一人だった。私には奈々がいた。だから諦めなかった。
 これらは私の問題だ。他の誰かがどうしていい問題ではない。
「俺は幸せだった。確かに父は家を放火しようと考えていた――」
「そうだ。あいつは人殺しだ。お前にもその血がよく流れている。お前の苦しみはよくわかる! だから」
 私は悪魔の言葉に耳など傾けない。
「それでもいい人だったし、何より尊敬する人だった。お前が奪っていい命じゃなかった。そもそも、勝手に奪っていい命なんてこの世界にない」
「正夢、お前も人間だよ。どんな残酷な人生を送ってきても、うちらは人間だ。だって都合の悪いことは忘れているじゃないか? お前がいい例だ。ヘタレで自分の力では何もできない。私が手伝ったから、お前は復讐ができたんだ! 喜べよ!」
「違う」
 私ははっきりと否定する。
「現実を見ろよ! あんたたちは永遠に私にへつらう運命なんだよ! 私に従え! 支配に従うことが弱者の生きる道だ! お前の親父がしたことをやってやる!」
 夜になると獣だった父の業を背負ったのは私だけではなかった。
「誰もお前にへつらわない。支配なんて受けない。俺と奈々はもう自由だ」
「二人で暮らそう! 私にはお前が必要だ! お前も同じゃないか! いいやつだよ。少しドジで、自分ではロクに決められない男だが、私が付いている!」
 光奈はもみ合いの中で皮肉にまみれた表情で笑顔を浮かべる。
 一緒に生きていきたいは、依存し合うではない。互いの意思を尊重し合い、意見をぶつけ合い、成長していく。
 お前は私たちを堕落に導く存在だ。
 輪廻を断ち切るときだ。
 意識の世界で見たものが今まさに現実となり正夢となる瞬間が来た。
 私の名前は西本正夢。己の人生は自らが切り開く。もう迷いはしない。
「私がしたかったのは復讐じゃない」
 覚悟を決めた。光奈よ、お前の業も私が背負おう。
 ドン!
 火花とバリウムの煙などの発射残渣が私に降り注ぐ。銃弾は光奈の胸を貫いた。よろよろと動くとバタンと仰向けに倒れた。
 私の望んだことは解放であり、真実の愛だった。
 古代ギリシア人は「真・善・美」を求めた。私の求めていたものもそれだ。かくして二十年に渡る復讐の縁を断ち切った。
 私はふっと息を吐いて静かに目を閉じる。
 光奈を撃った時、デジャブを見た。私は夢の世界で光奈を殺している。また夢ではないかと疑うのは自然だ。でも夢か現実か知るすべを合図に頼りたくない。私はこの目で今自分が立っている世界が現実か確かめる。
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 目を閉じてみる。
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 奈々はどこにいる?
 辺りを見渡して、私が望んだ世界線の中で見つけた。
「大丈夫か」
 奈々の瞳から涙がこぼれていた。私は守るべきものをグッと抱き寄せる。
「私は平気」
「一人がやったことだ。もう終わった。君は気にしないでくれ」
 奈々と一緒に生きていたい。私が望んでいるのは、心からともに人生を捧げたいと思った人と暮らす。ただ私は罪を償わなければいけない。
 私の手は血塗られてしまっている。穢れは禊落とす必要がある。
「痛い。そろそろ放してよ。私は正夢君の彼女じゃないし」
 あまりにも抱きしめ過ぎたのか、奈々はパンパンと私の背中を叩いた。
「とにかく警察に行く。事情はどうであれ、光奈を殺めた事実は変わらない」
「今の一連の流れを見たら、警察に行ったほうがいい」
「正義は公平に行わなければいけない。俺は人殺しだ。だから罪を償わなければいけない」
「ご立派な考えだけども。状況から見て正当防衛になる可能性があるかも」
「なんだと?」
 私は淡々と状況を分析する奈々に驚いていた
「だって銃を向かってきたのは向こうだし、もみ合って弾みで撃った感じがした」
「私がやったことには変わらないが?」
「私はもみ合って姉さんを正夢君が撃っちゃったって言う」
「取り繕わなくても」
「本当だよ。嘘なんてつかないよ。偽証罪になる可能性あるし。正夢君がご立派な正義感を振りかざしてもいいけど。法には色々あるからね」
「色々と詳しいな」
「これでも法学部だからね」
 奈々はにべもなく言う。
「ぷっ」
 まさかここまで想像していた以上に奈々の私のイメージと異なるとは。
 私は夢現な世界を生きていたのだろう。三十二歳になって現実の苦みを噛み締めていた。
「笑い事じゃないよ。大事な話をしたつもりだけど。ま、詳しく説明してあげる」
 淡々とした言い方だった。こんな廃墟で法学の説明を受けるとは思いもしなかった。
「自分が人殺しと言っていたけど、それを決めるのは司法だから。まず犯罪には構成要件がある。殺人罪の場合は、人を殺す。これに異存はないよね?」
 私はほとんど上の空で答えていた。
「でもそれだけじゃ犯罪は成立しない。後、必要なのは違法性と有責性ね。三つがそろわないと犯罪は成立しない。わかった?」
「難しい話だな」
「じゃ、違法性からだけど、正夢君は銃を突き付けられていて、上手く縄を解いて抵抗した。もみ合っているうちに拳銃の引き金を引いて姉さんを殺してしまった。これはね、刑法三十六条一項が成立する可能性があるの」
「なんだい。刑法三十……」
「正当防衛。それは聞いたことはあるでしょ?」
「あるが、私は現に殺してしまっている」
 難しい。奈々はとことん正当防衛について説明してくれた。ここじゃなくてもいい気がするが。
 正当防衛は「急迫不正の侵害に対し、自分または他人の生命・権利を防衛するため、やむを得ずにした行為」に対して適応するらしい。
 奈々からしたら、銃はもみ合いになって奪って、弾丸が発射された。光奈は死んだ。自らの生命を守るための行為で人を殺めても殺人罪にはなり得ないわけだ。
 私はトントンと頭を叩いた。全然奈々の印象が違い過ぎた。ただこれも悪くない。
「君は面白いな」
「当たり前を言っただけど」
 背後で音がした。
「下らねえ講釈を垂れやがって。勝手に殺すな……へッ、何が法律だよ。綺麗ごとを抜かしやがって。私を悪人に仕立てて、いい気なものだ……」
「事実じゃないかしら?」
「死に行く姉に吐く言葉かよ?」
「息あるね。とにかく救急車と警察を呼ぼう!」
「お前の恩情など受けたくない……」
「ばかを言わないで。けが人を助けないとこっちだって困るわ。姉さんのためじゃない。私たちのためにね」
 死に瀕した光奈の口元から赤い線が垂れる。表情には後悔はない。どこかホッとしていた。私と光奈は何と戦っていたのだろう。
「お前らが、これからどう生きるか……」
 パッと光奈は最後の力を振り絞り私から銃を奪った。
「危ない!」
 撃たれる。奈々は私が守る。
 私はとっさに奈々の前に立ちはだかる。構えの姿勢で防御をする。この距離では急所を狙えてしまうし、二人同時に撃たれてしまう。
 何のガードにもならない?
 私は死を覚悟した。死んだら夢を見ることはできない。何もない世界、いわば虚無に陥る。
 いやだ!
 生まれて初めて死を忌避した。
 凄まじい轟音に私は耳の鼓膜が破れた気がした。無音の状態になり、時間が止まったかに思えた。間違いない。私は死んだ。目を開けるのが怖かった。
 生きていく世界は現実でしかない。目を開き状況を確かめたかった。
 勇気をもって目を開けると、死んでいる希坂光奈がいて、物語は終わりを告げている。
 姉の光奈は何を最後に残したのだろう。その言葉は分からない。その死もまた私の業なのだ。妹の奈々は泣かなかった。同じように驚いていた。私の決意を理解してくれた。
「かわいそうな姉さん」
「死んだのか?」
「だめみたい。警察に行く?」
「迷惑をかけて申し訳ない」
「いいよ。どうなるかは分からないけど、待っているから」
 東の空から朝日が差し込む。いつの間にか闇夜は消えている。日の出を迎えた太陽は煌々と頂点を目指して大地にいる全てのものを照らす。私は光を見てもまぶしいと思わなかった。これからは光の中を歩んでいく。
 私はこの世界で一緒に生きていたいと決めた相手に送るべき最大の賛辞を言える。この言葉を伝えたい。自信はある。
「こんな俺でもよければなんだけど、言ってもいいかな?」
「いいよ」
「君が好きだ」
「はは、ウケる。初恋じゃあるまいし。とにかく気持ちは受け取った。まずは警察に言ってからだね」
「彼氏がいるはずなのに、受け入れられるはずないか」
「あれは嘘。再会したときは別に正夢君が好きでもなかったから、いるって話しといて、諦めてもらおうと思ったの。スーパーで会った時、色々聞かれそうだったから」
 鋭い。光奈の読みは当たっていた。
「別にそうでも」
「すごいじろじろ人の顔を見ていたもん。二十年振りなんてほとんど初対面と一緒じゃない?」
 奈々はクスッと私の顔を笑う。だがこれでいい。大事なのは気持ちを伝える。
「なら君の答えは全てが済んでから聞かせてくれ」
「オッケー。でも、嬉しい」
 私は真心の言葉を最愛の人へと伝えられた。奈々は私にキスをくれなかったが、居間ではない。これからなのだ。
 ようやくメビウスの輪を抜けられ、私たちは未来へと歩を進められる。
 日の出を迎えた太陽を阻むものは何一つない。
 もうこれ以上の記録はいらない。私には生きるべき道が見えている。

 記録二十五
 日付:二〇二三年八月八日
 時刻:午前五時六分
 場所:長野県上安曇群白馬村 廃墟(元樫谷家)
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