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第8話「初恋の予感」
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六月の風は、まだ若くて、少しだけくすぐったい匂いがした。
その日も、花村屋の二階の窓は開け放たれていた。
風が反物を揺らし、屋根の上の鳩がごろごろと陽を浴びている。
商店街の奥にある時計屋の柱時計が午後の三時を知らせると、蘭子は日記帳に万年筆を滑らせながら、ふと顔を上げた。
(今日も……晋平さまは来ない)
当たり前だ。
もう晋平は高校生。
春から旧制の「上等中学校」に進み、朝は早く、帰りは遅い。
制服は詰襟の学生服、黒い鞄を片手に、まっすぐに通学路を歩いている。
「男子校ですのよ、男子校。ふふっ、いよいよ“男の園”へお入りになったのね……」
蘭子は一人ごちて、机の上に伏せていた映画雑誌を手に取った。
表紙には、若き日の長谷川一夫が銀幕に微笑んでいる。
(でも……晋平さまのほうが、もっと静かで、もっと日陰の美しさを持ってらっしゃるわ)
想いは、距離を置かれたことで、むしろ膨らんだ。
会えない日々が、彼女の空想を豊かにしていく。
花村家の二階は、もはや小劇場の楽屋のようだった。
ちょうどその頃、学校で“自由研究発表会”の準備が始まった。
「発表形式は何でも可」と言われた瞬間、蘭子の中の舞台照明がバチッと点灯した。
「演劇ですわ! わたくしの“魂の舞台”、いよいよ第二幕のはじまりですの!」
誰も頼んでいないのに、蘭子は原稿用紙に脚本を書き始めた。
タイトルは、
『アジサイの誓い ~言葉を持たぬ人と、花の少女~』
舞台は昭和初期の商店街。
少女はアジサイの下で、かつて想いを寄せていた“無口な魚屋の少年”を思い出す。
彼女は語りかける。
けれど彼は、言葉を発しないまま、ただ空を見上げて立ち尽くしている――。
「つまり、これはわたくしの“追憶劇”ですの。いえ、きっとこれは、舞台という形を借りた“心の整理”なのですわ……」
蘭子は自分で納得しながら、机に向かい続けた。
放課後の講堂。
クラスメイトの近藤さくらと、図書室好きの佐野くん、
それから顔なじみの美術部の女の子が手伝いに来てくれた。
「でもさ、蘭子。相手役は?」
「ええ……本当は“晋平さま”にお願いしたいところなのですが……いまや彼は、別の学び舎の人」
「それって、つまり“出られない”ってことよね?」
「いいえ、違いますわ。“想い出”なのです。今回、舞台に登場する彼は、“記憶の中の存在”。だから言葉はいりませんの。ただ、立っていてくださればいい」
「え……じゃあ、誰が演じるの?」
「……あら、佐野くん。あなた、黙って立っているのは得意じゃありませんこと?」
「なんでそうなるんだよ!」
蘭子の演出は、今日も独特で、強引だった。
だが、彼女の熱意に呑まれ、結局みんなが手伝ってくれる。
小道具にアジサイを模した和紙の飾りを作り、舞台上には木箱をひとつ置き、魚屋の表を模した。
衣装は蘭子が自分で仕立てた、大正風の袴スカート。
祖母の箪笥から借りた、すこし色あせたショールを肩にかけると、それだけで“時代”の香りが漂った。
「この匂い……ああ、大正の女たちも、この風のなかで恋をしたのね……」
数日後。発表会当日。
講堂には、蒸し暑さを払うように大きな扇風機が回っていた。
クラスメイトたちが座る中、照明もマイクもない、簡素な舞台が始まる。
開幕の拍子木の音とともに、幕が開く――。
舞台の上、アジサイの下に立つ“少年”。
彼はただ黙って、木箱の上に腰かけ、空を見上げている。
そこに、少女
――蘭子が、登場する。
「……あの日のことを、あなたはまだ覚えておられますか?」
少女は語りかける。少年は答えない。
「雨が降っていた日、わたくしはあなたの手をとって、氷のようなその指先に、確かにあたたかさを感じましたの」
静けさ。
教室では決して味わえない、張りつめた空気。
観ている者の呼吸がひとつ、またひとつ、舞台へと吸い込まれていく。
少年役の佐野くんは、台詞も動きもない。
ただ、時折、少女の声に反応するように微かにうなずく。
それだけで、“存在”の重みが伝わる。
そしてラスト。
「言葉など、いらなかったのかもしれませんわ。だって、あなたの沈黙のなかに……わたくしは、愛を見たのですから」
ひとつ礼をして、幕が閉じる。
拍手は……一瞬の静寂のあと、ふわりと湧き起こった。
その日の夕方。
商店街の角にある公園のベンチにて、蘭子は演劇ノートにそっと万年筆を走らせていた。
《晋平さま。あなたのいない舞台に、わたくしは、あなたの影を立たせましたの。誰も気づいていないけれど、そこには確かに、あなたがいらっしゃいました》
《会わずに募る想い。大正の恋文は、時にそうして始まるのでしょうか》
《会えなくなった今のほうが、あなたのことを考えているの。これは……恋の進化形ですわね》
ページを閉じると、ベンチの端に、一本のアジサイの花が風に揺れていた。
蘭子はそっと立ち上がり、つぶやいた。
「次は……“再会”の物語を書きましょうか」
その声は、誰にも聞かれていなかったが、風のなかでやわらかく流れていった。
昭和の空の下で、彼女の心の舞台は、今日も幕を下ろし、また開く準備をしていた。
その日も、花村屋の二階の窓は開け放たれていた。
風が反物を揺らし、屋根の上の鳩がごろごろと陽を浴びている。
商店街の奥にある時計屋の柱時計が午後の三時を知らせると、蘭子は日記帳に万年筆を滑らせながら、ふと顔を上げた。
(今日も……晋平さまは来ない)
当たり前だ。
もう晋平は高校生。
春から旧制の「上等中学校」に進み、朝は早く、帰りは遅い。
制服は詰襟の学生服、黒い鞄を片手に、まっすぐに通学路を歩いている。
「男子校ですのよ、男子校。ふふっ、いよいよ“男の園”へお入りになったのね……」
蘭子は一人ごちて、机の上に伏せていた映画雑誌を手に取った。
表紙には、若き日の長谷川一夫が銀幕に微笑んでいる。
(でも……晋平さまのほうが、もっと静かで、もっと日陰の美しさを持ってらっしゃるわ)
想いは、距離を置かれたことで、むしろ膨らんだ。
会えない日々が、彼女の空想を豊かにしていく。
花村家の二階は、もはや小劇場の楽屋のようだった。
ちょうどその頃、学校で“自由研究発表会”の準備が始まった。
「発表形式は何でも可」と言われた瞬間、蘭子の中の舞台照明がバチッと点灯した。
「演劇ですわ! わたくしの“魂の舞台”、いよいよ第二幕のはじまりですの!」
誰も頼んでいないのに、蘭子は原稿用紙に脚本を書き始めた。
タイトルは、
『アジサイの誓い ~言葉を持たぬ人と、花の少女~』
舞台は昭和初期の商店街。
少女はアジサイの下で、かつて想いを寄せていた“無口な魚屋の少年”を思い出す。
彼女は語りかける。
けれど彼は、言葉を発しないまま、ただ空を見上げて立ち尽くしている――。
「つまり、これはわたくしの“追憶劇”ですの。いえ、きっとこれは、舞台という形を借りた“心の整理”なのですわ……」
蘭子は自分で納得しながら、机に向かい続けた。
放課後の講堂。
クラスメイトの近藤さくらと、図書室好きの佐野くん、
それから顔なじみの美術部の女の子が手伝いに来てくれた。
「でもさ、蘭子。相手役は?」
「ええ……本当は“晋平さま”にお願いしたいところなのですが……いまや彼は、別の学び舎の人」
「それって、つまり“出られない”ってことよね?」
「いいえ、違いますわ。“想い出”なのです。今回、舞台に登場する彼は、“記憶の中の存在”。だから言葉はいりませんの。ただ、立っていてくださればいい」
「え……じゃあ、誰が演じるの?」
「……あら、佐野くん。あなた、黙って立っているのは得意じゃありませんこと?」
「なんでそうなるんだよ!」
蘭子の演出は、今日も独特で、強引だった。
だが、彼女の熱意に呑まれ、結局みんなが手伝ってくれる。
小道具にアジサイを模した和紙の飾りを作り、舞台上には木箱をひとつ置き、魚屋の表を模した。
衣装は蘭子が自分で仕立てた、大正風の袴スカート。
祖母の箪笥から借りた、すこし色あせたショールを肩にかけると、それだけで“時代”の香りが漂った。
「この匂い……ああ、大正の女たちも、この風のなかで恋をしたのね……」
数日後。発表会当日。
講堂には、蒸し暑さを払うように大きな扇風機が回っていた。
クラスメイトたちが座る中、照明もマイクもない、簡素な舞台が始まる。
開幕の拍子木の音とともに、幕が開く――。
舞台の上、アジサイの下に立つ“少年”。
彼はただ黙って、木箱の上に腰かけ、空を見上げている。
そこに、少女
――蘭子が、登場する。
「……あの日のことを、あなたはまだ覚えておられますか?」
少女は語りかける。少年は答えない。
「雨が降っていた日、わたくしはあなたの手をとって、氷のようなその指先に、確かにあたたかさを感じましたの」
静けさ。
教室では決して味わえない、張りつめた空気。
観ている者の呼吸がひとつ、またひとつ、舞台へと吸い込まれていく。
少年役の佐野くんは、台詞も動きもない。
ただ、時折、少女の声に反応するように微かにうなずく。
それだけで、“存在”の重みが伝わる。
そしてラスト。
「言葉など、いらなかったのかもしれませんわ。だって、あなたの沈黙のなかに……わたくしは、愛を見たのですから」
ひとつ礼をして、幕が閉じる。
拍手は……一瞬の静寂のあと、ふわりと湧き起こった。
その日の夕方。
商店街の角にある公園のベンチにて、蘭子は演劇ノートにそっと万年筆を走らせていた。
《晋平さま。あなたのいない舞台に、わたくしは、あなたの影を立たせましたの。誰も気づいていないけれど、そこには確かに、あなたがいらっしゃいました》
《会わずに募る想い。大正の恋文は、時にそうして始まるのでしょうか》
《会えなくなった今のほうが、あなたのことを考えているの。これは……恋の進化形ですわね》
ページを閉じると、ベンチの端に、一本のアジサイの花が風に揺れていた。
蘭子はそっと立ち上がり、つぶやいた。
「次は……“再会”の物語を書きましょうか」
その声は、誰にも聞かれていなかったが、風のなかでやわらかく流れていった。
昭和の空の下で、彼女の心の舞台は、今日も幕を下ろし、また開く準備をしていた。
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