花村蘭子ものがたり 〜昭和の風、紫陽花の恋〜

naomikoryo

文字の大きさ
8 / 17

第8話「初恋の予感」

しおりを挟む
六月の風は、まだ若くて、少しだけくすぐったい匂いがした。

その日も、花村屋の二階の窓は開け放たれていた。
風が反物を揺らし、屋根の上の鳩がごろごろと陽を浴びている。
商店街の奥にある時計屋の柱時計が午後の三時を知らせると、蘭子は日記帳に万年筆を滑らせながら、ふと顔を上げた。

(今日も……晋平さまは来ない)

当たり前だ。
もう晋平は高校生。
春から旧制の「上等中学校」に進み、朝は早く、帰りは遅い。
制服は詰襟の学生服、黒い鞄を片手に、まっすぐに通学路を歩いている。

「男子校ですのよ、男子校。ふふっ、いよいよ“男の園”へお入りになったのね……」

蘭子は一人ごちて、机の上に伏せていた映画雑誌を手に取った。
表紙には、若き日の長谷川一夫が銀幕に微笑んでいる。

(でも……晋平さまのほうが、もっと静かで、もっと日陰の美しさを持ってらっしゃるわ)

想いは、距離を置かれたことで、むしろ膨らんだ。
会えない日々が、彼女の空想を豊かにしていく。
花村家の二階は、もはや小劇場の楽屋のようだった。

ちょうどその頃、学校で“自由研究発表会”の準備が始まった。

「発表形式は何でも可」と言われた瞬間、蘭子の中の舞台照明がバチッと点灯した。

「演劇ですわ! わたくしの“魂の舞台”、いよいよ第二幕のはじまりですの!」

誰も頼んでいないのに、蘭子は原稿用紙に脚本を書き始めた。
タイトルは、
『アジサイの誓い ~言葉を持たぬ人と、花の少女~』

舞台は昭和初期の商店街。
少女はアジサイの下で、かつて想いを寄せていた“無口な魚屋の少年”を思い出す。
彼女は語りかける。
けれど彼は、言葉を発しないまま、ただ空を見上げて立ち尽くしている――。

「つまり、これはわたくしの“追憶劇”ですの。いえ、きっとこれは、舞台という形を借りた“心の整理”なのですわ……」

蘭子は自分で納得しながら、机に向かい続けた。

放課後の講堂。
クラスメイトの近藤さくらと、図書室好きの佐野くん、
それから顔なじみの美術部の女の子が手伝いに来てくれた。

「でもさ、蘭子。相手役は?」

「ええ……本当は“晋平さま”にお願いしたいところなのですが……いまや彼は、別の学び舎の人」

「それって、つまり“出られない”ってことよね?」

「いいえ、違いますわ。“想い出”なのです。今回、舞台に登場する彼は、“記憶の中の存在”。だから言葉はいりませんの。ただ、立っていてくださればいい」

「え……じゃあ、誰が演じるの?」

「……あら、佐野くん。あなた、黙って立っているのは得意じゃありませんこと?」

「なんでそうなるんだよ!」

蘭子の演出は、今日も独特で、強引だった。
だが、彼女の熱意に呑まれ、結局みんなが手伝ってくれる。

小道具にアジサイを模した和紙の飾りを作り、舞台上には木箱をひとつ置き、魚屋の表を模した。
衣装は蘭子が自分で仕立てた、大正風の袴スカート。
祖母の箪笥から借りた、すこし色あせたショールを肩にかけると、それだけで“時代”の香りが漂った。

「この匂い……ああ、大正の女たちも、この風のなかで恋をしたのね……」

数日後。発表会当日。

講堂には、蒸し暑さを払うように大きな扇風機が回っていた。
クラスメイトたちが座る中、照明もマイクもない、簡素な舞台が始まる。

開幕の拍子木の音とともに、幕が開く――。

舞台の上、アジサイの下に立つ“少年”。

彼はただ黙って、木箱の上に腰かけ、空を見上げている。

そこに、少女
――蘭子が、登場する。

「……あの日のことを、あなたはまだ覚えておられますか?」

少女は語りかける。少年は答えない。

「雨が降っていた日、わたくしはあなたの手をとって、氷のようなその指先に、確かにあたたかさを感じましたの」

静けさ。
教室では決して味わえない、張りつめた空気。
観ている者の呼吸がひとつ、またひとつ、舞台へと吸い込まれていく。

少年役の佐野くんは、台詞も動きもない。
ただ、時折、少女の声に反応するように微かにうなずく。
それだけで、“存在”の重みが伝わる。

そしてラスト。

「言葉など、いらなかったのかもしれませんわ。だって、あなたの沈黙のなかに……わたくしは、愛を見たのですから」

ひとつ礼をして、幕が閉じる。

拍手は……一瞬の静寂のあと、ふわりと湧き起こった。

その日の夕方。
商店街の角にある公園のベンチにて、蘭子は演劇ノートにそっと万年筆を走らせていた。

《晋平さま。あなたのいない舞台に、わたくしは、あなたの影を立たせましたの。誰も気づいていないけれど、そこには確かに、あなたがいらっしゃいました》

《会わずに募る想い。大正の恋文は、時にそうして始まるのでしょうか》

《会えなくなった今のほうが、あなたのことを考えているの。これは……恋の進化形ですわね》

ページを閉じると、ベンチの端に、一本のアジサイの花が風に揺れていた。

蘭子はそっと立ち上がり、つぶやいた。

「次は……“再会”の物語を書きましょうか」

その声は、誰にも聞かれていなかったが、風のなかでやわらかく流れていった。
昭和の空の下で、彼女の心の舞台は、今日も幕を下ろし、また開く準備をしていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

【時代小説】 黄昏夫婦

蔵屋
歴史・時代
 江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。  そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。  秋田藩での仕事は勘定方である。  仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。 ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。   そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。  娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。  さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。    「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。  今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。  この風習は広く日本で行われている。  「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。  「たそかれ」という言葉は『万葉集』に 誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」 — 『万葉集』第10巻2240番 と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。  「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に 「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」 — 『源氏物語』「夕顔」光源氏 と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。  なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。  またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。 漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。  「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。  この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。  それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。  読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。  作家 蔵屋日唱    

【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜

上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■ おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。 母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。 今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。 そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。 母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。 とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください! ※フィクションです。 ※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。 皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです! 今後も精進してまいります!

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
鍛えられた肉体、高潔な魂―― それは選ばれし“供物”の条件。 山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。 見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。 誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。 心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。

花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】

naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。 舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。 結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。 失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。 やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。 男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。 これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。 静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。 全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

処理中です...