唐紅の風 ~平安の女流歌人の一生

naomikoryo

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第二十九話「影を踏む日」

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還る詞が掲げられてから七日が過ぎた頃。
高子は、御所の奥、白河院の私的な書院に呼ばれた。

白梅の蕾がかすかに色づき始めていたが、空気にはまだ冬の張り詰めた冷たさが残っていた。

院のもとには、数名の文官が並び、一枚の和紙を手にしていた。

「藤原高子。――お前の詞を、ある件に用いたい。許しを得るために、今日ここに呼んだ」

院は、静かに言った。

「御所付きの女房の中に、職務に背いた者がいる。
けれど、直接名を問うのではなく、“詞による裁き”をもって決することになった」

「詞、による……?」

「そう。
和歌の上で“誰を退け、誰を選ぶか”を判じる。
つまり、お前が詞で“誰を残すか”を詠めば、その者が残る。
……逆は、去る」

高子は目を伏せた。

(わたしの詞で、誰かの居場所が決まる)

それは、これまでずっと“受ける側”であった彼女にとって、
はじめて突きつけられる「裁定者」としての立場だった。

「なぜ、わたしが?」

「お前の詞は、“影を映す詞”だからだ。
光だけでなく、心の奥、隠れた部分まで映す。
だからこそ、“誰を残すべきか”を詠ませるには、お前が最も適している」

「……けれど、詞は刃ではありません」

「刃にするのは、読む者だ」

白河院の言葉は重かった。
だからこそ、高子はわずかに目を伏せたまま、ひとつだけ尋ねた。

「その“選ばれる者”と“去る者”は、誰か存じ上げても?」

「否。お前は、名を知らぬまま詠む。
ただ、目の前に立つ二人の女房を見て、詞を詠め」

 

しばらくして、薄い几帳の向こうにふたりの女が並んで座した。
ひとりは年若く、もうひとりは目元の鋭い女。

高子は、その姿を見た瞬間、心の中でふと何かが響いた。

(このふたり……どこかで、詞を受け取ってくれた人たちの“影”)

名は知らない。
けれど、どちらも自分の詞を読んだことがある目をしていた。

そのとき、筆が自然に動いた。

 

ひとしれず あしもとにさく はなこそは
ふみしめられて かをぞたもてる

 

“誰にも見えない場所に咲く花ほど、
踏まれてなお香る”

その一首を置くと、院はただ「わかった」とだけ告げ、女房たちは退けられた。

高子は、結果を問わなかった。
問えば、詞が“命令”になってしまう。
詠んだ以上、あとは誰かが読んで決めること。

けれど、いとはあとで、ぽつりと告げた。

「……姫様の詞で、残されたのは、年若いほうでした。
あの方は、沈黙の庭で詞を読みつづけていた女房のひとりです」

高子は、静かに頷いた。

(わたしは“影を踏む”一首を詠んだ)

(そして、それが“誰かを救い、誰かを去らせた”)

 

その夜。
高子は、自室で灯を落とし、筆を持ったまま、ずっと詞を書かなかった。

ただ、火だけを見つめていた。

「……いと。
わたしは詞で人を刺してしまったのかしら」

「いいえ。
姫様は、“踏んでも香る花”を詠んだだけです」

「でも、詞が刃になる瞬間がある。
それは、読む者の意志ではなく、“場”がそうさせる」

「だからこそ、姫様の詞が“香”であってよかったのです」

高子はしばらく沈黙し、そしてようやく一首を記した。

 

ことのはに うつしえならぬ かげもあり
ふまれしあとに のこるぬくもり

 

踏まれたあとに残るのは、影だけではない。
香り。温もり。
そこに咲いていたことを、誰かが覚えてくれるのなら――

それでも、詞を詠む意味は、消えない。

 

その日から、「詞による裁き」の慣習が、密かに御所に根づいた。
だが高子が再びそれを担うことはなかった。

一度だけ“影を踏んだ”者として、彼女はその重さを知ったのだ。

だからこそ、詞を詠むことは、ますます慎重になり、
同時にますます、澄んでいった。

 

ことばは、香にもなれば、刃にもなる。

そしてそのどちらでもなく、“ただ誰かの中を通る風”になることもある。

それを知った者だけが、ほんとうに――詠うことができる。

 

(続く)
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