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第13話「スクリーンの向こうへ」
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その春の風は、どこかひとつ、言いそびれた台詞のように、胸の奥に引っかかる匂いがした。
蘭子、十八歳。
花村屋の看板娘として、そして町の「ポスターの女神」として、相も変わらず町中の注目を集めていた。
けれど、彼女自身が今、どこか少しだけ“視線を逸らしたい何か”を抱えていることに、気づいていない人はいなかった。
彼女の美しさは、すでに少女のそれではなかった。
ふわりと膨らんだスカートに、つつましやかな胸元のブローチ。
横顔を撫でる毛先に、季節の光が淡く宿る。
春の終わりのある朝、家の玄関先で、伊都子が声をかけた。
「蘭子、今日の夕方、お客さんいらっしゃるから、ちょっと支度しといて」
「……お客様?」
「演劇のお方。京都の方やて。“東京の劇場に新しい風を”って、女優の原石を探してるんやと」
「……まあ」
「花村屋の奥さんの娘さんが昔から目立っとった言うて、紹介が来たのよ。写真屋のキクヤのご隠居が話まわしてくれはったらしい」
「……まぁ、あの方ったら」
蘭子は苦笑したが、心の奥にうずくようなざわめきを感じていた。
(ついに、来たのかもしれない……)
それは、夢のはじまりなのか。
それとも、夢の続きなのか。
夕方、指定の時間ぴったりに、客間の障子の向こうから低い声がした。
「失礼します。大江と申します」
あらわれたのは、四十代半ばの和装の男。
髪は後ろでなでつけ、細い銀縁の眼鏡をかけていた。
「実際にお目にかかるのは初めてですが、蘭子さんの写真は、何枚も拝見しています」
「まあ……それは光栄ですわ」
「それだけではありません。あなたの舞台の記録も、文化月間の映像も拝見しています。……黙って立っている姿が、こんなにも“語る”とは、正直驚きました」
彼の口調は丁寧だったが、目はどこまでも真剣だった。
芸の人間の、それも“本物の目”だと、蘭子はすぐにわかった。
「私どもの劇団では、舞台の新しい女優を育てようとしています。“声よりも、目で語ることのできる女優”を、探していました。蘭子さん、あなたに、東京へ来てほしいのです」
一瞬、時間が止まった。
風の音さえ遠ざかり、茶の湯が湯呑にしずくを落とす音だけが、静かに響いた。
(東京……)
夢の都。
銀座、丸の内、有楽町
――昭和の花が咲き誇る舞台。
彼女が愛読する雑誌に出てくる女優たちの写真、そのすべてが指し示していた場所。
(わたくしが、そこに立つ……?)
けれど、胸の奥の、もっと深いところで――
たったひとりの“顔”が、ふっと浮かんだ。
(晋平さま……)
魚屋の息子。無口な幼なじみ。
笑わないくせに、傘の下で、たったひとこと「見てたよ」と言ってくれた人。
彼は、どう思うのだろうか。
わたくしが、この町を離れて、銀幕の世界に行くと知ったら。
言わなかった気持ちは、もう言えなくなるかもしれない。
でも、言わなかったままでは、いられなくなるかもしれない。
「ご返答は……?」
「……少しだけ、お時間をいただけますか?」
「もちろん」
大江はそれ以上追わなかった。
芸の世界の人間は、“考える人間”を急かしたりしない。
蘭子は深く頭を下げ、客間をあとにした。
夕焼けが差す縁側で、ひとり佇んでいると、どこからか、魚をさばく包丁の音が聞こえてきた。
(……行かないと。どうしても、話さなければ)
彼女はそのまま、草履を履き、商店街の通りへ出た。
魚屋、江本鮮魚店へと――。
「いらっしゃ……」
晋平の母・和江が顔を出したが、蘭子の真剣な表情に、ふっと黙った。
「……晋平さん、いらっしゃいますか?」
「……奥。さばいてる。声、かけておいで」
店の奥、白いエプロンをした青年の背中が見えた。
手には包丁、まな板の上では鯖が横たわっていた。
「……晋平さま」
「……蘭子?」
「少し、お時間いただけませんか」
ふたりは、裏手の路地へ抜け、小さな木箱の上に腰を下ろした。
風が通り抜け、夕焼けが顔を照らす。
蘭子は、一息深く吸ってから、話し始めた。
「……今日、東京からお話をいただきました。女優として、舞台に立ってみないかと」
「……そうか」
「行くかどうかは……まだ、迷っております」
「……そうか」
「晋平さま……わたくし、今まで何度も想っていたのです。“何も始まらなくても、そばにいるだけでいい”と」
「……」
「でも、本当に町を出るとなると、そうも言っていられないのです」
彼は黙っていた。
けれど、目は逸らさなかった。
その瞳に、蘭子は、思いきって言葉を重ねた。
「わたくし、あなたに――伝えておきたかったのです」
「……なにを」
蘭子は、目をまっすぐ見た。
そして、唇をそっと開いた。
「――わたくしは、あなたのことが、好きです」
沈黙。
魚屋の裏手の空気が、止まったように感じられた。
けれど、すぐに晋平は、ゆっくりと、何度も何度もうなずいた。
「……知ってたよ」
「……え?」
「でも、俺……どうしていいか、わかんなかった。蘭子は、遠くへ行く人だと思ってた。いつか絶対、東京か、もっと遠くへ行っちゃうって」
「そんなこと……」
「だから、怖かった。言葉にしたら、何かが終わる気がして」
その言葉は、蘭子の胸の奥に、まっすぐ刺さった。
(わたくしたち……ずっと同じことを思っていたのね)
ふたりの沈黙は、ただの“言えなかった”ではなかった。
相手を思うがゆえの“言わなかった”。
「……行っておいで、蘭子」
「晋平さま……」
「後悔しないように。でも、もし東京でなにか違うと思ったら……帰ってこいよ。魚、取っといてやるから」
涙が、ひとすじ、頬を伝った。
けれど蘭子は、微笑んだ。
それは、子どもの頃のポスターの笑顔でもなく、舞台の上の笑顔でもなかった。
ひとりの女の、たしかな“決意”の笑顔だった。
その夜、日記帳にこう記した。
《好きです、と言えたわたくしを、わたくしは誇りに思います》
《これが、“終わりのはじまり”でも、“はじまりの終わり”でも構わない。今のわたくしは、ただ、自分の心を信じて、前に進みます》
そしてページの隅に、小さくこう添えた。
《好きです、あなたを。変わらず、いつまでも》
蘭子、十八歳。
花村屋の看板娘として、そして町の「ポスターの女神」として、相も変わらず町中の注目を集めていた。
けれど、彼女自身が今、どこか少しだけ“視線を逸らしたい何か”を抱えていることに、気づいていない人はいなかった。
彼女の美しさは、すでに少女のそれではなかった。
ふわりと膨らんだスカートに、つつましやかな胸元のブローチ。
横顔を撫でる毛先に、季節の光が淡く宿る。
春の終わりのある朝、家の玄関先で、伊都子が声をかけた。
「蘭子、今日の夕方、お客さんいらっしゃるから、ちょっと支度しといて」
「……お客様?」
「演劇のお方。京都の方やて。“東京の劇場に新しい風を”って、女優の原石を探してるんやと」
「……まあ」
「花村屋の奥さんの娘さんが昔から目立っとった言うて、紹介が来たのよ。写真屋のキクヤのご隠居が話まわしてくれはったらしい」
「……まぁ、あの方ったら」
蘭子は苦笑したが、心の奥にうずくようなざわめきを感じていた。
(ついに、来たのかもしれない……)
それは、夢のはじまりなのか。
それとも、夢の続きなのか。
夕方、指定の時間ぴったりに、客間の障子の向こうから低い声がした。
「失礼します。大江と申します」
あらわれたのは、四十代半ばの和装の男。
髪は後ろでなでつけ、細い銀縁の眼鏡をかけていた。
「実際にお目にかかるのは初めてですが、蘭子さんの写真は、何枚も拝見しています」
「まあ……それは光栄ですわ」
「それだけではありません。あなたの舞台の記録も、文化月間の映像も拝見しています。……黙って立っている姿が、こんなにも“語る”とは、正直驚きました」
彼の口調は丁寧だったが、目はどこまでも真剣だった。
芸の人間の、それも“本物の目”だと、蘭子はすぐにわかった。
「私どもの劇団では、舞台の新しい女優を育てようとしています。“声よりも、目で語ることのできる女優”を、探していました。蘭子さん、あなたに、東京へ来てほしいのです」
一瞬、時間が止まった。
風の音さえ遠ざかり、茶の湯が湯呑にしずくを落とす音だけが、静かに響いた。
(東京……)
夢の都。
銀座、丸の内、有楽町
――昭和の花が咲き誇る舞台。
彼女が愛読する雑誌に出てくる女優たちの写真、そのすべてが指し示していた場所。
(わたくしが、そこに立つ……?)
けれど、胸の奥の、もっと深いところで――
たったひとりの“顔”が、ふっと浮かんだ。
(晋平さま……)
魚屋の息子。無口な幼なじみ。
笑わないくせに、傘の下で、たったひとこと「見てたよ」と言ってくれた人。
彼は、どう思うのだろうか。
わたくしが、この町を離れて、銀幕の世界に行くと知ったら。
言わなかった気持ちは、もう言えなくなるかもしれない。
でも、言わなかったままでは、いられなくなるかもしれない。
「ご返答は……?」
「……少しだけ、お時間をいただけますか?」
「もちろん」
大江はそれ以上追わなかった。
芸の世界の人間は、“考える人間”を急かしたりしない。
蘭子は深く頭を下げ、客間をあとにした。
夕焼けが差す縁側で、ひとり佇んでいると、どこからか、魚をさばく包丁の音が聞こえてきた。
(……行かないと。どうしても、話さなければ)
彼女はそのまま、草履を履き、商店街の通りへ出た。
魚屋、江本鮮魚店へと――。
「いらっしゃ……」
晋平の母・和江が顔を出したが、蘭子の真剣な表情に、ふっと黙った。
「……晋平さん、いらっしゃいますか?」
「……奥。さばいてる。声、かけておいで」
店の奥、白いエプロンをした青年の背中が見えた。
手には包丁、まな板の上では鯖が横たわっていた。
「……晋平さま」
「……蘭子?」
「少し、お時間いただけませんか」
ふたりは、裏手の路地へ抜け、小さな木箱の上に腰を下ろした。
風が通り抜け、夕焼けが顔を照らす。
蘭子は、一息深く吸ってから、話し始めた。
「……今日、東京からお話をいただきました。女優として、舞台に立ってみないかと」
「……そうか」
「行くかどうかは……まだ、迷っております」
「……そうか」
「晋平さま……わたくし、今まで何度も想っていたのです。“何も始まらなくても、そばにいるだけでいい”と」
「……」
「でも、本当に町を出るとなると、そうも言っていられないのです」
彼は黙っていた。
けれど、目は逸らさなかった。
その瞳に、蘭子は、思いきって言葉を重ねた。
「わたくし、あなたに――伝えておきたかったのです」
「……なにを」
蘭子は、目をまっすぐ見た。
そして、唇をそっと開いた。
「――わたくしは、あなたのことが、好きです」
沈黙。
魚屋の裏手の空気が、止まったように感じられた。
けれど、すぐに晋平は、ゆっくりと、何度も何度もうなずいた。
「……知ってたよ」
「……え?」
「でも、俺……どうしていいか、わかんなかった。蘭子は、遠くへ行く人だと思ってた。いつか絶対、東京か、もっと遠くへ行っちゃうって」
「そんなこと……」
「だから、怖かった。言葉にしたら、何かが終わる気がして」
その言葉は、蘭子の胸の奥に、まっすぐ刺さった。
(わたくしたち……ずっと同じことを思っていたのね)
ふたりの沈黙は、ただの“言えなかった”ではなかった。
相手を思うがゆえの“言わなかった”。
「……行っておいで、蘭子」
「晋平さま……」
「後悔しないように。でも、もし東京でなにか違うと思ったら……帰ってこいよ。魚、取っといてやるから」
涙が、ひとすじ、頬を伝った。
けれど蘭子は、微笑んだ。
それは、子どもの頃のポスターの笑顔でもなく、舞台の上の笑顔でもなかった。
ひとりの女の、たしかな“決意”の笑顔だった。
その夜、日記帳にこう記した。
《好きです、と言えたわたくしを、わたくしは誇りに思います》
《これが、“終わりのはじまり”でも、“はじまりの終わり”でも構わない。今のわたくしは、ただ、自分の心を信じて、前に進みます》
そしてページの隅に、小さくこう添えた。
《好きです、あなたを。変わらず、いつまでも》
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