12 / 33
第十二話「若様の憤怒と自問」
しおりを挟む
蝉の声が聞こえ始めた頃――
ある日の午前、役場の事務所に一通の使者がやってきた。
「失礼いたします。桐原家、桐原正和様より、牧野様へ“お話がある”とのことです」
控えめながら、どこか張り詰めた声。
周囲の職員たちが一斉に慎之介を振り向いた。
「……私に、ですか?」
「はい。急ぎではありませんが、“お手すきの時間に桐原家へ”との仰せです」
慎之介は、使者が退出した後もしばらく沈黙していた。
胸の奥に、小さなざわめきが広がっていた。
――ついに来たか。
桐原家の長兄、桐原正和。
かつて郡役所で官吏を務め、現在は本家の財務と対外交渉を一手に担う男。噂では冷静沈着、しかし“誇り高く気性も厳しい”という。
その正和が、自分を呼んだ。
ただの“話”ではない。
彼はもう、気づいているのだ。
――絢子との関係に。
慎之介は、背筋を正し、午後の早退を願い出て役場を出た。
* * *
桐原家の表門をくぐると、屋敷は蝉時雨に包まれていた。
使用人に導かれ、書院へと案内される。
そこには、黒紋付きに羽織姿の正和が、香を焚きながら文を読む姿があった。
顔を上げたその目は、静かでありながら、どこか突き刺すような鋭さを帯びていた。
「牧野慎之介殿、お越しいただき感謝する」
「こちらこそ、お呼びいただき恐れ入ります」
二人は、丁重に礼を交わした。
だが、それもほんの一瞬。
正和は、文を畳むと、単刀直入に口を開いた。
「牧野殿。単刀直入に問う。……我が妹、絢子との関係を、どうお考えか」
空気が凍りついたようだった。
慎之介は、わずかに瞳を伏せ、そして真っすぐに顔を上げて言った。
「――深い敬意を持っております。そして、彼女の存在は、私にとってかけがえのないものとなりつつあります」
「つまり、“想いを寄せている”と?」
「……はい」
正和の眼光が強まった。
「ならば、貴殿は己の立場を、どこまで理解しておるのか」
「身分において、貴家に比すべくもありません。私は士族の家に生まれましたが、現在はただの下級役人です」
「承知の上か」
「はい」
短い応酬。しかしその中には、剣のような鋭さがあった。
正和は腕を組み、立ち上がる。
そして、静かに歩みながら言った。
「妹は……あれは、心の澄んだ子だ。家柄に囚われず、まっすぐで、愚直なほどに他人を信じる。だが、それゆえに脆い。
貴殿は、そんな妹の想いに応える覚悟が、本当にあるのか?」
慎之介は、その場に深く頭を垂れた。
「あります」
「ならば、証を見せよ。口先ではなく、“行い”で示せ。
庶民の中で、名家の娘を守ることが、どれだけの苦労を伴うか……」
その言葉の途中で、慎之介が顔を上げた。
「私には、“守る”など、おこがましいと思っております」
「何?」
「彼女は、私などよりずっと強い。柔らかく、しなやかで、それでいて折れぬ心を持っている。
私が出来るのは、そばで見つめ、共に歩くことだけです。
それを“不相応”と断ずるのであれば、いっそ私を拒んでください」
その一言に、正和は目を細めた。
静かに席へ戻り、香炉の灰を撫でながら呟いた。
「……貴殿の言葉に、偽りはないようだな」
「……」
「だが、それで十分とは言えぬ。“想い”だけで家は守れぬ。
貴殿が何者であるかを、この町全体が知る日が来る。
そのとき、貴殿が妹を泣かせたなら、私は――容赦せぬ」
「……そのときは、どうぞ遠慮なく」
静かにそう答えた慎之介の目にも、覚悟の色が宿っていた。
* * *
邸を出た帰り道、石畳を踏みながら慎之介は自問していた。
(私は……彼女に、相応しいのだろうか)
身分の違い。責任の重さ。
どれもが現実で、そして容易には覆らない。
しかし、絢子と過ごした時間は確かだった。
彼女の声、笑顔、手のぬくもり、それらがすでに彼の人生の一部になっていた。
(もし、これが“恋”なのだとしたら――)
(それは、誰にも裁かせはしない)
夕暮れの町を吹き抜ける風が、彼の心を静かに整えていた。
次に彼が桐原家を訪れるとき、それはもう“許しを乞うため”ではなく、“誓いを立てるため”であると、
彼は心の奥で、そう決めていた。
(第十二話 完)
ある日の午前、役場の事務所に一通の使者がやってきた。
「失礼いたします。桐原家、桐原正和様より、牧野様へ“お話がある”とのことです」
控えめながら、どこか張り詰めた声。
周囲の職員たちが一斉に慎之介を振り向いた。
「……私に、ですか?」
「はい。急ぎではありませんが、“お手すきの時間に桐原家へ”との仰せです」
慎之介は、使者が退出した後もしばらく沈黙していた。
胸の奥に、小さなざわめきが広がっていた。
――ついに来たか。
桐原家の長兄、桐原正和。
かつて郡役所で官吏を務め、現在は本家の財務と対外交渉を一手に担う男。噂では冷静沈着、しかし“誇り高く気性も厳しい”という。
その正和が、自分を呼んだ。
ただの“話”ではない。
彼はもう、気づいているのだ。
――絢子との関係に。
慎之介は、背筋を正し、午後の早退を願い出て役場を出た。
* * *
桐原家の表門をくぐると、屋敷は蝉時雨に包まれていた。
使用人に導かれ、書院へと案内される。
そこには、黒紋付きに羽織姿の正和が、香を焚きながら文を読む姿があった。
顔を上げたその目は、静かでありながら、どこか突き刺すような鋭さを帯びていた。
「牧野慎之介殿、お越しいただき感謝する」
「こちらこそ、お呼びいただき恐れ入ります」
二人は、丁重に礼を交わした。
だが、それもほんの一瞬。
正和は、文を畳むと、単刀直入に口を開いた。
「牧野殿。単刀直入に問う。……我が妹、絢子との関係を、どうお考えか」
空気が凍りついたようだった。
慎之介は、わずかに瞳を伏せ、そして真っすぐに顔を上げて言った。
「――深い敬意を持っております。そして、彼女の存在は、私にとってかけがえのないものとなりつつあります」
「つまり、“想いを寄せている”と?」
「……はい」
正和の眼光が強まった。
「ならば、貴殿は己の立場を、どこまで理解しておるのか」
「身分において、貴家に比すべくもありません。私は士族の家に生まれましたが、現在はただの下級役人です」
「承知の上か」
「はい」
短い応酬。しかしその中には、剣のような鋭さがあった。
正和は腕を組み、立ち上がる。
そして、静かに歩みながら言った。
「妹は……あれは、心の澄んだ子だ。家柄に囚われず、まっすぐで、愚直なほどに他人を信じる。だが、それゆえに脆い。
貴殿は、そんな妹の想いに応える覚悟が、本当にあるのか?」
慎之介は、その場に深く頭を垂れた。
「あります」
「ならば、証を見せよ。口先ではなく、“行い”で示せ。
庶民の中で、名家の娘を守ることが、どれだけの苦労を伴うか……」
その言葉の途中で、慎之介が顔を上げた。
「私には、“守る”など、おこがましいと思っております」
「何?」
「彼女は、私などよりずっと強い。柔らかく、しなやかで、それでいて折れぬ心を持っている。
私が出来るのは、そばで見つめ、共に歩くことだけです。
それを“不相応”と断ずるのであれば、いっそ私を拒んでください」
その一言に、正和は目を細めた。
静かに席へ戻り、香炉の灰を撫でながら呟いた。
「……貴殿の言葉に、偽りはないようだな」
「……」
「だが、それで十分とは言えぬ。“想い”だけで家は守れぬ。
貴殿が何者であるかを、この町全体が知る日が来る。
そのとき、貴殿が妹を泣かせたなら、私は――容赦せぬ」
「……そのときは、どうぞ遠慮なく」
静かにそう答えた慎之介の目にも、覚悟の色が宿っていた。
* * *
邸を出た帰り道、石畳を踏みながら慎之介は自問していた。
(私は……彼女に、相応しいのだろうか)
身分の違い。責任の重さ。
どれもが現実で、そして容易には覆らない。
しかし、絢子と過ごした時間は確かだった。
彼女の声、笑顔、手のぬくもり、それらがすでに彼の人生の一部になっていた。
(もし、これが“恋”なのだとしたら――)
(それは、誰にも裁かせはしない)
夕暮れの町を吹き抜ける風が、彼の心を静かに整えていた。
次に彼が桐原家を訪れるとき、それはもう“許しを乞うため”ではなく、“誓いを立てるため”であると、
彼は心の奥で、そう決めていた。
(第十二話 完)
0
あなたにおすすめの小説
花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】
naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。
舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。
結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。
失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。
やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。
男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。
これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。
静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。
全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
偽夫婦お家騒動始末記
紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】
故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。
紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。
隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。
江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。
そして、拾った陰間、紫音の正体は。
活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
【完結】異世界で神の元カノのゴミ屋敷を片付けたら世界の秘密が出てきました
小豆缶
ファンタジー
父の遺したゴミ屋敷を片付けていたはずが、気づけば異世界に転移していた私・飛鳥。
しかも、神の元カノと顔がそっくりという理由で、いきなり死刑寸前!?
助けてくれた太陽神ソラリクスから頼まれた仕事は、
「500年前に別れた元恋人のゴミ屋敷を片付けてほしい」というとんでもない依頼だった。
幽霊になった元神、罠だらけの屋敷、歪んだ世界のシステム。
ポンコツだけど諦めの悪い主人公が、ゴミ屋敷を片付けながら異世界の謎を暴いていく!
ほのぼのお仕事×異世界コメディ×世界の秘密解明ファンタジー
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる