怪奇蒐集帳(短編集)

naomikoryo

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131)『くびの湯』

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明治三十八年の春、私は旅の絵師として、奥州の山奥にある温泉地を訪れた。

 絵を描くために各地を歩き、風景や人々、神社仏閣、宿場町の賑わいなどを描いては、それを売って食いつないでいた。

 だが、この地――山霧(やまぎり)温泉郷は、何かが違った。

 静かすぎるのだ。
 硫黄の香りが強く、湯けむりが絶えず立ち昇っている。
 なのに、宿場には人の気配が薄かった。

 とある古びた宿に泊まると、女将がこう言った。

 「夜八つを過ぎたら、湯には入らぬこと」

 理由を尋ねると、女将は言い渋りながら、ぽつりと話した。

 「この里には、“くびの湯”という古湯がございます。
  昔は一番湯とされておりましたが……今はもう、使っておりません」

 「なぜです?」

 「湯に入ると、首がなくなるんです」

 「……冗談でしょう」

 女将は笑わなかった。

 「湯の中に、“見てはならぬ顔”があるのです。
  それを見てしまうと、今度はその顔が、あなたの首を欲しがるのです」

 気味は悪かったが、絵師としての好奇心が勝った。

 夜、宿を抜け出し、言われた古湯――くびの湯を訪ねた。

 山道を下り、小川沿いにぽつりと建つ木造の湯小屋。

 軋む扉を開けると、白濁した湯が湯船いっぱいにたたえられていた。

 不思議なことに、誰も入っていないのに、湯面は揺れていた。

 私は筆と和紙を持ち込み、隅に腰を下ろした。

 湯気が立ちこめ、視界がぼんやりと白む。

 だがその中に――湯に浸かる人影が見えた。

 黒い髪。小柄な身体。
 背を向けているため顔は見えない。

 「失礼ですが……お客様ですか?」

 声をかけると、その影はゆっくりとこちらを向いた。

 顔が、なかった。

 首の上には、何もなかった。

 けれど、確かに“見てくる感覚”があった。

 首がないはずなのに、笑っていた。

 その瞬間、気が遠のいた。

 気がつくと、宿の部屋で寝ていた。

 湯小屋には行っていないことになっていた。
 筆も紙も、元の場所に戻っていた。

 まるで、すべて夢だったかのように。

 だが、その日から、私の描く絵から“顔”が抜け落ちていくようになった。

 人物を描いても、どうしても顔だけが描けない。
 筆を動かすたび、顔の部分だけがにじんで消えてしまう。

 いつしか、目、鼻、口、輪郭、すべてが曖昧になっていった。

 代わりに、描いた人物の“首の根元”からは、何かが滴っているように見えた。

 夜になると、首元にぬるりと冷たいものが触れた。

 寝入りばなの耳元で、女の声がする。

 > 「あたしの顔、描いてくれるの?」

 > 「あなたのくびで、思い出したいの」

 私は恐怖のあまり筆を握れなくなった。

 だが、奇妙なことに、朝になると紙の上に“誰かの顔”が描かれていた。

 それは見知らぬ女の顔。
 伏し目がちで、口元が裂けるように笑っている。

 そしてその顔は、日を追うごとに――私の顔に似ていった。

 逃げるようにその地を去った。

 絵を売ることもやめ、筆も捨てた。

 だが、数年後、東京の画廊で見たある一枚の絵に、言葉を失った。

 「無題(湯けむり)」と書かれたその絵には――
 首のない女が湯船の中で笑っている姿が描かれていた。

 その絵の署名は、私の名だった。

 今でも、夜になると首筋にぬるりとした感触がする。

 そして、誰かがこう囁く。

 > 「まだ、くびの湯にいるのに」

 > 「どうして、私を忘れるの」

◆エピローグ
 あなたの描いた似顔絵、最近“顔の部分だけ”にじんだりしませんか?

 もしも、湯けむりの中で誰かに会った記憶があるのなら――
 それは、**くびの湯の“あの人”**かもしれません。

 ……どうか、鏡で首筋を確かめてみてください。
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