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第三十話「唐紅の風(からくれないのかぜ)」
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その年の春は、唐紅(からくれない)の花が早かった。
紅梅の蕾が開いたと思えば、すぐに風が吹き、
散るはずのない時に、花びらがふわりと空に舞い始めた。
それはまるで――
誰かがそっと、“詞の仕舞い”をはじめたかのようだった。
高子は、御所の縁先に腰をかけていた。
足元には焚かれた香がうっすらと漂い、衣の裾に春の埃が混じっていた。
「……春の風が、少し強いわね」
「はい。でも、それは“やさしい風”です」
いとはそう言って、高子の隣に座った。
「都の人々の間で、最近こんな噂があります。
“唐紅の風が吹くと、詞が芽吹く”――と」
高子はふと微笑んだ。
「まるで、わたしが風になったみたいね」
「姫様の詞が、もう“姫様だけのものではない”という意味かもしれません」
そのとき、ひとりの女官が小走りで近づいてきた。
「高子様。院より、最後の“詞のお願い”がございます」
「……最後?」
「はい。
和歌所を離れるにあたって、“後進に残す詞”を一首、文集に寄せていただきたいとのことです。
“詠うということは何か”――それを問われております」
高子は、庭の紅梅を見上げた。
たくさんの詞を詠んできた。
火のような歌も、霜のような歌も、涙のような歌も。
誰かを癒やし、誰かを追い、誰かを抱く詞。
けれど今、自分に求められているのは、
「詞そのもの」への、ひとつの結び。
それは、華やかな名歌ではない。
たぶん、誰かの心を打つための詞でもない。
ただ、自分自身が「詠い続けたその日々」への返歌。
高子は、筆を取り、墨を置き、最後の一首をしたためた。
ことの葉の おもかげしるす 風となり
わがみはしづく はるのくれなゐ
(――詞は、わたしの姿ではなく、影。
風に乗り、人の心に触れ、そして去っていく)
(それで、いいのだ)
その歌が院に届けられると、白河院はしばらく黙してそれを見つめ、
やがて静かに呟いた。
「――ことばは、風になったか。
唐紅の風――
ようやく、己を残さずに、“詞だけを置いていく”詠み手となったのだな」
同じ日の夕刻。
高子は、和歌所の蔵を訪れた。
そこで彼女は、自らの詞を収めた巻物をひとつ、棚に戻した。
それは、名歌集ではなかった。
火に焼かれかけ、手で継がれ、紙も折れ、字も滲んでいた。
けれど、その詞こそが――生きた詞だった。
「……いと。
これで、わたしの詞は、ひとつの風として、都に残ります」
「はい。
そして風は、消えません。
いつかまた、誰かの袖を揺らし、心を震わせる日が来ます」
高子は、振り返りもせずに扉を閉じた。
春の風が吹いていた。
唐紅の花びらが、空に舞い上がっていた。
そのなかを、紅の衣をまとうひとりの女が、御所をあとにした。
誰にも告げず、誰にも惜しまれず。
ただ、詞を風に託して。
その名は、記録に残る。
けれど、その詞は、風に残る。
そして、読む者がそれに触れたとき――
そこにたしかに、「藤原高子というひとりの女が、生きて、詠んでいた」ことを、
風が教えてくれるだろう。
くれなゐの かぜとなりたる ことのはは
こゝろにふれし ときぞまことと
(終)
紅梅の蕾が開いたと思えば、すぐに風が吹き、
散るはずのない時に、花びらがふわりと空に舞い始めた。
それはまるで――
誰かがそっと、“詞の仕舞い”をはじめたかのようだった。
高子は、御所の縁先に腰をかけていた。
足元には焚かれた香がうっすらと漂い、衣の裾に春の埃が混じっていた。
「……春の風が、少し強いわね」
「はい。でも、それは“やさしい風”です」
いとはそう言って、高子の隣に座った。
「都の人々の間で、最近こんな噂があります。
“唐紅の風が吹くと、詞が芽吹く”――と」
高子はふと微笑んだ。
「まるで、わたしが風になったみたいね」
「姫様の詞が、もう“姫様だけのものではない”という意味かもしれません」
そのとき、ひとりの女官が小走りで近づいてきた。
「高子様。院より、最後の“詞のお願い”がございます」
「……最後?」
「はい。
和歌所を離れるにあたって、“後進に残す詞”を一首、文集に寄せていただきたいとのことです。
“詠うということは何か”――それを問われております」
高子は、庭の紅梅を見上げた。
たくさんの詞を詠んできた。
火のような歌も、霜のような歌も、涙のような歌も。
誰かを癒やし、誰かを追い、誰かを抱く詞。
けれど今、自分に求められているのは、
「詞そのもの」への、ひとつの結び。
それは、華やかな名歌ではない。
たぶん、誰かの心を打つための詞でもない。
ただ、自分自身が「詠い続けたその日々」への返歌。
高子は、筆を取り、墨を置き、最後の一首をしたためた。
ことの葉の おもかげしるす 風となり
わがみはしづく はるのくれなゐ
(――詞は、わたしの姿ではなく、影。
風に乗り、人の心に触れ、そして去っていく)
(それで、いいのだ)
その歌が院に届けられると、白河院はしばらく黙してそれを見つめ、
やがて静かに呟いた。
「――ことばは、風になったか。
唐紅の風――
ようやく、己を残さずに、“詞だけを置いていく”詠み手となったのだな」
同じ日の夕刻。
高子は、和歌所の蔵を訪れた。
そこで彼女は、自らの詞を収めた巻物をひとつ、棚に戻した。
それは、名歌集ではなかった。
火に焼かれかけ、手で継がれ、紙も折れ、字も滲んでいた。
けれど、その詞こそが――生きた詞だった。
「……いと。
これで、わたしの詞は、ひとつの風として、都に残ります」
「はい。
そして風は、消えません。
いつかまた、誰かの袖を揺らし、心を震わせる日が来ます」
高子は、振り返りもせずに扉を閉じた。
春の風が吹いていた。
唐紅の花びらが、空に舞い上がっていた。
そのなかを、紅の衣をまとうひとりの女が、御所をあとにした。
誰にも告げず、誰にも惜しまれず。
ただ、詞を風に託して。
その名は、記録に残る。
けれど、その詞は、風に残る。
そして、読む者がそれに触れたとき――
そこにたしかに、「藤原高子というひとりの女が、生きて、詠んでいた」ことを、
風が教えてくれるだろう。
くれなゐの かぜとなりたる ことのはは
こゝろにふれし ときぞまことと
(終)
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