ゆめうつつ

平野耕一郎

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第四章 二人の女

4

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 ケリを付けてやる。私はセダンを運転中に心で叫んだ。

 長野ICで高速を降りた。自宅から約四時間が経過していた。決着の時は近くなると私の手は震えた。車のグローブボックスには拳銃が入っている。

 帰省にここまで焦燥感が関わっているのもない。

 日付は二〇二三年八月七日私からすべてを奪い去った火事から二〇年が過ぎた。

 私は終止符を打つ時が来た。悪しき者たちは裁きの場に引きずり去られ、私の手により葬られた。

 あと一人残っている。

 私は大学生時代の恋人の奈々を家族に合わせるために、白馬村になる実家に戻っていた。ただそれだけではない。真の目的が他にある。

 私にはやるべき使命がある。すなわち復讐である。二十年間、追い続けてきた犯人への審判の日が今日だ。

 何も知らず隣に助手席に乗る奈々は笑っている。

 大通りを進んでいく。途中で畦道を通り、整備された坂道を登っていく。なだらかな坂だ。幼い頃、妹と坂の麓から掛けっこをしたものだ。

 何度やっても私が勝ってしまう様子を見て、父は負けてやるのも大人だと教わった。立場の弱い者にムキになって勝っても何の面白くもない。

 父は余裕を忘れてはいけないと唱えていた。大事を成し遂げる前に必要なことは余裕だ。

「もうすぐ着くのかな?」

「君も子どもの頃に私の家に来ただろ?」

「ずいぶん前だからね。忘れちゃった」

「大丈夫さ。時期に思い出させてあげるよ」

 視界がひらけて三階建ての白亜の家が見えてきた。

 春になれば桜の木の下で花見をした。

 夏になれば自宅のプールで泳いだ。

 秋になれば紅葉でハイキングをした。

 冬になれば近くのゲレンデでスキーをした。

 門が開いている。私は乗ってきたセダンを敷地内に留める。庭にはチューリップの花束が色とりどり咲いている。

 今は夏。私は過去を思い出している。

「両親に連絡してくるから、ちょっと待ってくれ」

「楽しみだなー」

 そうじゃない。犯人を殺すために私は奈々を待たせていた。汚らわしい惨状に最愛の人を連れ込むわけにはいかない。

 玄関を開けて突き当りに進んだ奥のトイレの隣にある地下に続く螺旋階段をトットッと下る。

 焦るな、落ち着け。

 相手は下にいる。

 薄暗い部屋が広がっていた。父の地下室だ。火元はここだった。私は地下室に入った記憶がない。意識内で再現しようにも上手くできない、というよりしたくない。

 あれほど教育熱心な父の樫谷翔哉が欲深い大人という獣になる部屋だからだ。とにかく子どもが目にしていい光景ではない。私は嫌な記憶を封じて忘却した。

 視界がひどく悪い。暗闇に包まれているより、黒い靄が覆っていると言うべきか。ずいぶんと幻想的な光景だ。

「待たせたな。ここがどこか君なら分かっているだろう」

 私が向けた灰色の銃口が一人の人物を捉えている。ゲームじゃない。これは現実だ。

まさに緊迫した状態にいる。一瞬でも気は引けない。

 こいつだ。間違いない。

 黒い影に覆われているが、私が求めてきた最後の敵だ。とたんに憎悪と怒りが湧いてきた。仕留めてきたどんな敵よりも狡猾で冷酷で難解だった。

 私は額に浮かぶ汗を慎重に拭う。相手に隙を与えないためだ。二十年の歳月を復讐に費やした。些細なボロで破綻させてはいけない。

 終わりを迎えようとしている。

「私をこんなところに呼び出して何の用だ?」

 用だと?

 この悪魔が。暗がりに隠れているつもりだろうが私はお前がどんな表情をしているか知っているぞ。

 大ありだ。私はすっと懐に閉まった銃を取り出した。

「覚悟しろ。死ぬ前に贖罪の気持ちを言え! 家族の骸に跪け!」

 この至近距離だ。

 外すはずもない。相手は逃げられない。

 汚れたその命を繋ぎたければ、私に命乞いをするしかない。涙容赦もなくお前は全てを私から奪い去った。同じ目に遭わせてやる。

 私の怒りを知るがいい!

 あらゆる呪詛の言葉を吐いたが、へらへらと笑っているばかりだ。もはや何の反省もない。人の顔を被った獣だ。人の幸せを灰にした悪魔は目の前にいる。

 獣は五人。うち四人に制裁を加えた。あと一人だけになった。最後の悪魔は平然とたたずんでいる。

「お前の親父が私にやった。あれが愛っていうんだろ?」

 私は耳を疑う言葉が吐かれる。

 悪徳に塗れた言葉で騙されなどしない。額から流れる汗は拭う。

 愛だと。獣が、お前が口にしていい言葉じゃない。他人を殺した人間が愛を語るなどゆるされるはずがない。

 ドン!

 手に持っていたスミス&ウェッソンから火花とバリウムの煙が舞い、空薬莢が黒焦げの土に落ちた。銃口が熱い。弾丸は高速で発射されて摩擦熱を持っているからだ。

 獣はよろよろと後ずさりをしてバタリと倒れて周りの漆黒に埋もれた。悪人に相応しい最期だ。獣はしばらくの間、痙攣していた。たかだか九mm足らずの弾が人体に大きな損傷を与えて死に追いやるなどと、信じられるはずがなかった。

 何の憐憫も生まれなかった。

 正義は勝った。悪が蔓延らない。悪しき人間は例外なく傲慢かつ軽薄で油断する生き物だ。

 私は正義の静寂に酔いしれていた。かつてないほどの解放感。私の心を覆っていた復讐の鎧が自然と外された。

 これからどうすればいい。目的を果たした自分がすべきことは何だろう。ゴールに達してその先のビジョンを私は思い描いていなかった。

 ただとても疲れた。費やした時間は長すぎた。ドッと疲れのあまり私は不覚にも眠ってしまった。

 私は夢の中にいるのに、どうして疲れるんだろう。犯人を殺害する夢など何度も見てきていたのに……

 

 トン、トン。

 扉が叩く音がした。どうやら私の部屋で寝ているらしい。懐かしい感触がする。絹地の枕、クリーム色の掛け布団が心地よい。

 合図がなかったから目覚めたくなかった。

 ふいにツンと左指を貫く感触がした。

 貫く私の指が違う。違う。ここは現実ではない。

 私は眠ってしまったらしい。体を起こした。

「どうして?」

 奈々が枕元にいる。就職活動中だったから黒髪で長さはボブだった。首にかけたペンダントに西日が差し込みキラリと反射する。

「何って? 正夢が家族に会わせたいって言ったでしょ?」

 私は戸惑いを覚える。記憶があやふやだ。

「分かっているよ」

 夢の中の世界線は不安定だ。突然、見ている景色が変わることがあるし、どうしてこうなったか背景もない場合もある。

 だからこそ夢なのだ。ありもしない世界は混乱した記憶の整理のために発生する。私はよく夢を見ている。平均的な人より長く見ているほうだ。たいした才能に恵まれていない凡庸な人間だが、私は眠ると好きな夢を頭で再現して調整できる。

「ほら起きなさい」

 奈々はふざけて爪楊枝で左手首を煩雑に突いていた。

「起きているよ」

 私はうっとうしいと思いながら返事をした。

「皆が待っているから行こう」

 手首を見たが、変化はなかった。だいぶ強く突いているのに痕もないし、痛くもない。やはりここは夢だ。

「お連れしましたー」

 奈々は円卓の食卓に腰かけた。

「みんな」

 たどたどしい挨拶。あまりにも他人行儀過ぎる。ぎこちない態度に家族は吹き出した。私もつられて笑った。家族で過ごすシーンを想起するのは何年ぶりだろう。

「さっき部屋を通りすがったら寝息が聞こえたよ。寝坊助さん」

 妹の五月がニカッと八重歯が見えた。

「いくつになっても変わらないな」

 翔哉は活舌が良く私と違って歯切れがいい。

「父さん。仕事はいいのかい?」

「今は夏休み期間だぞ。だからこうして家族全員で過ごしているんだ。希坂さんも連れてきたいって言ったのはお前じゃないか?」

「とにかく皆元気でよかったよ」

 快活な父の微笑みには資産家としての余裕がにじみ出ていた。他者に対して分け隔てなく接する秘訣は心の余裕だと父は語る。

 一家団欒な光景。これが夢の果てである。

 浮かび上がったとき、私は幸せの絶頂にいて終わりを迎える。夢は儚いものだ。どんなに楽しいときが間に入っても終わってしまう。

 夢世界は幸せが原動力になっている。

 希望に包まれて日々が広がっている。私は成長して将来を約束した恋人を紹介したかった。とうとう願望は叶ったのだ。

 夢の世界だから当然ではある。

 私の望んだ世界線では意識すれば、望んだ世界を生み出せる。世界に醜悪さは望まなければ不要なものは排除できる。夢ならば何でもありだ。

 二十年前に死んだはずの父、母、娘は当然ながらそのままの背格好。私は生きているから成人している。奈々も成人している。

 つまりここは現実ではない。

「二人ともすっかり大きくなったわね」

 実家に奈々を連れて来たのは、母の思いやりの言葉を聞きたかったからだ。私が母にその言葉を吐くように仕組んだ。

 私と奈々は幼少期を白馬村で過ごした。二人が成長する姿を心待ちにしていたのは母だったはずだ。こうして空想の世界でも成長した姿を見てもらうだけでも供養になるわけだ。

 慈愛の表情を浮かべる母に私は釣られて笑う。全員が幸福を発露している。私たちは幸せだ。いつまでも続いてほしい世界。

 食事はすき焼きで、ベジタリアンな樫谷家にしてはずいぶん豪華な夕食だ。私はあまり肉類を食べさせてもらっていない。だから夢ではご馳走をありつきたかった。

 満腹になると眠くなった。十分だった。

「寝ちゃうの。合図しようか?」

「全部終わったから」

 復讐は終わったから自由なのだ。私は横にともに寝そべる奈々の髪に触れる。白菊のような透き通った手の甲にキスを交わした。傷はなかった。

 最後に首にかかったペンダントを開くと、私のかけがえのない財産が詰まっているのを見た。

 登場人物たちの相貌や、世界が少しずつ崩れていった。どうやらこの世界とはお別れの時が来たようだ。

 幸せに包まれたとき、私の世界線は閉じていく。私は癒しを求めていた。いい夢を見せてもらった。

 やるべきことを果たした時、私には何が残るだろうか。考えてもまだわからない。それでも不確かな現実で私たちは生きていかなければいけない。

 ゆっくりと私は眠りに落ちていく。次に目覚めた後の世界はどこだろうか?

 現実?

 夢?

 ただ言えるのは、私の世界はいつだって両親たちと過ごした白亜の家の中にある。私にとって不変の真実である。

(第三章 覚醒へと続く)
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