唐紅の風 ~平安の女流歌人の一生

naomikoryo

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第二十八話「還る詞」

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冬の都は、山より冷えていた。

細く凍った風が瓦を鳴らし、御所の庭にはうっすらと霜が降りていた。
その霜の白のなかに、紅の裾がひとすじ、音もなく延びていた。

紅の旅を終えて、藤原高子は御所へと還った。

だが、その足取りは軽く、背筋はまっすぐで、顔には柔らかい緊張と静かな覚悟があった。

出迎えたのは、やはりいと。

「……姫様。御所の空気は、旅立ちの日と、あまり変わっておりません」

「ええ。変わっていないように見えるものほど、
こちらが変わると、違って感じられるのよ」

高子は、まっすぐ御所の廊下を歩きながら、襖に触れ、床板の軋みに耳を澄ませた。

都の空気は、張り詰めていた。
噂、視線、沈黙――すべてが以前と変わらずそこにあった。
だが、高子の中に、かつて感じていた怯えはなかった。

 

戻った翌日、白河院の書院に呼ばれた。

「――お前は、変わったな」

と、院は言った。

「旅に出る者は多い。
だが、帰ってきた者の多くは、旅の間に何かを捨ててきておる。
お前は……なにを捨て、なにを持ち帰った?」

高子はひとつ深く息を吸ってから、答えた。

「――“守られる詞”を捨てて、“歩く詞”を持ち帰りました」

「ほう?」

「御所の中で詠む詞は、誰かの目に向けて置く詞です。
評価され、読まれ、測られることを前提にあります。
でも、外の風の中で詠む詞は、“誰にも届かないかもしれない”詞です。
……それでも詠む、それが“歩く詞”だと知りました」

院はしばらく黙っていたが、やがて、机上の和紙を手渡した。

「この詞は、お前が去った後に、ある若い女官が詠んだものだ。
名も上がらぬ、声もかけぬ、ただ影のように過ごしていた子だが、
お前の詞を写し、それに返す形でこの一首を置いた」

高子は紙を受け取り、読んだ。

 

あゆみなき ひとのうたにも みちがあり
しずかによりて わたしもあるを

 

高子は目を閉じた。

沈黙の庭で、声を失った女たちが、
自分の詞に触れ、自らも歩こうとしていたことを、
旅のあとにようやく知らされた。

 

その夜、高子は、女房たちの前に出て、正式に旅の復帰を詠歌によって告げた。

御所の香の間、灯がゆらめくなか、高子は静かに立ち、一首を示す。

 

かへるべき ことの葉もまた はじまりと
おもへば雪に たちてうたへり

 

「還る詞」とは、終わった詞ではない。
また“始まる詞”であること。
その宣言に、誰も言葉を返さなかった。
だが、部屋の空気はたしかに揺れていた。

翌朝、その詞が短冊に記され、御所の正門脇に掲げられた。

誰が書き写したのか、誰が掛けたのか。
それは不明のままだったが、通り過ぎる者が、足を止めていた。

そのなかには、以前は高子に背を向けていた女房たちもいた。

 

その夜。
いとが茶を淹れながら、高子に尋ねた。

「姫様。あの“還る詞”は、誰に向けて詠まれたのですか?」

高子は、少し考えて答えた。

「……“今のわたし”に向けて、ね。
出発した頃の“わたし”が、いまのわたしに出会ったとして、
また詠もうと思ってくれるように」

「それは、とても強い詞ですね」

「ええ。
きっといちばん強い詞は、“自分自身を信じて詠む詞”だと思うの」

 

その晩、風が強かった。
けれど、高子の灯は揺れずに燃えていた。

紅の裾は、雪の中でもなお、確かな色を保ち続けていた。

 

(続く)
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