26 / 33
第二十六話「旅立ちとふたりの夢」
しおりを挟む
十一月も中頃、紅葉が一段と深まり、町の通りを彩る木々が風に舞うようになった頃。
「……この封筒、届いていたんです」
そう言って、絢子が差し出したのは、一通の手紙だった。
差出人は――下紺野村 寺子屋代表・八代千歳。
かつて絢子が家出同然に駆け込んだ、山一つ越えたあの小さな村の、あの寺子屋。
そこを守ってきた女性の手によって、手紙は綴られていた。
--------------------------------------------------------------------------------
絢子さん、お元気ですか?
あなたが植えてくれた朝顔は、夏が終わっても種を落とし、子供たちがまた来年咲かせようと楽しみにしています。
このたび、新しくできた読み書きの教室に必要な備品のことで、
山下町の制度に頼れないかという声が出てまいりました。
どうか一度、村へ来ていただけませんか?
久しぶりに、お会いしたいのです。
--------------------------------------------------------------------------------
絢子は、手紙を膝の上で押さえながら、慎之介に顔を向けた。
「……行ってみようと思います。わたし、あの村に“育ててもらった”から」
慎之介は、すぐに頷いた。
「では、わたしも同行します。
町の制度が村で使えるかどうか、直接確認できれば、そのまま郡部へ報告もできますから」
「ありがとうございます……慎之介さん」
名前を呼ばれるたびに、絢子はまだ少し照れたような笑みを浮かべた。
ふたりは、こうして初めての夫婦での旅に出ることになった。
* * *
旅といっても、町を抜け、山道を越え、小さな峠を越えた先。
ふたりは徒歩で、途中までは馬車を使い、秋の澄んだ空気を胸いっぱいに吸いながら進んだ。
「……秋の山って、こんなに綺麗だったんですね」
「ええ、まるで風景がしゃべっているようです。
“冬が来るぞ”と、葉が色で知らせているような……」
「詩人みたいですね、慎之介さん」
「なら、絢子さんの感性がうつったのかもしれません」
ふたりのやりとりは、すっかり夫婦らしい“余白”を含んでいた。
無理に言葉を継がずとも、沈黙が心地よい時間として流れていく。
* * *
午後。
ふたりは無事に下紺野村へ到着した。
秋の陽射しの中、小さな村はどこか懐かしい香りに満ちていた。
土の匂い、薪の匂い、洗濯物が風になびく音。
そして
――かつて絢子が教えていた、あの寺子屋。
「おお! 絢子先生だ!」
「あっ、ほんとだ、ほんとだ!」
子供たちが駆け寄ってきた。もう大きくなって、声も背丈も違っていた。
「牧野先生も来てくれたの? おい、みんな来いよー!」
彼らの元気な声に、ふたりは顔を見合わせ、自然と笑みをこぼした。
中から現れたのは、灰色の羽織に丸い眼鏡をかけた女性――八代千歳だった。
「絢子さん……来てくれて、ほんとうにありがとう」
「千歳さん、お久しぶりです」
千歳は、うっすら涙を浮かべながら絢子の手を握った。
「よく、あのとき来てくれた。……あのとき、あなたが来なかったら、きっと、私はこの寺子屋を閉めてたと思う」
絢子は、ただ首を振った。
「わたしも、あのとき、助けられたんです。
千歳さんに、この村に、子供たちに」
それは、何かを与えた者の言葉ではなかった。
与えられ、支えられ、共に歩いた“同士”の声だった。
* * *
夕方、小さな集会が開かれた。
村の子供たち、父兄、そして数人の若い農民たちが、絢子と慎之介の話を聞きに来ていた。
「今、山下町では寺子屋への支援制度が動いています。
けれど、村部となると、いくつかの条件があります。
――けれど、それも、超える方法はあると私は信じています」
慎之介の言葉は、理路整然としたものでありながら、どこか人間味があった。
絢子もまた、前に立ち、
「わたしは、ここの子供たちの目が忘れられません。
この場所で学ぶことを“嬉しい”と思ってくれる心が、何よりも強い力になると信じています」
そして、村の若者の一人が、ぽつりと声を上げた。
「……山下町の寺子屋みたいなものが、ここにあったらいいなって、前から思ってました。
農家の娘たちも、もっと学べたらって。
でも……金も、場所も、人も、足りない」
「なら、一緒に作りましょう」
絢子のその言葉は、まるで鐘の音のように会場を打った。
「わたしは、ここにも“第二の居場所”を作りたい。
町で学べない子供たちのために、今度は“村の寺子屋”を。
わたしが、やります」
誰もが、しばし黙った。
そして、拍手が――ゆっくりと広がった。
その拍手の輪の中で、慎之介は静かに、絢子の手を取った。
「絢子さん。
――これが、私たちの“次の夢”ですね」
「はい、慎之介さん。
きっと、ふたりなら、できます」
陽が沈み、空が薄紫に染まる頃。
その手は、これまで以上に強く、確かに結ばれていた。
旅の終わりは、次なる旅の始まり。
絢子と慎之介の“ふたりの夢”は、またひとつ、世界を広げていこうとしていた。
(第二十六話 完)
「……この封筒、届いていたんです」
そう言って、絢子が差し出したのは、一通の手紙だった。
差出人は――下紺野村 寺子屋代表・八代千歳。
かつて絢子が家出同然に駆け込んだ、山一つ越えたあの小さな村の、あの寺子屋。
そこを守ってきた女性の手によって、手紙は綴られていた。
--------------------------------------------------------------------------------
絢子さん、お元気ですか?
あなたが植えてくれた朝顔は、夏が終わっても種を落とし、子供たちがまた来年咲かせようと楽しみにしています。
このたび、新しくできた読み書きの教室に必要な備品のことで、
山下町の制度に頼れないかという声が出てまいりました。
どうか一度、村へ来ていただけませんか?
久しぶりに、お会いしたいのです。
--------------------------------------------------------------------------------
絢子は、手紙を膝の上で押さえながら、慎之介に顔を向けた。
「……行ってみようと思います。わたし、あの村に“育ててもらった”から」
慎之介は、すぐに頷いた。
「では、わたしも同行します。
町の制度が村で使えるかどうか、直接確認できれば、そのまま郡部へ報告もできますから」
「ありがとうございます……慎之介さん」
名前を呼ばれるたびに、絢子はまだ少し照れたような笑みを浮かべた。
ふたりは、こうして初めての夫婦での旅に出ることになった。
* * *
旅といっても、町を抜け、山道を越え、小さな峠を越えた先。
ふたりは徒歩で、途中までは馬車を使い、秋の澄んだ空気を胸いっぱいに吸いながら進んだ。
「……秋の山って、こんなに綺麗だったんですね」
「ええ、まるで風景がしゃべっているようです。
“冬が来るぞ”と、葉が色で知らせているような……」
「詩人みたいですね、慎之介さん」
「なら、絢子さんの感性がうつったのかもしれません」
ふたりのやりとりは、すっかり夫婦らしい“余白”を含んでいた。
無理に言葉を継がずとも、沈黙が心地よい時間として流れていく。
* * *
午後。
ふたりは無事に下紺野村へ到着した。
秋の陽射しの中、小さな村はどこか懐かしい香りに満ちていた。
土の匂い、薪の匂い、洗濯物が風になびく音。
そして
――かつて絢子が教えていた、あの寺子屋。
「おお! 絢子先生だ!」
「あっ、ほんとだ、ほんとだ!」
子供たちが駆け寄ってきた。もう大きくなって、声も背丈も違っていた。
「牧野先生も来てくれたの? おい、みんな来いよー!」
彼らの元気な声に、ふたりは顔を見合わせ、自然と笑みをこぼした。
中から現れたのは、灰色の羽織に丸い眼鏡をかけた女性――八代千歳だった。
「絢子さん……来てくれて、ほんとうにありがとう」
「千歳さん、お久しぶりです」
千歳は、うっすら涙を浮かべながら絢子の手を握った。
「よく、あのとき来てくれた。……あのとき、あなたが来なかったら、きっと、私はこの寺子屋を閉めてたと思う」
絢子は、ただ首を振った。
「わたしも、あのとき、助けられたんです。
千歳さんに、この村に、子供たちに」
それは、何かを与えた者の言葉ではなかった。
与えられ、支えられ、共に歩いた“同士”の声だった。
* * *
夕方、小さな集会が開かれた。
村の子供たち、父兄、そして数人の若い農民たちが、絢子と慎之介の話を聞きに来ていた。
「今、山下町では寺子屋への支援制度が動いています。
けれど、村部となると、いくつかの条件があります。
――けれど、それも、超える方法はあると私は信じています」
慎之介の言葉は、理路整然としたものでありながら、どこか人間味があった。
絢子もまた、前に立ち、
「わたしは、ここの子供たちの目が忘れられません。
この場所で学ぶことを“嬉しい”と思ってくれる心が、何よりも強い力になると信じています」
そして、村の若者の一人が、ぽつりと声を上げた。
「……山下町の寺子屋みたいなものが、ここにあったらいいなって、前から思ってました。
農家の娘たちも、もっと学べたらって。
でも……金も、場所も、人も、足りない」
「なら、一緒に作りましょう」
絢子のその言葉は、まるで鐘の音のように会場を打った。
「わたしは、ここにも“第二の居場所”を作りたい。
町で学べない子供たちのために、今度は“村の寺子屋”を。
わたしが、やります」
誰もが、しばし黙った。
そして、拍手が――ゆっくりと広がった。
その拍手の輪の中で、慎之介は静かに、絢子の手を取った。
「絢子さん。
――これが、私たちの“次の夢”ですね」
「はい、慎之介さん。
きっと、ふたりなら、できます」
陽が沈み、空が薄紫に染まる頃。
その手は、これまで以上に強く、確かに結ばれていた。
旅の終わりは、次なる旅の始まり。
絢子と慎之介の“ふたりの夢”は、またひとつ、世界を広げていこうとしていた。
(第二十六話 完)
0
あなたにおすすめの小説
花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】
naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。
舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。
結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。
失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。
やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。
男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。
これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。
静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。
全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
偽夫婦お家騒動始末記
紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】
故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。
紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。
隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。
江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。
そして、拾った陰間、紫音の正体は。
活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
【完結】異世界で神の元カノのゴミ屋敷を片付けたら世界の秘密が出てきました
小豆缶
ファンタジー
父の遺したゴミ屋敷を片付けていたはずが、気づけば異世界に転移していた私・飛鳥。
しかも、神の元カノと顔がそっくりという理由で、いきなり死刑寸前!?
助けてくれた太陽神ソラリクスから頼まれた仕事は、
「500年前に別れた元恋人のゴミ屋敷を片付けてほしい」というとんでもない依頼だった。
幽霊になった元神、罠だらけの屋敷、歪んだ世界のシステム。
ポンコツだけど諦めの悪い主人公が、ゴミ屋敷を片付けながら異世界の謎を暴いていく!
ほのぼのお仕事×異世界コメディ×世界の秘密解明ファンタジー
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる