花村蘭子ものがたり 〜昭和の風、紫陽花の恋〜

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第5話「魚屋のにおい」

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六月の雨は、まるで誰かのため息みたいに降る。

しとしと、ぽつぽつ、時折、窓ガラスをくすぐるようなやさしい調子で、小さな音を立てながら、花村家の庭を濡らしていた。
あじさいの葉の上に、透明な水玉がころころと転がっている。

「雨って……なにかこう、人生の悲しみみたいなものを連れてくると思いませんこと?」

蘭子は、縁側に座り、頬杖をつきながらそう呟いた。

隣には、母・伊都子が座布団を敷いて、お茶をすすっている。

「蘭子、宿題したんか?」

「してますわ。心の中で」

「……それは宿題とは言わんのや」

「お母様、わたくしの心は常に詩を読んでおりますのよ。“あめふりは さびしさつれて かさのなか”……ふふ、どうかしら?」

「自作の俳句かいな」

伊都子は笑って、蘭子の頭を軽く撫でた。
娘の空想癖は相変わらずだったが、最近は言葉がますます饒舌になってきて、もはや母の理解を越え始めていた。

それでも、彼女の心がどれだけ繊細で、何を思っているかは、毎晩そっとつづる日記帳の厚みによって、母なりに感じ取っていた。

今日は日曜日。
学校が休みなのをいいことに、蘭子は朝から「冒険に出ますの」と宣言して、いつものサンハットとレインブーツを履いて、家を飛び出した。

目的地は――言うまでもなく、江本鮮魚店である。

だが今日は、おつかいではない。
彼女の心に決めた「計画」があった。
その名も、“蘭子・魚屋潜入作戦”。

「わたくし、もっと晋平さまのお仕事を知りたいの。彼の世界を覗かずして、どうして真実の愛を語れましょう」

母にそう告げたとき、「愛て……」と呆れたような返事が返ってきたが、蘭子は聞こえないふりをして、にっこり笑った。

雨がしとしと降る商店街。
傘を差した客足もまばらな午前十時過ぎ。
江本鮮魚店の暖簾は、いつもより少し湿気を帯びて、重たげに揺れていた。

「おはようございます、ごきげんようでございます」

傘を畳んで入ると、奥から和江がにこにこと顔を出した。

「まあまあ、蘭子ちゃん。今日もおしゃれやねぇ。……あら? お買い物じゃないの?」

「本日はですね、実地研修にまいりましたの。将来的にこのお店の仕組みを学ぶ必要があるかと存じまして」

「……? あんまり難しいこと言うと、魚も逃げるで」

「魚は逃げても、わたくしの心は捕まえますわ」

和江は「ようわからん子やなぁ……」と笑いながら、蘭子を奥の作業場へと通してくれた。

「お父さん、蘭子ちゃん来たでー」

作業場の奥で、大きな包丁を手にした重吉が「おう」と声を上げる。
作業台には氷の上にずらりと魚が並んでいた。
鯛、カツオ、イワシ、サバ、それに聞いたことのない名前の魚まで。

「ほほう……これが、食のオーケストラ……」

蘭子は興味津々で、魚の並びを一匹ずつ観察していった。
鱗の煌めき、目の透明感、エラの赤さ
――すべてが生きている証だった。

「晋平は、奥で氷の補充しとるよ。呼んでくるか?」

「いえ……わたくし、静かに観察してまいります」

作業場の端に置かれた木箱の陰から、蘭子はそっと顔を出した。
そこには、小さな氷室の中で、一心に氷を運ぶ晋平の姿があった。

桶に氷を入れ、それを運んでは魚の下に敷き、また戻る。
その動きは小さな体にしては重労働だが、晋平は文句ひとつ言わず、黙々と手を動かしていた。

「……ああ、なんて健気なお姿」

蘭子は胸の前で手を組み、ため息を漏らした。

(手はまだ小さくて子供だけど、その働きはもう立派な紳士。ああ、いずれその手が……)

その妄想の最中、ふいに晋平がこちらを向いた。

「あれ……蘭子?」

「きゃっ……! あっ、あら、偶然ね!」

バレてしまったことに頬を染めつつ、蘭子は慌てて木箱から飛び出した。

「その……わたくし、学びに来ましたの。あなたの世界を、少しでも近くに感じたくて」

晋平は、きょとんとしたまま、桶の氷を指さした。

「……冷たいよ。さわる?」

「まあ……!」

蘭子が手を伸ばすと、氷の粒がひやりと肌に触れた。

「つめたっ……でも、気持ちいい……」

「この氷、うちのお父さんが、毎朝仕入れてくるんだ。魚が新鮮に見えるようにって。あんまり長く持たないけど……」

晋平がぽつりと語るその口調は、いつもよりほんの少しだけゆっくりで、穏やかだった。

「……それって、素敵なことね。すぐに溶けてしまう美しさのために、今日という一日をつくるなんて」

蘭子はそう言って、氷の冷たさをじっと指の腹で感じていた。

「きみ、よくそんな言葉思いつくね」

「それは……たぶん、恋をしているから、ですわ」

晋平の手がピタリと止まった。

「え……こい?」

「ええ。氷みたいに儚くて、それでいてきらきらしていて。ふれたらすぐに溶けてしまいそうなもの。でも、それでも、わたくしは触れずにはいられませんの」

そう言って、蘭子は氷の桶に手を入れたまま、じっと晋平の顔を見つめた。

少年の頬が、ふわりと赤く染まっていく。

「……そっか」

それだけ言って、晋平はまた氷を運びに戻った。
その背中を見つめながら、蘭子は心の中でひとりつぶやいた。

(今はまだ、手を重ねることはできない。でも、こうしてすこしずつ、あなたの世界の温度を知っていければ……それで、十分)

帰り道、雨はやんでいた。
空には薄日が差し始めていて、濡れた石畳がまるで宝石のようにきらきらと光っていた。

蘭子は空を見上げ、帽子のつばをそっと持ち上げた。

「今日の蘭子劇場、第一幕終了。観客一名、成功……ってところかしら?」

そうつぶやいて、そっと微笑む。

たとえ誰に理解されなくても、夢見ることだけはやめない。

それが、花村蘭子の――小さな誓いだった。
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