お絢さま風雲録 ~恋に学びに奔走中!名家のお嬢様、町を変える!?

naomikoryo

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第十話「雨宿りと、初めての傘」

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 六月末、空は朝から薄く煙っていた。

 「今日は降るかもな」

 そんな町人の呟きを裏切るように、午前中は太陽も顔を覗かせたが、午後に入ってから一転して風が冷たくなり、雲がみるみるうちに黒く厚くなっていった。

 ――そして、午後四時過ぎ。

 空が割れたような音とともに、激しい雨が町に降り注いだ。

 ざあああ……。

 山下町の石畳が、見る見るうちに黒く濡れていく。

「……降ってきちゃったわね」

 雨宿りのために、軒下へと駆け込んだ絢子は、袖口の雨粒を払いながら笑った。

 場所は、町はずれの春日神社の境内。
 古い石段の上、狛犬が苔むす静かな場所。
 午後から婦人会の用事で町を歩いていた絢子は、折悪しく傘を持たずに外出してしまい、急な雨に捕まってしまったのだった。

「参ったわ。どうしよう。おちかに迎えを頼むにも、道に出るまでがずぶ濡れになっちゃう……」

 絢子が小さくつぶやいたそのときだった。

「……桐原嬢?」

 驚いたような低い声が、雨音に混じって聞こえた。

 絢子が振り返ると、石段の下に、黒い傘を手にした長身の男が立っていた。

「牧野さん!」

 その名を呼んだ瞬間、顔がぱっと明るくなる。

「奇遇ですね、こんなところでお会いするなんて!」

「……本当に。ですが、こんな天気で、傘もなしに外を歩くとは、相変わらず危機管理が甘い」

「う……それは、返す言葉もありません」

 絢子が口をすぼめて困り顔になると、慎之介はわずかに息を吐いて石段を登ってきた。
 そして、自分の傘をそっと傾けて、絢子の頭上に差し出した。

「……入りなさい」

「え?」

「風が強い。長居は無用です。屋敷までお送りします」

 言いながらも、彼の表情にはわずかに照れが滲んでいた。
 絢子もまた、傘の下にそっと身を寄せると、にこりと笑った。

「はい。……ありがとうございます」

 * * *

 傘の中は、思いのほか狭かった。

 互いの肩が触れるか触れないかの距離。
 普段、毅然としていた慎之介も、ほんのわずかに体をこわばらせているのがわかる。

「……不思議ですね」

 絢子がぽつりと呟く。

「こんなに雨が降ってるのに、傘の中って、こんなに静か」

「音が、外に流れるからでしょう」

「ううん、そうじゃなくて……。心の中も、ちょっとだけ、静かになって」

 慎之介は黙って彼女を見た。

 傘の下、光の届かぬ空の下で、彼女の横顔は雨音と調和して、やけに美しく見えた。

「……わたし、ね」

 ふと、絢子の声が低くなる。

「子供のころ、“家の名前”って、魔法の道具だと思ってたんです」

「魔法、ですか」

「はい。『桐原の娘です』って言えば、何でも通る。でもある日、それが魔法じゃなくて、“枷”だったことに気づきました。家の名前で得たものは、全部、家のために返さなくちゃいけないって……」

 それは、あの“家族会議”の夜以来、誰にも語っていなかった本音だった。

「でも、牧野さんと話すようになって、初めて“自分のままでいてもいい”って、思えたんです」

「……」

「私、あなたに会えて、ほんとうに良かった」

 雨音が、ふたりの間を満たす。

 傘の外では激しく降り続いているのに、その中はまるで時が止まったようだった。

 慎之介は、言葉を探していた。
 彼の人生に、こんなふうに真正面から自分を認めてくれる存在は、いなかった。

 家庭でも、学び舎でも、役所でも、彼は“優秀な若者”であることを求められ、そう振る舞ってきた。
 だが、その仮面の下で何を思おうが、誰にも興味を持たれなかった。

 ――だが、この少女は。

 肩が触れそうな距離で、まるで当たり前のように、彼の“本質”に触れようとする。

 「あなたのままでいていい」と、何の打算もなく言ってのける。

 気がつけば、口が開いていた。

「……私も、です」

「え?」

「私も、あなたに出会って――自分が“人間”になれた気がしている。……冷たく、理屈でしか人を見られなかった自分に、あなたは“感情”を与えてくれた」

 絢子の瞳が、ふわりと潤んだ。

 次の瞬間、雷鳴が空を裂いた。
 ふたりは反射的に身を寄せ合い、肩が触れ、絢子の指が慎之介の手にわずかに触れた。

「ご、ごめんなさい……」

「……いえ」

 そのまま、ふたりはもう一言も交わさず、屋敷までの道を歩いた。

 距離は、近いまま。
 傘の中、互いの呼吸と鼓動だけが確かに存在していた。

 * * *

 邸の門前に着くと、絢子は静かに頭を下げた。

「今日は、ありがとうございました」

「……いえ。こちらこそ、貴重なお話を」

「また、傘の中で、お話しましょうね」

 慎之介は、一瞬言葉を詰まらせたが、やがて小さく笑って頷いた。

「ええ、また――“傘の中”で」

 そのやりとりは、誰の目にも触れない、
 けれど、ふたりの心に深く残る“初めての共有”だった。

 雨は、まだ止まなかった。

 けれど、ふたりの間には、確かな灯りがともっていた。

(第十話 完)
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