花村蘭子ものがたり 〜昭和の風、紫陽花の恋〜

naomikoryo

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第12話「秘密の台詞」

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蝉の声が、まるで誰かの思い出をなぞるように、遠く高く、どこまでも響いていた。

八月の終わり。
日差しはまだ真夏の名残を残しつつも、風は確かに秋を告げていた。
商店街ののれんがゆるやかに揺れ、氷屋の水桶に浮かぶ氷が、少しだけ小さくなっていた。

「季節って、不思議ですわね……。あんなに鳴いていた蝉も、もう声が薄くて」

蘭子は、花村家の縁側に腰掛けて、小さな絵葉書を一枚手にしていた。
上品なアイボリーの地に、藍で刷られた朝顔と金魚の図。
表には宛名もなければ差出人もない。

けれど、その裏面には、筆跡だけで誰だかすぐにわかる
――少し角張った文字で、こう書かれていた。

《きのうの雨、ありがとう。風邪ひいてない? 俺は平気》

それだけ。たった三行。

それだけなのに、蘭子の胸は、どうしようもなく波立っていた。

あの夕立のあとのことだった。

晋平は傘の下で、確かに目を見てくれた。
そして、ほんの少しだけ、自分のことを話してくれた。

“もっと、ちゃんと人の顔、見たほうがいいかもな”

そのとき蘭子は、何も言えなかった。
ただ、心の奥で何かがほどけていくのを感じていた。

そして翌朝、花村屋の店先に、魚の包みと一緒にこの絵葉書が置いてあったのだ。
言葉少なで、不器用で、でも確かな“思い”が伝わってくる筆跡。

「……風邪、なんてひいておりませんわよ。わたくし、恋で鍛えられておりますもの」

そう呟いて、蘭子は笑った。

九月を目前に控えたある日、学校で文芸部の友人・さくらから声をかけられた。

「蘭子、“言葉の展示会”って知ってる?」

「“言葉の展示”……?」

「文芸部でやるのよ。“誰にも言えなかった一言”を、作品にして並べるの。“言わなかった”ことが、どれほど心を動かすかっていう……ほら、なんか蘭子が好きそうなやつ」

「ふふ、まるで“沈黙の劇場”ですわね」

「そうそう。それ。参加する?」

「もちろん。“わたくしが言えなかった一言”なんて、星の数ほどございますもの」

そして蘭子は、その夜、机に向かって、便箋を一枚取り出した。
あの絵葉書の文字を何度も思い出しながら、白い紙の上に万年筆のペン先を置く。

けれど、言葉はなかなか出てこなかった。

(わたくしが“言わなかったこと”……それは、あのとき)

夕立の中で、傘の下で。あの距離で。
目と目を見合わせた、あの瞬間。

蘭子は、言えなかった。

「あなたが好きです」

その、たったひと言を。

言おうと思えば言えた。
けれど、それを言ってしまったら、なにかが崩れてしまいそうだった。
ふたりの静かな関係も、彼の誠実さも、商店街の何気ない日々も。

あの“沈黙”が、ふたりのあいだをやさしく守っている気がしたのだ。

(わたくしの“言わなかった言葉”は、きっとこれですわ)

蘭子は、便箋にたった一行、丁寧に書いた。

《あのとき、あなたが言ってくれたら、わたくしも言えたのです》

文芸部の展示会の日。

教室の一角に、白い壁紙が張られ、小さな便箋や短冊が並んでいた。
すべての作品が“誰かに言えなかったこと”でできている。
誰のかは分からない。
でも、だからこそ、胸に響く。

「雨の日、傘を差し出したあなたに、“ありがとう”が言えなかった」

「ずっと君を見てたのに、目をそらしてばかりだった」

「“好きです”の代わりに、笑顔を選びました」

蘭子の言葉も、そこにあった。

《あのとき、あなたが言ってくれたら、わたくしも言えたのです》

誰が読むか分からない。本人が見る可能性は、限りなく低い。

けれど蘭子は、不思議と満たされた気持ちで、その壁を見上げていた。

(言葉は、誰かの胸に届くためだけにあるのではなく、自分の中を整理するためにも、あるのですわね)

展示会の翌日。

花村屋の裏口に、またひとつ包みが届いた。

中には、鮮度のいい秋刀魚と、小さな紙切れが入っていた。

《これ、今年の初もの。塩振って焼くと美味い。元気でな》

それだけ。

けれど、蘭子は思わず笑った。

「元気でな、ですって。まるで、わたくしが旅に出るみたいじゃありませんの」

そう言いながらも、彼女の胸はすこしだけ、締めつけられていた。

(“元気でな”――その言葉の向こうに、何か“隠された言葉”があったら、と思ってしまうのは、いけないことかしら)

“好きです”を言えなかったわたし。
“ありがとう”しか言わなかった彼。

それでも、たしかに交わされた言葉たちが、今も心の中に灯っている。

その晩、蘭子は日記にこう書いた。

《わたくしの初恋は、静かな言葉たちでできています》

《それは、叫ぶことも、書き殴ることもせず、ただ淡く胸にしみ込んで、いつか骨の奥にまで染みわたる》

《たとえば、またいつか――言葉を交わすときが来たなら、そのときこそ、わたくしは“ほんとうに伝えたいこと”を、笑って、言えますように》

ページを閉じたとき、遠くで蝉の声がひとつ、やわらかく消えた。

晩夏の風が吹き抜けて、心の中の“言えなかった言葉たち”を、そっとやさしくなでていった。
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