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第七話『空っぽの仏壇』
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「空き家の整理って、“遺品”がない分、楽ですよね?」
電話口の依頼人・村井陽一(むらい よういち)は、さらりとそう言った。
50代半ば、声は低く、飄々としていて、まるで他人事のような口調だった。
「父が亡くなって、もう三年になります。家は放置してましたけど、売ることになりまして。中、丸ごと空にしてください」
***
郊外の住宅街。周囲にはコンビニもスーパーもない静かなエリアに、その家はあった。
昭和50年代の建築と思しき平屋建て。古い瓦屋根、苔むしたコンクリート塀。庭には草が生い茂り、ポストにはチラシが詰まっていた。
「放置されてるって感じはしないですね」
アリサが玄関を見渡しながら呟く。
「ゴミはない。生活感もない。……でも、空気が“誰かを待ってる”感じがする」
ユイがそう返した。
玄関を開けた瞬間、ほのかに線香の匂いがした。
「……あれ?」
居間の奥、畳の上に置かれていたのは小さな仏壇だった。
だが、中は空だった。
位牌も遺影も、仏具も、何もない。あるのは、埃をかぶった一対のロウソク台と、割れた線香立てだけ。
「空っぽの仏壇って、なんか怖いね」
ユイがぽつりと言った。
「何かを供養しようとして、途中で止まったのかも」
アリサは手袋をつけたまま、仏壇の縁をそっとなぞる。薄く残る香の痕跡。かつて、ここに誰かがいた証。
「何もないのに、“何かがいた感じ”がする」
***
ほどなくして依頼人の村井が現れた。
背の高い男だった。身なりはきちんとしており、態度も柔らかい。ただ、その目はどこか“合わない”。
「それ、処分していただいて構いません」
仏壇を指して、村井は事もなげに言った。
「中身は最初からありませんでした。父は信仰心のある人間じゃなかったですし、そもそもこの仏壇、母が生前買ったものなんです」
「お母さまが?」
「ええ。母が亡くなったとき、父は“遺影も位牌も要らん”って言って。それで、箱だけが残った」
ユイが眉をひそめた。
「……それって、“忘れたい”ってこと?」
「どうですかね。父は無口な人でしたから。ただ、ずっとここに座って、この空っぽの仏壇にお茶を供えてましたよ」
「……なぜ、何も置かずに供えたんでしょう」
村井はしばし黙ってから、吐き出すように言った。
「それを聞くたびに、“何を信じてるんだ”って思ったものです。母を無視し続けた父が、今さら、って」
その声には、怒りとも哀しみともつかない疲労が滲んでいた。
***
作業はスムーズだった。室内にはほとんど私物がなく、家具も年季は入っているが整頓されている。
「不思議な家だよね。ゴミはない。でも、心がどっかで引っかかる」
ユイがふとつぶやいた。
アリサは、庭先に出て風を感じていた。草の匂い。古い木の湿ったにおい。そして、開け放たれた窓から漂ってくる、何か微かな“懺悔の気配”。
――空っぽの仏壇は、「許し」を待っている。
そんな気がした。
***
「この家、なんか“忘れるために整えた”って感じがする」
作業終了後、アリサがぽつりと言った。
「部屋は綺麗。でも、“綺麗すぎる”。何も残ってないことが逆に記憶を刺激する」
「うちの父は、頑固でした。……母を、ほとんど無視していたんです。口もきかず、家事も育児も完全にノータッチ。子どもながらに、ずっと母が不憫で」
村井の言葉は、静かながらも鋭かった。
「だから、母の死後に“仏壇”を買ってきた父を、偽善者だとしか思えなかった。お茶を供えるたびに、“何のつもりだ”って」
「それでも、あなたはこの家を残していた」
アリサの問いに、村井は目を伏せる。
「……あの仏壇を、処分できなかったんです。中身がないのに。あの空っぽの箱が、父の人生そのもののように思えて」
「でも、供えてたんですよね。お茶を」
ユイが口を挟む。
「それって、何かを“詫びてた”のかもしれない。自分のやり残しに」
「……詫びる資格なんて、あったのかどうか」
「あるとかないとかじゃない。“詫びるしかなかった”んだと思いますよ。空っぽだからこそ」
アリサの声は、柔らかかった。
***
最後に、アリサは仏壇を拭いた。
空っぽのまま。何も置かずに。ただ、埃だけを払って。
そして、そっとその前に立ち、お茶を一杯、置いた。
「名前も、顔も知らないけど――」
呟きながら、一礼した。
その瞬間、風がすうっと通り抜けた。
まるで、誰かが立ち去るのを見送るように。
***
「……なぜ、お茶を?」
車の中で村井が尋ねた。
アリサは、少し笑って答えた。
「誰かが“ここに誰かいた”って思い出せば、空っぽのままでも、仏壇の意味はある気がして」
村井は、長い沈黙のあとで、短く「そうですね」とだけ言った。
***
その日の夜、ユイは自室の片隅に置いてあった空き箱を一つ開いた。
中には、捨てきれなかった母のネックレスと、古い化粧品の瓶。
「うちの仏壇は、これでいいや」
彼女はその箱の中に、小さなキャンドルを一つ置いた。
火はつけず、ただ“そこに在る”ということだけを、確かにした。
電話口の依頼人・村井陽一(むらい よういち)は、さらりとそう言った。
50代半ば、声は低く、飄々としていて、まるで他人事のような口調だった。
「父が亡くなって、もう三年になります。家は放置してましたけど、売ることになりまして。中、丸ごと空にしてください」
***
郊外の住宅街。周囲にはコンビニもスーパーもない静かなエリアに、その家はあった。
昭和50年代の建築と思しき平屋建て。古い瓦屋根、苔むしたコンクリート塀。庭には草が生い茂り、ポストにはチラシが詰まっていた。
「放置されてるって感じはしないですね」
アリサが玄関を見渡しながら呟く。
「ゴミはない。生活感もない。……でも、空気が“誰かを待ってる”感じがする」
ユイがそう返した。
玄関を開けた瞬間、ほのかに線香の匂いがした。
「……あれ?」
居間の奥、畳の上に置かれていたのは小さな仏壇だった。
だが、中は空だった。
位牌も遺影も、仏具も、何もない。あるのは、埃をかぶった一対のロウソク台と、割れた線香立てだけ。
「空っぽの仏壇って、なんか怖いね」
ユイがぽつりと言った。
「何かを供養しようとして、途中で止まったのかも」
アリサは手袋をつけたまま、仏壇の縁をそっとなぞる。薄く残る香の痕跡。かつて、ここに誰かがいた証。
「何もないのに、“何かがいた感じ”がする」
***
ほどなくして依頼人の村井が現れた。
背の高い男だった。身なりはきちんとしており、態度も柔らかい。ただ、その目はどこか“合わない”。
「それ、処分していただいて構いません」
仏壇を指して、村井は事もなげに言った。
「中身は最初からありませんでした。父は信仰心のある人間じゃなかったですし、そもそもこの仏壇、母が生前買ったものなんです」
「お母さまが?」
「ええ。母が亡くなったとき、父は“遺影も位牌も要らん”って言って。それで、箱だけが残った」
ユイが眉をひそめた。
「……それって、“忘れたい”ってこと?」
「どうですかね。父は無口な人でしたから。ただ、ずっとここに座って、この空っぽの仏壇にお茶を供えてましたよ」
「……なぜ、何も置かずに供えたんでしょう」
村井はしばし黙ってから、吐き出すように言った。
「それを聞くたびに、“何を信じてるんだ”って思ったものです。母を無視し続けた父が、今さら、って」
その声には、怒りとも哀しみともつかない疲労が滲んでいた。
***
作業はスムーズだった。室内にはほとんど私物がなく、家具も年季は入っているが整頓されている。
「不思議な家だよね。ゴミはない。でも、心がどっかで引っかかる」
ユイがふとつぶやいた。
アリサは、庭先に出て風を感じていた。草の匂い。古い木の湿ったにおい。そして、開け放たれた窓から漂ってくる、何か微かな“懺悔の気配”。
――空っぽの仏壇は、「許し」を待っている。
そんな気がした。
***
「この家、なんか“忘れるために整えた”って感じがする」
作業終了後、アリサがぽつりと言った。
「部屋は綺麗。でも、“綺麗すぎる”。何も残ってないことが逆に記憶を刺激する」
「うちの父は、頑固でした。……母を、ほとんど無視していたんです。口もきかず、家事も育児も完全にノータッチ。子どもながらに、ずっと母が不憫で」
村井の言葉は、静かながらも鋭かった。
「だから、母の死後に“仏壇”を買ってきた父を、偽善者だとしか思えなかった。お茶を供えるたびに、“何のつもりだ”って」
「それでも、あなたはこの家を残していた」
アリサの問いに、村井は目を伏せる。
「……あの仏壇を、処分できなかったんです。中身がないのに。あの空っぽの箱が、父の人生そのもののように思えて」
「でも、供えてたんですよね。お茶を」
ユイが口を挟む。
「それって、何かを“詫びてた”のかもしれない。自分のやり残しに」
「……詫びる資格なんて、あったのかどうか」
「あるとかないとかじゃない。“詫びるしかなかった”んだと思いますよ。空っぽだからこそ」
アリサの声は、柔らかかった。
***
最後に、アリサは仏壇を拭いた。
空っぽのまま。何も置かずに。ただ、埃だけを払って。
そして、そっとその前に立ち、お茶を一杯、置いた。
「名前も、顔も知らないけど――」
呟きながら、一礼した。
その瞬間、風がすうっと通り抜けた。
まるで、誰かが立ち去るのを見送るように。
***
「……なぜ、お茶を?」
車の中で村井が尋ねた。
アリサは、少し笑って答えた。
「誰かが“ここに誰かいた”って思い出せば、空っぽのままでも、仏壇の意味はある気がして」
村井は、長い沈黙のあとで、短く「そうですね」とだけ言った。
***
その日の夜、ユイは自室の片隅に置いてあった空き箱を一つ開いた。
中には、捨てきれなかった母のネックレスと、古い化粧品の瓶。
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