花村蘭子ものがたり 〜昭和の風、紫陽花の恋〜

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第11話「ふたり、雨のバス停」

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それは、突然の夕立だった。

七月の初旬。
空が晴れていたかと思えば、一気に鉛色の雲が広がり、遠くで雷鳴がごろごろと唸ったかと思うと、細かい雨が急速に街を染め上げた。

「まるで、演出が入ったみたいですわね……」

蘭子は、商店街の入り口にある古いバス停の軒先で、小さな肩をすぼめながら空を見上げた。
学校帰り、寄り道のつもりが、雨に足を止められてしまった。

ひとり、雨の匂いとざあざあという音に包まれて、時がゆっくりと流れていく。

(雷鳴。降りしきる雨。偶然の出会い。……ふふ、恋の予感にふさわしい幕開け……)

そう、そんなふうに思っていた。
思っていただけだった。

だって、まさかその通りになるとは――

「……蘭子?」

背後から、聞き覚えのある声。

振り返ると、そこには学生服の袖を濡らしながら走ってきた青年がいた。
制服の上着を手に持ち、額に雨のしずくを光らせている。

「し、晋平さま……!」

心臓が跳ねた。
まるで、昔から仕込まれていた舞台のラストシーンが、現実に再現されたような気がした。

「なんでこんなとこに?」

「お買い物のついでに、少しだけ……。それより、晋平さまこそ、どうして……」

「花村屋に魚、届けに行ったら、雨に降られて。ちょうどこの先、角曲がったとこで引き返して……って、なんで説明してんだ俺」

「偶然、ですね」

「……うん」

ふたりは、それ以上何も言えず、ただ、しばらく並んで立った。

雨音だけが間を埋める。
屋根に当たる音、路面を打つ音、向かいの竹屋の笹葉が風に揺れてさわさわ鳴る音。
世界が水に包まれていく中で、蘭子の鼓動だけが、胸の奥で騒がしく響いていた。

(ああ、これが“青春の沈黙”……)

「……高校、どうですか?」

ようやく口を開いたのは、蘭子だった。

「まあ……勉強ばっか。学校、ちょっと厳しいし」

「夜も遅くまで、灯りがついてますものね。お父様が言ってらしたわ。晋平は、いつも遅く帰ってくるって」

晋平は、傘を持っていなかった。
自分の上着をたたんで持ったまま、ただ雨がやむのを待っているようだった。

蘭子は、持っていた日傘をゆっくりと広げて、そっと晋平の頭の上にかざした。

「濡れてしまいますわ」

「いや、いいよ。俺、どうせ汗でびしょびしょだし」

「そういうことではありませんの。今この瞬間、わたくしがしたいのは、“あなたに傘をさしかけること”なのです」

晋平は照れたように目をそらした。

「……相変わらずだな、蘭子は」

「それは、褒め言葉かしら?」

「……うん」

そのひとことで、蘭子の胸の奥が、ふっと温かくなる。

傘の下、ふたりきりの世界。
たった直径八十センチの空間に、蘭子のすべての想いが詰まっているような気がした。

(もう、いっそ時間が止まってしまえばいいのに)

「なあ、蘭子」

ふいに晋平が口を開いた。

「……この前の、あの、あれ。文化祭の服、すげぇ似合ってた」

「っ……!」

蘭子は一瞬息をのんだ。

「……ほんとうに?」

「うん。……あのとき言えなかったけど」

言えなかった。

その言葉の意味が、蘭子にはよく分かってしまった。

彼は、舞台袖に立っていたあの瞬間、何かを感じてくれていたのだ。
心の中に、きちんと“蘭子”という存在がいたことが、ようやく言葉になって届いた。

「……うれしいですわ」

雨音にまぎれるほどの小さな声で、蘭子は答えた。

けれどその頬は、あきらかに紅潮していた。
顔をそむけ、傘の柄を持つ手が、すこし震えている。

晋平は、傘の中に少しだけ近づいて、視線を下げた。

「……将来さ、魚屋、継ぐと思う。なんか、そんな感じになってきてて」

「ええ、知っております」

「でも……ときどき、俺、魚ばっか見てていいのかなって思うことがある」

「どういう……こと?」

「いや……もっと、ちゃんと人の顔、見たほうがいいかなって」

そのとき、彼の視線が、まっすぐ蘭子の瞳にぶつかった。

雷鳴でも、夕立でもない
――まるで空がぱっと晴れたかのように、蘭子の目の中に、光が差した。

ふたりはしばらく見つめあったまま、言葉を失っていた。

雨がやんだのは、それからしばらくしてだった。

商店街の地面にできた水たまりには、雲の切れ間から差し込んだ陽が映り込んでいた。
雨粒が葉先から落ちる音も、もう聞こえなかった。

「じゃ、そろそろ行くわ」

「……晋平さま」

蘭子は、彼の背中に向かって言った。

「また、傘に入ってくださいますか?」

晋平は振り返らず、片手をひらひらと振った。

それでも、蘭子は確かに見た気がした。
彼の頬が、夕焼けの光を受けて、わずかに赤らんでいたのを。

夜、蘭子は机に向かい、ノートにそっと万年筆を滑らせた。

《傘の下の数分。わたくしの人生で、いちばん短くて、いちばん長かった時間》

《あなたが、わたくしの目を見てくれたこと。それだけで、今日という日が物語になりました》

《これは、恋というより、もう少し静かなもの。たとえば“信じる”という気持ち。わたくしは、それを、あなたの背中から学んだ気がします》

彼女は筆を止めると、そっと傘を畳んで、窓辺に立った。

今はもう、雨はどこにもなかった。
だけど、胸の中の傘は――まだ、ふたりを包んでいた。
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