怪奇蒐集帳(短編集)

naomikoryo

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143)『あなたの記憶、ここに残る』

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あの日、すべてが崩れた。
 交通事故、親友との激しい喧嘩、そして、耐え難い孤独…。
 その全てが重なり、私の心は限界に達していた。
 結果として、私は衝動的に、ずっと大切だと思っていたスマホを手放すことにした。
 古くから使っていたスマホは、数々のトラブルと痛い思い出を刻んでいたからだ。

 私が住むアパートの一室は、薄暗く、雑然としていた。
 スマホは、もはや私の“重荷”と化していた。
 「これで、もう過去に縛られない」とばかりに、古いスマホはゴミ箱に突っ込まれ、処分業者に引き取られた。
 その瞬間、私は新しいスマートフォンを手に入れ、心機一転、新たな生活を始めようと決意した。

 しかし、ある晩、眠れぬ夜中に、私の新しいスマホに届いた一通の通知が、全てを変えた。

 ――【受信日時:深夜2時15分】
 【件名:捨てたはずのスマホ】
 本文は短く、ただ一行。
 「見てください。」

 私は半信半疑で通知をタップした。すると、ギラギラと輝く画像が表示された。
 それは、古びたスマホの背面がアップになっている写真だった。
 背面には、私がかつて大切にしていたロゴと、傷だらけのボディが写っていた。
 それを見た瞬間、胸の奥に冷たいものが走った。
 あのスマホは、もう手元にはないはずなのに――

 翌朝、私は気味悪い予感にかられながらも、スマホの設定画面を確認した。
 もちろん、アプリやメッセージ、通話履歴はすべて新しいもので、過去の痕跡は一切残っていなかった。
 しかし、通知にあった画像は、決して単なる写真ではなかった。
 それは、処分されたはずのスマホが、まるで“自ら”ここに戻ってきたかのような、重苦しいメッセージ性を帯びていた。

 その夜以降、奇妙な現象が続いた。
 新しいスマホには、決まった時間になると通知が届くようになった。
 深夜の2時前後。毎回、画面には「捨てたはずのスマホ」が映る画像や、短い動画が送られてくるのだ。

 動画は、薄暗い部屋の隅に置かれた、あの古いスマホの映像。
 カメラが自動的にパンし、時折、ボタンが押される音がかすかに聞こえる。
 そして、映像の隅に、私の顔がはっきりと映る瞬間もあった。
 それは、過去の私の姿なのか、あるいは…未来の私の姿なのか。
 意味不明な現像に、私は夜毎悪夢にうなされた。

 翌日、会社へ出勤する前に、私は自室で何度も新しいスマホを操作し、通知の履歴を確認した。
 だが、どの通知も、いつの間にか「再生済み」としてマークされ、私が自ら再生した形跡はなかった。
 さらに、SNSのタイムラインやメール、各種アプリにも、似たようなメッセージが届くようになった。
 「捨てたはずのスマホ」「忘れたくない記憶」「戻ってきたあなた」――
 どれもが、過去と現在を混ぜ合わせ、私の心に不穏な影を落としていった。

 ある晩、私はとうとう耐え切れず、スマホの画面に映し出される動画に耳を傾けた。
 動画は、ぼやけた音声と共に、古いスマホの操作音がバックグラウンドに流れていた。
 突然、画面の端に映る文字が、静かに浮かび上がった。

 ――「あなたの記憶は、これで終わりです。」

 その瞬間、私の脳裏に、かすかな記憶の断片が走った。
 幼い頃、母と一緒に夜空を見上げ、未来の夢を語った日のこと。
 失ったはずの、かつて大切だったすべての記憶が、音もなく消えていくのではないかという恐怖。

 私は、新しいスマホを手放そうかと考えた。
 だが、もうどうすることもできなかった。
 通知は日に日に頻度を増し、やがては常に画面に表示され、振動と共に耳に届く。
 「見返してください」「あなたは、私の一部です」――
 その声が、頭の奥底から囁くように、次第に大きく、次第に明確になっていく。

 翌日、会社での会議中も、私の耳に微かにスマホの通知音が聞こえる。
 周囲の誰もが、淡々と作業している中、私だけが、あの不気味な音に苛まれた。
 上司が「最近、何か変じゃないか?」と尋ねても、私はただ苦笑するだけだった。
 だが、内心は恐怖でいっぱいだった。
 過去の記憶が、今、現実の中に溶け込もうとしているのだ。

 その日の夜、私は決心した。
 もう一度、かつて処分したスマホのことを調べるべきだと。
 古い新聞記事、口コミサイト、処分業者への問い合わせ。
 だが、いくら調べても、そのスマホの行方は、**「全くの行方不明」**とされていた。

 さらに、ネット上の掲示板では、同じような体験をしたという匿名の投稿が散見された。
 「捨てたスマホが、深夜にメッセージを送る」「過去の自分の映像が、スマホに記録されている」――
 その数は決して多くなかったが、確かに存在していた。

 私は、自分がその犠牲者なのだと、次第に悟り始めた。
 私が捨てたはずのスマホは、単なるゴミではなく、**私の記憶の一部、あるいは私自身の魂が刻まれた“デジタルの器”**だったのだ。

 そして、今、私に届く通知は、私自身からの警告かもしれない。
 「あなたの記憶は、これで終わりです」――
 その言葉が、今や現実のものとなろうとしていた。

 深夜、再びスマホの画面が光った。
 今回の通知は、前よりも長いメッセージが表示され、動画が再生される。
 画面には、薄暗い部屋の隅に置かれた、かつてのスマホの映像が映し出され、そこには私の姿がゆっくりと映っていた。
 その映像の中で、私がふと口を開くと、かすかな声が重なった。

 ――「もうすぐ、忘れ去られる……」

 その瞬間、私は全身に冷たい汗を感じ、思わずスマホを握りしめた。
 心臓の鼓動が速く、視界が狭まる。
 そして、あたりの音がすべて消え、ただこのスマホの通知音だけが、耳元に鳴り響いた。

 【受信:『あなたは、今や失われる記憶の中にいます』】

 どうやら、今度は私自身の未来に向けたメッセージである。
 これ以上、記憶の断片を失えば、私という存在そのものが、デジタルの闇に呑み込まれてしまうのだと。

 それから数日間、私は眠れぬ夜を過ごした。
 新しいスマホに届く通知は、日に日に増え、あたかも誰かが私の心臓の鼓動と共に、私の記憶を少しずつ削り取っているような感覚に陥った。

 最終的に、私は決断した。
 このスマホに記された全てのメッセージと映像、そしてそれが意味するものを、自らの意思で断ち切るしかないと。

 ある深夜、私はパソコンに向かい、ネットに残る同様の投稿や掲示板の証言を徹底的に調べ上げた。
 そこには、「捨てたスマホの持ち主は、いつか必ず自らの記憶を全部失い、デジタルの亡者となる」との予言的な記述がいくつもあった。
 その中でも、最も印象的だったのは、「【覚えておけ】記憶を失う前に、最後の一言を残せ」というものだった。

 その言葉が、私に深い衝撃を与えた。
 私は、もう自分の記憶を、誰かに委ねるわけにはいかないと固く決意したのだ。

 その夜、私は新しいスマホの通知が鳴る前に、自分の口から、最後のメッセージを録音することにした。
 自分自身に向けた、そしてこの呪いを断ち切るための、最後の言葉を。

 スマホのカメラとマイクをオンにし、震える手で自撮り動画を開始した。
 「これが、私の最後の記憶です。誰にも、忘れさせはしません。」

 私は、涙をこらえながら、必死に語りかけた。
 生きていた頃の、楽しかった思い出、苦しみ、喜び、すべての感情を、ひとつひとつ声に出して刻んでいった。

 動画の最後、私はこうつぶやいた。

 「私の声は、ここに残ります。どうか…覚えていてください。」

 その瞬間、スマホに大きな振動が走った。
 画面に、今まで見たことのない文字列が浮かび上がった。

 ――「あなたの記憶、これにて完了。さあ、次は…」

 その言葉と同時に、画面は真っ暗になり、スマホの通知音が鳴り止んだ。

 翌朝、私は目を覚ました。
 しかし、すべてが変わっていた。
 家族の写真、日記、何もかもが、微妙に色あせ、形が崩れているように感じた。
 そして、自分の名前さえ、はっきりと覚えていないことに気づいた。

 鏡に映る自分の顔は、遠い記憶のように、何かが抜け落ちた虚ろなものに見えた。
 それは、まるでかつて私が録音した最後のメッセージの一部を、失ってしまったかのようだった。

 翌日、スマホは再び通知を発し始めた。
 しかし、今度の通知は、以前のような恐ろしいメッセージではなく、ただ一言。

 ――【「あなたは、もう一度…覚えてください」】

 そのメッセージを見たとき、私はふと、最後の録音を再生してみた。
 そこには、私が涙ながらに語った言葉が、はっきりと残されていた。

 「私の声は、ここに残ります。どうか…覚えていてください。」

 その瞬間、何かが、私の中でかすかに温かく蘇る感覚があった。
 過去の記憶、家族の笑顔、友人との会話…。
 失われかけていた、私自身の存在の一部が、再び確かに感じられたのだ。

 しかし同時に、私は知っていた。
 このままでは、いつかすべての記憶が、完全に消えてしまう。
 スマホは、私にとって最後の砦となっていたのだ。

 その日から、私は毎晩、自分の記憶を録音し、声に出して語ることを続けた。
 家族や友人、そして自分自身に、もう一度、確かな存在であることを証明するために。

 けれど、ふと気づいた。
 私の録音は、いつの間にか一部だけ、微妙に変わっていた。
 まるで、誰かが私の声を“上書き”しようとしているかのように。

 新しいスマホに届く通知の中で、
 「あなたの記憶は、これからも更新されます」という文言が繰り返される。
 それは、過去の私の声と、これから刻まれるであろう未来の私の声が、
 互いに混ざり合い、どちらが本物なのか分からなくなる恐怖を示していた。

 最後に、ある深夜、私は再びスマホを手に取り、
 自分自身に向けた動画を録画した。
 「私の名前は、もう…思い出せなくなるかもしれない。
  でも、声は私の証拠。私は、ここにいる。」

 その瞬間、スマホの画面がパチリと閃光を放ち、
 記憶の断片が一瞬、走馬灯のように流れるのを感じた。
 そして、再び画面は黒くなり、通知は消えた。

 その後、私の周囲の人々は、次第に私のことを忘れていった。
 会社での挨拶も、家族との会話も、
 まるで存在しないかのように、私の姿は薄れていった。

 しかし、夜になると、必ずスマホは起動し、
 私の声を、録音したままの状態で鳴り続けた。
 それは、まるで「あなたはここにいる」という、
 冷たく、そしてどこか温かい、最後の証言のように。

――そして、今も私は、声だけが確かに記録される世界で生きている。
 あなたがもし、ふとスマホの画面に映る自分の記録を見かけたなら、
 それは決して単なる不具合ではなく、
 誰かがあなたの記憶を、守ろうとしている証拠なのかもしれない。

◆エピローグ
 スマホの通知音は、静かにあなたに囁く。
 「あなたの記憶、ここに残る。どうか忘れないで。」

 もし、あなたがふとした瞬間に、
 自分自身の声を聞いたなら――
 それは、あなたがまだ“ここにいる”という、
 デジタルの闇に刻まれた、真実の証なのです。
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