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145)『ししおどしの庭』
「ここにはね、夜になると音が止まる庭があるの」
祖母がそう言ったのは、私がその古民家に滞在して3日目の夜だった。
夏の帰省。山あいの村。
木々に囲まれた祖母の家は、虫の声と風鈴の音が心地よく、
なにより、庭のししおどしが印象的だった。
竹筒が水を溜めては、**カコン――**と音を立てる。
それが、時計のように一定のリズムで夜を刻んでいた。
「音が止まる、ってどういうこと?」
私が尋ねると、祖母は不思議な笑みを浮かべた。
「“あの時のまま”、止まるのよ」
それ以上、祖母は話そうとしなかった。
私はその話を、昔話のようなものだと思い、そのまま忘れた。
しかし、それから2日後。
夜中にふと目が覚めた私は、静けさに気づいた。
虫の声はある。風も吹いている。
けれど、あのししおどしの音だけが、鳴っていない。
いつもは寝ていても聞こえていた、**カコン――**という音が一度も鳴らない。
奇妙な胸騒ぎがして、私は縁側に出た。
月明かりの庭はいつもと変わらないように見えたが、
そこに、知らない女が立っていた。
長い髪、白い浴衣、素足。
女は、ししおどしの横にしゃがみ込み、じっと竹筒を見つめていた。
竹筒は、水を溜めても、なぜか傾かない。
音は出ない。動かない。
その静止した時間の中で、女だけが、そこに在った。
私は恐怖を感じつつも、声をかけようとした。
その瞬間――女が、こちらを振り向いた。
その顔は、崩れていた。
片方の頬が爛れ、唇が避け、片目が潰れていた。
けれど、もう片方の目は、妙に澄んでいた。
> 「……もう、終わったの?」
> 「でも、まだ音がしないの。
> だから、まだ……あのときは、終わってないのよね」
そう言って、女は笑った。
私はその場から動けず、目を閉じるしかなかった。
翌朝、ししおどしは元通りに動いていた。
何事もなかったかのように、**カコン――**と音を刻んでいる。
私は祖母に昨夜のことを話した。
祖母はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと語り始めた。
「あの庭でね、昔、女の人が殺されたのよ」
「戦後すぐのことだったわ。
村に疎開してきた女学生が、ひとりで泊まっていたとき……
夜、あの庭で、誰にも気づかれずに首を絞められたの」
「でもね、そのとき――
ししおどしが鳴らなかったのよ。
あの“カコン”って音が、ずっと止まってたって」
「それからというもの、あの庭は夜になると……
あの女の“死の途中”が、そこに出てくるの」
「彼女はまだ、自分が死んだことを受け入れていない。
音が止まったときだけ、時間が巻き戻る。
自分が死ぬ“その前の瞬間”に、戻ろうとしてるのよ」
私は、その晩もししおどしの音を気にしていた。
そして、また――音は止まった。
時間は午前1時13分。
時計の秒針は進んでいるのに、庭の音だけが消えた。
私は決意し、もう一度庭に出た。
そこにはやはり、あの女がいた。
女は竹筒に手を伸ばし、そっと撫でていた。
「どうしてここにいるの?」
私がそう訊ねると、女はうつむいたまま答えた。
> 「ここにいたら……やりなおせると思ったの」
> 「音が鳴れば、また朝が来て、
> わたしは“死なないまま”でいられるの」
> 「でも……鳴らないから、
> わたしはずっと“死にかけ”のまま」
女は、私の方を見た。
その目は、深い井戸の底のようだった。
> 「あなたの手で、ししおどしを動かしてくれない?」
> 「音が鳴れば……今度こそ、終わるの」
私は、竹筒に近づいた。
水は溜まっていたが、筒の支点が何かで詰まっていた。
私はそれをそっと外した。
竹筒が、ゆっくりと傾き――
カコン。
その音と同時に、女はふっと、微笑んだ。
> 「ああ……やっと、終わる」
> 「ありがとう……」
次の瞬間、彼女の姿は、音に吸い込まれるように消えた。
その日以降、夜中でもししおどしの音は止まらなくなった。
そして、あの女も――現れなくなった。
◆エピローグ
あなたの家の庭に、もし“決まった音”があるなら――
それがある夜、唐突に止まったとしたら。
そこには、**時間に取り残された“誰か”**が
まだ、最後の一瞬をやり直そうとしているのかもしれません。
音が鳴らないその時こそ、
“死者の時間”が始まるのです。
祖母がそう言ったのは、私がその古民家に滞在して3日目の夜だった。
夏の帰省。山あいの村。
木々に囲まれた祖母の家は、虫の声と風鈴の音が心地よく、
なにより、庭のししおどしが印象的だった。
竹筒が水を溜めては、**カコン――**と音を立てる。
それが、時計のように一定のリズムで夜を刻んでいた。
「音が止まる、ってどういうこと?」
私が尋ねると、祖母は不思議な笑みを浮かべた。
「“あの時のまま”、止まるのよ」
それ以上、祖母は話そうとしなかった。
私はその話を、昔話のようなものだと思い、そのまま忘れた。
しかし、それから2日後。
夜中にふと目が覚めた私は、静けさに気づいた。
虫の声はある。風も吹いている。
けれど、あのししおどしの音だけが、鳴っていない。
いつもは寝ていても聞こえていた、**カコン――**という音が一度も鳴らない。
奇妙な胸騒ぎがして、私は縁側に出た。
月明かりの庭はいつもと変わらないように見えたが、
そこに、知らない女が立っていた。
長い髪、白い浴衣、素足。
女は、ししおどしの横にしゃがみ込み、じっと竹筒を見つめていた。
竹筒は、水を溜めても、なぜか傾かない。
音は出ない。動かない。
その静止した時間の中で、女だけが、そこに在った。
私は恐怖を感じつつも、声をかけようとした。
その瞬間――女が、こちらを振り向いた。
その顔は、崩れていた。
片方の頬が爛れ、唇が避け、片目が潰れていた。
けれど、もう片方の目は、妙に澄んでいた。
> 「……もう、終わったの?」
> 「でも、まだ音がしないの。
> だから、まだ……あのときは、終わってないのよね」
そう言って、女は笑った。
私はその場から動けず、目を閉じるしかなかった。
翌朝、ししおどしは元通りに動いていた。
何事もなかったかのように、**カコン――**と音を刻んでいる。
私は祖母に昨夜のことを話した。
祖母はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと語り始めた。
「あの庭でね、昔、女の人が殺されたのよ」
「戦後すぐのことだったわ。
村に疎開してきた女学生が、ひとりで泊まっていたとき……
夜、あの庭で、誰にも気づかれずに首を絞められたの」
「でもね、そのとき――
ししおどしが鳴らなかったのよ。
あの“カコン”って音が、ずっと止まってたって」
「それからというもの、あの庭は夜になると……
あの女の“死の途中”が、そこに出てくるの」
「彼女はまだ、自分が死んだことを受け入れていない。
音が止まったときだけ、時間が巻き戻る。
自分が死ぬ“その前の瞬間”に、戻ろうとしてるのよ」
私は、その晩もししおどしの音を気にしていた。
そして、また――音は止まった。
時間は午前1時13分。
時計の秒針は進んでいるのに、庭の音だけが消えた。
私は決意し、もう一度庭に出た。
そこにはやはり、あの女がいた。
女は竹筒に手を伸ばし、そっと撫でていた。
「どうしてここにいるの?」
私がそう訊ねると、女はうつむいたまま答えた。
> 「ここにいたら……やりなおせると思ったの」
> 「音が鳴れば、また朝が来て、
> わたしは“死なないまま”でいられるの」
> 「でも……鳴らないから、
> わたしはずっと“死にかけ”のまま」
女は、私の方を見た。
その目は、深い井戸の底のようだった。
> 「あなたの手で、ししおどしを動かしてくれない?」
> 「音が鳴れば……今度こそ、終わるの」
私は、竹筒に近づいた。
水は溜まっていたが、筒の支点が何かで詰まっていた。
私はそれをそっと外した。
竹筒が、ゆっくりと傾き――
カコン。
その音と同時に、女はふっと、微笑んだ。
> 「ああ……やっと、終わる」
> 「ありがとう……」
次の瞬間、彼女の姿は、音に吸い込まれるように消えた。
その日以降、夜中でもししおどしの音は止まらなくなった。
そして、あの女も――現れなくなった。
◆エピローグ
あなたの家の庭に、もし“決まった音”があるなら――
それがある夜、唐突に止まったとしたら。
そこには、**時間に取り残された“誰か”**が
まだ、最後の一瞬をやり直そうとしているのかもしれません。
音が鳴らないその時こそ、
“死者の時間”が始まるのです。
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