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第二十七話「桐の郷に咲くもうひとつの寺子屋」
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下紺野村――。
かつて「何もない」と言われたこの山あいの小さな集落に、今ひとつの希望の灯がともろうとしていた。
桐原絢子と牧野慎之介。
町から来た新婚のふたりが、この村に“もうひとつの寺子屋”を開こうとしていた。
「……ここを、使ってくれて構いませんよ」
村の寄合所として使われていた古い土蔵を指しながら、千歳が言った。
「どうせ誰も使わなくなって久しいし、あなたたちが新しい風を入れてくれたら、蔵もきっと喜びます」
「ありがとうございます。けれど、補修には少し手がかかりそうですね」
慎之介が天井の梁を見上げながらつぶやいた。
「梁はしっかりしているけれど、床は半分抜けていますね。窓も全部、格子が外れてます」
「大工さんに頼めば数日はかかりますね。でも……やります」
絢子は迷いのない顔で言った。
「“夢”って、こういうところから始まると思うんです。埃っぽくて、古くて、でも、希望が入ってくる風がある。そんな場所から」
千歳は、目を細めて頷いた。
「絢子さん、あなたはやっぱり――“先生”だね」
* * *
そこからの日々は、泥だらけで、汗まみれで、そして笑いの絶えないものだった。
慎之介は役場へ“特別修繕費”の申請を出し、千歳は村の若者を募って蔵の掃除に取り掛かり、絢子は村の子供たちと一緒に教室のレイアウトを考えた。
「先生、ここに“読んだ本を貼る場所”がほしい!」
「じゃあ、こっちに“おやつコーナー”を作ろう!」
「おやつはまだ予算に入ってないわよ?」
笑い声が風に乗って、蔵の中にも、村の小道にも響いた。
そして、蔵の前には大きな桐の木があった。
春に咲くはずのその木は、今は葉を落とし、枝だけになっていたが、絢子はその木に、ある“約束”を込めることにした。
「この桐が咲く頃には、この場所が“本当の居場所”になっているようにしよう」
それは、ふたりが寺子屋の名前に“桐”を選んだ瞬間だった。
「桐の郷・寺子屋分校」――
そんな仮の名前が、徐々に人々の口に馴染んでいった。
* * *
作業が一段落したある日の夕暮れ。
絢子と慎之介は、蔵の縁に腰掛け、疲れた体を風に任せていた。
「……こんなに働く新婚夫婦って、いるかしら」
「そうですね。でも、あなたが笑っているなら、私はそれで幸せです」
「ずるいわ、その言い方。照れるじゃない」
「絢子さん」
「……はい?」
「本当に、ここで良かったですか?」
絢子は少し黙って、遠くの山を見た。
夕陽が、金色に照らしていた。
「――はい。わたし、こんなふうに風が吹いてくる場所で、
あなたと子供たちと、新しい世界を育てたかったんです」
慎之介は、その手をそっと握った。
「では、ここで“また新しい夢”を叶えましょう」
「え?」
「この村の寺子屋を、子供たちだけでなく、大人にも開放したい。
読み書きを諦めた人たちのために、“夜の教室”を開きたいんです」
絢子は、驚いた顔をして、それから少しずつ笑顔を見せた。
「……素敵ですね、夜の教室。
お月さまの下で字を学ぶなんて、なんだか詩みたい」
「あなたにそう言ってもらえるなら、きっと成功します」
ふたりは笑い合いながら、その夜、村の簡素な民家で眠った。
そして、月明かりの下。
風に揺れる桐の木が、まるでふたりを見守っているかのように枝を震わせていた。
* * *
それから数日後、村の広報板に手書きの張り紙が貼られた。
--------------------------------------------------------------------------------
【おしらせ】
来る弥生の頃(春先)、下紺野村に「桐の郷寺子屋 分校」が開校いたします。
子供も大人も学べる、みんなの学び舎です。
ご興味ある方は、桐原絢子先生、牧野慎之介先生まで。
--------------------------------------------------------------------------------
手書きの字は、絢子のものだった。
村の人々は、その貼り紙の前に立ち止まり、静かに頷き合った。
あの山の向こうから来た夫婦が、
今度はこの村で、“夢の根”を下ろそうとしている。
桐の花はまだ咲かない。
けれど、土の中では確かに、芽吹きの音がしていた。
(第二十七話 完)
かつて「何もない」と言われたこの山あいの小さな集落に、今ひとつの希望の灯がともろうとしていた。
桐原絢子と牧野慎之介。
町から来た新婚のふたりが、この村に“もうひとつの寺子屋”を開こうとしていた。
「……ここを、使ってくれて構いませんよ」
村の寄合所として使われていた古い土蔵を指しながら、千歳が言った。
「どうせ誰も使わなくなって久しいし、あなたたちが新しい風を入れてくれたら、蔵もきっと喜びます」
「ありがとうございます。けれど、補修には少し手がかかりそうですね」
慎之介が天井の梁を見上げながらつぶやいた。
「梁はしっかりしているけれど、床は半分抜けていますね。窓も全部、格子が外れてます」
「大工さんに頼めば数日はかかりますね。でも……やります」
絢子は迷いのない顔で言った。
「“夢”って、こういうところから始まると思うんです。埃っぽくて、古くて、でも、希望が入ってくる風がある。そんな場所から」
千歳は、目を細めて頷いた。
「絢子さん、あなたはやっぱり――“先生”だね」
* * *
そこからの日々は、泥だらけで、汗まみれで、そして笑いの絶えないものだった。
慎之介は役場へ“特別修繕費”の申請を出し、千歳は村の若者を募って蔵の掃除に取り掛かり、絢子は村の子供たちと一緒に教室のレイアウトを考えた。
「先生、ここに“読んだ本を貼る場所”がほしい!」
「じゃあ、こっちに“おやつコーナー”を作ろう!」
「おやつはまだ予算に入ってないわよ?」
笑い声が風に乗って、蔵の中にも、村の小道にも響いた。
そして、蔵の前には大きな桐の木があった。
春に咲くはずのその木は、今は葉を落とし、枝だけになっていたが、絢子はその木に、ある“約束”を込めることにした。
「この桐が咲く頃には、この場所が“本当の居場所”になっているようにしよう」
それは、ふたりが寺子屋の名前に“桐”を選んだ瞬間だった。
「桐の郷・寺子屋分校」――
そんな仮の名前が、徐々に人々の口に馴染んでいった。
* * *
作業が一段落したある日の夕暮れ。
絢子と慎之介は、蔵の縁に腰掛け、疲れた体を風に任せていた。
「……こんなに働く新婚夫婦って、いるかしら」
「そうですね。でも、あなたが笑っているなら、私はそれで幸せです」
「ずるいわ、その言い方。照れるじゃない」
「絢子さん」
「……はい?」
「本当に、ここで良かったですか?」
絢子は少し黙って、遠くの山を見た。
夕陽が、金色に照らしていた。
「――はい。わたし、こんなふうに風が吹いてくる場所で、
あなたと子供たちと、新しい世界を育てたかったんです」
慎之介は、その手をそっと握った。
「では、ここで“また新しい夢”を叶えましょう」
「え?」
「この村の寺子屋を、子供たちだけでなく、大人にも開放したい。
読み書きを諦めた人たちのために、“夜の教室”を開きたいんです」
絢子は、驚いた顔をして、それから少しずつ笑顔を見せた。
「……素敵ですね、夜の教室。
お月さまの下で字を学ぶなんて、なんだか詩みたい」
「あなたにそう言ってもらえるなら、きっと成功します」
ふたりは笑い合いながら、その夜、村の簡素な民家で眠った。
そして、月明かりの下。
風に揺れる桐の木が、まるでふたりを見守っているかのように枝を震わせていた。
* * *
それから数日後、村の広報板に手書きの張り紙が貼られた。
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【おしらせ】
来る弥生の頃(春先)、下紺野村に「桐の郷寺子屋 分校」が開校いたします。
子供も大人も学べる、みんなの学び舎です。
ご興味ある方は、桐原絢子先生、牧野慎之介先生まで。
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手書きの字は、絢子のものだった。
村の人々は、その貼り紙の前に立ち止まり、静かに頷き合った。
あの山の向こうから来た夫婦が、
今度はこの村で、“夢の根”を下ろそうとしている。
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けれど、土の中では確かに、芽吹きの音がしていた。
(第二十七話 完)
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