夜の物語たち

naomikoryo

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見知らぬ登山者

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秋晴れの空が澄み渡る山奥の登山道。
山梨県の奥深い里山にあるこのコースは、紅葉の季節になると一層の美しさを見せるものの、平日にはほとんど人影がない。

山崎修一は、日常の疲れを癒やすためにこの山を訪れた。
会社勤めの傍ら、登山は彼にとって唯一の心の拠り所だった。
だが、今日は少し様子が違っていた。
登山口から3時間ほど進んだ地点で、彼はぽつんと立ち尽くす一人の女性を見つけた。
長い黒髪を風に揺らし、リュックを背負ったその姿は、どこか場違いな雰囲気を醸し出している。
「こんにちは、大丈夫ですか?」
修一が声をかけると、女性は驚いたように振り返った。
その顔には不安と疲労の色が浮かんでいる。
「……こんにちは。
ちょっと道に迷ってしまって……」
彼女は名を高橋遥と名乗った。
軽装のスニーカーに薄手のジャケット、そして小さなリュック。
山の冷たい空気を感じ取るには心もとない格好だった。
「それで、その装備でこの山を登るつもりだったんですか?」
修一の問いかけに、遥は少しバツの悪そうな笑みを浮かべた。
「友達に誘われて来たんですけど、どうやら集合場所を間違えちゃって……
連絡もつかなくて。」
修一は頭をかきながら苦笑した。
「ここは初心者向けってわけでもないし、そもそも平日に人がほとんどいない山ですよ。
よく来ましたね。」
「でも、すごく綺麗な景色だって聞いたんです。
それに、なんだか気分転換したくて……」
そう言う彼女の声には、どこか寂しさが混ざっていた。
「とにかく、まずは安全なところまで案内しますよ。
このまま夜になったら寒さで大変なことになりますから。」
遥は少し迷ったようだが、修一の提案に頷いた。

山道を進む中、修一と遥の間には徐々に会話が生まれていった。
はじめは無難な話題だった。
彼女がどこで迷ったのか、なぜその山を選んだのか。
だが、紅葉のトンネルを抜ける頃には、少し深い話が始まっていた。
「それで、どうしてこんな装備で山に?」
修一が再び尋ねると、遥は苦笑いを浮かべた。
「最初は、気分転換のつもりだったんです。
でも……実は、ちょっと逃げたくて。」
「逃げたくて?」
遥は一瞬ためらったが、やがてぽつぽつと話し始めた。
「数日前……
婚約していた人に、突然『やっぱり結婚はできない』って言われたんです。」
修一の足が止まった。
予想外の告白だった。
「それは……
きついな。」
「はい。
でも、正直なところ、自分でも何がいけなかったのか、まだ整理がつかなくて。
ただ、その場にいるのが耐えられなくなって、家を飛び出して……
なぜか山に来ちゃったんです。」
遥は、どこか自嘲するような笑みを浮かべた。

「婚約破棄って……
急だったのか?」
修一の問いに、遥はうなずいた。
「そうなんです。
本当に急でした。
付き合って3年、結婚の話も向こうから切り出してくれて、順調だと思っていたんです。
でも……最後の最後で『このままじゃ幸せにできない』なんて言われて。」
「相手は何か理由を言ってくれたのか?」
「理由……
あったのかもしれないけど、ちゃんとは言われなかったです。
ただ、『自分には荷が重い』とか『今のタイミングじゃない』とか……
あいまいな言葉ばかりで。」
遥の声には、怒りよりも悲しみが滲んでいた。
彼女は足元に視線を落としながら、乾いた笑いを漏らす。
「笑えますよね? 
私、この歳になって、こんな風に振られるなんて思いもしなかった。」
「……いや、笑えないさ。」
修一は真剣な表情で遥を見つめた。
「俺も、結婚で失敗したことがある。」
遥は驚いたように顔を上げる。
「修一さんも?」
「うん。
結婚してたけど、2年で離婚したよ。
仕事ばかりしていて、家のことを全然考えられなかった。
元妻に『一緒にいても孤独を感じる』って言われてな。」
その言葉に、遥の表情が少しだけ柔らかくなった。
「……それ、わかる気がします。
私も、もしかしたら相手にそんな風に思わせてたのかも。」
しばらく二人は言葉を交わさなかった。
ただ、風が木々を揺らす音と、落ち葉を踏みしめる足音だけが響く。

「でも、山はいいですね。」
遥がぽつりと呟いた。
「どうして?」
修一が振り返る。
「なんか、全部が小さく感じられるから。
さっきまで自分の不幸ばっかり考えてたのに、この景色を見てたら、少しだけどうでもよくなった気がして。」
「そうかもな。」
修一は頷いた。
「山にいると、自分なんてほんの一部なんだって思うよ。」

秋の夕日が山道を染める中、修一と遥は静かに歩き続けた。
山を抜ける頃には空気も少し冷たくなり、木々の間から見える空は紫色に変わり始めていた。
その時だった。
遥のリュックの中から、立て続けに通知音が響いた。
短く高い音がいくつも重なり、彼女は驚いた表情を浮かべた。
「ごめんなさい、ちょっと……」
慌ててリュックを下ろし、ポケットからスマホを取り出す。
画面を指でスライドさせて開いた瞬間、彼女の表情が変わった。
驚き、そしてどこか困惑したような色が顔に浮かぶ。
「どうした?」
修一が少し心配そうに尋ねると、遥はスマホを握り締めたまま、ゆっくりと答えた。
「……元婚約者からです。」
遥は深呼吸をしながら、震える指でメッセージを開いていった。
『遥、大丈夫か?連絡が取れなくて心配してる。』
『どこにいるんだ?無事なら教えてくれ。』
『俺、やっぱり遥しかいないと思った。ごめん。戻ってきてくれないか?』
文字のひとつひとつが彼女の心に染み込むようだった。
数日前に婚約破棄を告げられた時とはまるで違う、懇願するような言葉が画面に並んでいる。

「戻ってきてくれないか……
ですって。」
遥はスマホを見つめたまま、かすかに笑った。
しかし、その笑みには迷いが滲んでいた。
「……嬉しいはずなんです。
でも、また同じことになったらって思うと……
怖いんです。」
修一は立ち止まり、遥の横顔をじっと見つめた。
彼の目には、自分もかつて抱えた後悔の影が浮かんでいた。
「遥さん、少し聞いてくれるか?」
「……はい。」
修一はポケットから水筒を取り出し、一口飲むと静かに話し始めた。

「俺も、結婚してた頃、似たようなことを言ったことがあるんだ。
妻が出て行った後、自分の失敗に気づいて、何度も謝った。
でも、彼女が戻ることはなかった。」
遥は驚いたように修一を見つめた。
「……謝っても戻らなかったんですか?」
「そうだ。
でも、今考えると、それは仕方ないことだったと思う。
俺は、相手が戻ることばかり期待して、自分を変えようとはしなかったからな。」
「自分を……変える?」
「そう。
謝るだけじゃなくて、相手の気持ちを考えて、自分がどう変わるべきかを考えることが大事なんだと思う。」
遥はスマホを見つめながら、小さく頷いた。

「じゃあ、もし私がもう一度信じてみようと思ったら……
どうしたらいいんでしょう?」
遥の声には、期待と不安が入り混じっていた。
修一は柔らかく微笑みながら言った。
「まずは、彼が本気で変わろうとしているかを見極めることだな。
言葉だけじゃなくて、行動で示してくれるかどうか。
それが大事だ。」
「行動で……」
「それに、自分も無理をしすぎないこと。
結婚は二人で作るものだから、一人で背負い込まないようにすることも大事だ。」
遥はしばらく考え込んだあと、静かに頷いた。
「……わかりました。ちょっと怖いけど、もう一度話してみます。
彼が本気なら、私も向き合ってみようかなって。」

二人は再び歩き始めた。スマホをポケットにしまった遥の表情は、どこかすっきりしているように見えた。
「でも、修一さんに出会えてよかったです。
私一人だったら、こんな風に考えることもできなかったと思います。」
「そうか、それなら良かった。」
「もしまた迷ったら……
連絡してもいいですか?」
遥の問いに、修一は少し笑いながら言った。
「もちろんだ。
だけど、次はちゃんと装備を整えてな。」

夕焼けが二人を包む中、静かな山道は再び穏やかな風景を取り戻していった。
彼女の一歩が新しい未来へと繋がることを、修一は願ってやまなかった。
この一夜の出来事が、遥と修一、それぞれにとって新たな一歩となる
――そんな予感を残して、山は再び静けさに包まれた。
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