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第十一話「婚約話と涙の約束」
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七月に入ったある日、空気が不穏に感じられたのは、きっと絢子の勘ではなかった。
その朝、朝餉の席にて、祖母・静子がいつになく背筋を正して箸を置いた。
「絢子、お前に話しておかねばならぬことがある」
その言葉に、座敷が静まり返った。
「――縁談じゃ」
それは、唐突だった。
けれど、絢子の年齢と身分を考えれば、遅いくらいとも言えた。
「相手は、西条子爵家の御嫡男。学問にも通じ、官職にも就いておる。年齢は二十七、お前より十つ上じゃが、人物としては申し分ない」
「……」
絢子は返事をしなかった。
箸を置き、ただ黙って湯気の立つ味噌汁を見つめていた。
静子は、続けた。
「ただし、これは“話がある”という段階じゃ。まだお見合いの席も設けておらん。お前の意志も、無視するつもりはない」
「ならば――」
絢子は、ゆっくりと顔を上げた。
「私は、お断りいたします」
そうきっぱりと言い切った彼女に、正和の顔が曇った。
「おいおい、絢子。子爵家との縁談を、そんなにあっさりと……」
「私は、自分の心が決まっていない状態で、どなたとも結ばれることはできません」
静子は、目を閉じて小さく頷いた。
「わかった。……ただし、この話は“断る”だけで済むものではない。子爵家に非礼があっては、我が家の名にも関わる」
「承知しております」
「……では、お前が心を定めるまで、我らは待つとしよう。だが、絢子――覚えておけ。自由とは、選ぶことだけではない。責任を背負うことでもある」
「はい」と返す声は、小さいながらも澄んでいた。
しかしその裏で、絢子の胸は波立っていた。
(心を、定める……? でも、私の心は――)
* * *
その夜、絢子はひとりで文机に向かっていた。
窓の外では、風鈴が鳴る。涼しげな音とは裏腹に、胸の内はざわざわと熱を帯びていた。
筆を取ろうとして、思わず止まる。
(牧野さんに、話すべきだろうか)
彼には、何度も助けられてきた。
言葉を交わすたびに、心が軽くなり、自分自身でいられた。
それが、ただの“友誼”なのか、もっと違うものなのか
――答えは出ていない。
でも、縁談があることだけは、きちんと伝えなければ。
彼にだけは、嘘をつきたくなかった。
そう決めて、絢子は筆を取った。
--------------------------------------------------------------------------------
拝啓
夏の気配が本格的になってまいりましたが、お変わりなくお過ごしでしょうか。
実は、祖母より縁談の話を持ちかけられました。
相手は西条子爵家の御嫡男とのこと。
もちろん、即決できるものではなく、私の意志も尊重していただけるとのことですが、
こうした話が持ち上がったという事実だけは、きちんとお伝えしておこうと思いました。
それは、おそらくあなたが、私の中で大切な存在になっていたからだと思います。
お返事は、要りません。
ただ――
私は今、心の中にある気持ちと、真っ直ぐに向き合おうとしています。
桐原 絢子
--------------------------------------------------------------------------------
* * *
手紙を受け取ったのは、翌日の夕方。
役場での勤務を終え、下宿へ戻った慎之介は、玄関先の小包とともに封書を見つけた。
開いた瞬間、彼は文字の一つ一つに、まるで時間が止まったように見入っていた。
(――縁談、か)
彼にとって、想定していなかった話ではなかった。
名家の娘。年頃。華族社会でのしきたり――すべてが、そうなるべくして動いている。
けれど、胸の奥に、どうしようもなく冷たいものが流れた。
手紙の最後、彼女は「返事は要りません」と書いた。
けれど、彼の中にはどうしても伝えたくなった想いがあった。
* * *
三日後の夕方。
再び夏の雨が降った日、慎之介は桐原邸の表門を叩いた。
「ごめんください。牧野慎之介と申します。絢子嬢に、手紙のお返事をお持ちしました」
女中に案内され、彼は前と同じ応接間で絢子を待った。
しばらくして、着替えを終えた絢子が現れる。
「牧野さん……?」
「勝手ながら、お返事をお持ちしました。ご迷惑でなければ、今ここで読んでいただけませんか」
慎之介は、懐から一通の封書を取り出した。
差し出されたそれを、絢子は少し驚いたように見つめ、ゆっくりと受け取った。
封を切り、広げ、目を通し、やがて絢子の手が止まる。
--------------------------------------------------------------------------------
桐原絢子様
あなたが、そのような重要な話を真っ先に私に知らせてくださったこと、心より感謝申し上げます。
貴女が、これから誰と道を歩まれるか――その選択を私は縛ることも、求めることもできません。
けれどもし、もしも、まだその心が“どこかに留まっている”のだとしたら。
私は、貴女が選ぶその未来に、自分も加えてほしいと願っています。
それは私の願望であり、命令ではなく、縛りでもありません。
ただ――
貴女が涙を流すような選択だけは、してほしくない。
貴女が笑っている限り、私は、どんな形であってもそばにいたい。
そう思っています。
牧野慎之介
--------------------------------------------------------------------------------
絢子は、手紙を胸に抱いた。
瞳に、うっすらと涙が滲んでいた。
「……私、泣いてますね」
「はい」
「でも、これは、悲しい涙じゃありません」
彼女は、微笑みながら、はっきりとそう言った。
「ありがとうございます、牧野さん。……とても、嬉しいです」
それは、“恋”という言葉を使わずに交わされた、
けれど、紛れもなく心を通わせた
――ふたりの最初の約束だった。
(第十一話 完)
その朝、朝餉の席にて、祖母・静子がいつになく背筋を正して箸を置いた。
「絢子、お前に話しておかねばならぬことがある」
その言葉に、座敷が静まり返った。
「――縁談じゃ」
それは、唐突だった。
けれど、絢子の年齢と身分を考えれば、遅いくらいとも言えた。
「相手は、西条子爵家の御嫡男。学問にも通じ、官職にも就いておる。年齢は二十七、お前より十つ上じゃが、人物としては申し分ない」
「……」
絢子は返事をしなかった。
箸を置き、ただ黙って湯気の立つ味噌汁を見つめていた。
静子は、続けた。
「ただし、これは“話がある”という段階じゃ。まだお見合いの席も設けておらん。お前の意志も、無視するつもりはない」
「ならば――」
絢子は、ゆっくりと顔を上げた。
「私は、お断りいたします」
そうきっぱりと言い切った彼女に、正和の顔が曇った。
「おいおい、絢子。子爵家との縁談を、そんなにあっさりと……」
「私は、自分の心が決まっていない状態で、どなたとも結ばれることはできません」
静子は、目を閉じて小さく頷いた。
「わかった。……ただし、この話は“断る”だけで済むものではない。子爵家に非礼があっては、我が家の名にも関わる」
「承知しております」
「……では、お前が心を定めるまで、我らは待つとしよう。だが、絢子――覚えておけ。自由とは、選ぶことだけではない。責任を背負うことでもある」
「はい」と返す声は、小さいながらも澄んでいた。
しかしその裏で、絢子の胸は波立っていた。
(心を、定める……? でも、私の心は――)
* * *
その夜、絢子はひとりで文机に向かっていた。
窓の外では、風鈴が鳴る。涼しげな音とは裏腹に、胸の内はざわざわと熱を帯びていた。
筆を取ろうとして、思わず止まる。
(牧野さんに、話すべきだろうか)
彼には、何度も助けられてきた。
言葉を交わすたびに、心が軽くなり、自分自身でいられた。
それが、ただの“友誼”なのか、もっと違うものなのか
――答えは出ていない。
でも、縁談があることだけは、きちんと伝えなければ。
彼にだけは、嘘をつきたくなかった。
そう決めて、絢子は筆を取った。
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拝啓
夏の気配が本格的になってまいりましたが、お変わりなくお過ごしでしょうか。
実は、祖母より縁談の話を持ちかけられました。
相手は西条子爵家の御嫡男とのこと。
もちろん、即決できるものではなく、私の意志も尊重していただけるとのことですが、
こうした話が持ち上がったという事実だけは、きちんとお伝えしておこうと思いました。
それは、おそらくあなたが、私の中で大切な存在になっていたからだと思います。
お返事は、要りません。
ただ――
私は今、心の中にある気持ちと、真っ直ぐに向き合おうとしています。
桐原 絢子
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* * *
手紙を受け取ったのは、翌日の夕方。
役場での勤務を終え、下宿へ戻った慎之介は、玄関先の小包とともに封書を見つけた。
開いた瞬間、彼は文字の一つ一つに、まるで時間が止まったように見入っていた。
(――縁談、か)
彼にとって、想定していなかった話ではなかった。
名家の娘。年頃。華族社会でのしきたり――すべてが、そうなるべくして動いている。
けれど、胸の奥に、どうしようもなく冷たいものが流れた。
手紙の最後、彼女は「返事は要りません」と書いた。
けれど、彼の中にはどうしても伝えたくなった想いがあった。
* * *
三日後の夕方。
再び夏の雨が降った日、慎之介は桐原邸の表門を叩いた。
「ごめんください。牧野慎之介と申します。絢子嬢に、手紙のお返事をお持ちしました」
女中に案内され、彼は前と同じ応接間で絢子を待った。
しばらくして、着替えを終えた絢子が現れる。
「牧野さん……?」
「勝手ながら、お返事をお持ちしました。ご迷惑でなければ、今ここで読んでいただけませんか」
慎之介は、懐から一通の封書を取り出した。
差し出されたそれを、絢子は少し驚いたように見つめ、ゆっくりと受け取った。
封を切り、広げ、目を通し、やがて絢子の手が止まる。
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桐原絢子様
あなたが、そのような重要な話を真っ先に私に知らせてくださったこと、心より感謝申し上げます。
貴女が、これから誰と道を歩まれるか――その選択を私は縛ることも、求めることもできません。
けれどもし、もしも、まだその心が“どこかに留まっている”のだとしたら。
私は、貴女が選ぶその未来に、自分も加えてほしいと願っています。
それは私の願望であり、命令ではなく、縛りでもありません。
ただ――
貴女が涙を流すような選択だけは、してほしくない。
貴女が笑っている限り、私は、どんな形であってもそばにいたい。
そう思っています。
牧野慎之介
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絢子は、手紙を胸に抱いた。
瞳に、うっすらと涙が滲んでいた。
「……私、泣いてますね」
「はい」
「でも、これは、悲しい涙じゃありません」
彼女は、微笑みながら、はっきりとそう言った。
「ありがとうございます、牧野さん。……とても、嬉しいです」
それは、“恋”という言葉を使わずに交わされた、
けれど、紛れもなく心を通わせた
――ふたりの最初の約束だった。
(第十一話 完)
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