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第10話:手術は終わっていない
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――処置は、まだ終わっていない。
その言葉が、病院中の空気に染みついていた。
呼吸のひとつひとつ、壁を撫でる風の流れ、足元に滲む染み……
全てがそう言っていた。
莉央の両手には、まだ赤黒い痕跡が残っていた。
左手の甲には、注射針が刺さったような痕。
右手の手首には、輪状の圧迫痕――拘束ベルトに締められていたかのような形。
「……思い出したわけじゃない。覚えてたわけでもない。
ただ、“知っていた”。この病院が私を知っていた。私の身体が、覚えてた……」
莉央の目は虚ろだった。
まるで“過去”という抽象的な概念に、自我ごと取り込まれたような面持ちだった。
久賀が静かに口を開いた。
「記録を確認しよう。残っている断片があるかもしれない。
手術記録室には焼け残りの書類があった。さっきは時間がなくてすべて読めなかったが、今なら……」
「だめよ」
莉央が声を上げた。
「記録は“開かせるために”残されている。
私たちに“再び見せるため”に作り変えられてるの。あれは過去じゃない。“今”進行してる記録なのよ……!」
俺たちは一瞬、ためらった。
だが――行かなくてはならなかった。
“今、何が行われているのか”を知るために。
記録室に向かう途中、廊下の壁にある案内図が、以前とは違っていた。
以前は「1F:外来診察室」「2F:病棟」と書かれていた場所に、今はこう書かれている。
「現在の患者:3名」
「処置中:1名」
「記録中:進行中」
俺たち自身が、“記録の中に組み込まれている”という事実が、否応なく突きつけられていた。
記録室のドアは開いていた。
中は先ほどと同じく焦げ臭く、書類の山が崩れている。
だがひとつだけ、異常なものがあった。
中央のテーブルの上に、整然と並べられた「新しい記録ファイル」。
表紙にはこう書かれていた。
---
【症例番号:38-A】
氏名:白石透真
年齢:21歳
診断:認知分裂型記憶障害
手術状態:未処置/準備中
【症例番号:38-B】
氏名:三好莉央
年齢:20歳
診断:身体記憶侵襲症候群
手術状態:進行中
【症例番号:38-C】
氏名:久賀大地
年齢:21歳
診断:知覚逆流性認識障害
手術状態:待機中】
---
「……これ、どういうことだ……」
俺は自分の名前を見つけ、足元が崩れるような感覚を覚えた。
“未処置”
“準備中”
つまり、これから俺は“処置される側”だということ。
ファイルのページをめくると、次の記述が目に入った。
---
【備考】
対象透真は、症例38の起点個体である可能性がある。
記録の歪曲を発生させる“観察者的認識体”としての性質を有し、記録媒体への影響が報告されている。
処置に関しては慎重を要する。
記録保持が失敗した場合、病院構造に逆侵蝕のリスクあり。
---
「……観察者的認識体?」
久賀が声をひそめる。
「つまり透真、お前はこの“記録世界”において、病院のルールすら“書き換える可能性のある存在”ってことだ。
逆に言えば、お前が処置されたら、この空間は完全に閉じられる。外から“記録の干渉”が起きなくなる」
「……じゃあ、俺がこのまま“記録されてしまえば”……もう二度と、誰もここから出られなくなるってことか?」
「可能性は高い。お前の存在が、外界との“ゆらぎ”になってる。
でもそれは、逆に言えば――お前が何かを“壊せる側”だってことでもある」
その時、記録室の蛍光灯がパッ、と一瞬だけ明滅した。
次の瞬間、壁に設置されていた“記録映写モニター”が自動的に起動した。
映像が映し出された。
それは――手術室。
赤い手術台の上、誰かが横たわっている。
視点は天井から、患者を見下ろしている固定カメラのもの。
画面の下に、テロップが流れる。
「症例38-B:処置進行中」
莉央だった。
「うそ……私、ここにいるのに……」
莉央が映像を見つめながら震える。
その莉央は、手術台の上で拘束され、白い布をかけられていた。
腕にはチューブが刺さり、目は開いていない。
けれど、映像の中の莉央の唇が、わずかに動いていた。
「……たす……けて……」
莉央が悲鳴を上げて倒れ込む。
その背中から――うっすらと“煙のような”自分自身が抜けかけていた。
「ダメだ……!記録に引きずられる!!」
俺は莉央を抱き寄せ、久賀が慌てて記録ファイルを閉じた。
その瞬間、モニターの映像がブラックアウトする。
ファイルを開くこと、それは“扉を開けること”と同じだったのだ。
「処置は終わっていない」
「記録が続く限り、患者は終わらない」
「終わらない手術は、やがて“存在そのもの”を変えていく」
まるで呪文のように、どこからともなく声が響いていた。
耳鳴りのような低い声。
そしてそれは、確かに**“俺の声”でもあった。**
記録は、過去を保存するものじゃない。
この病院において、**記録とは、“未来を上書きするプログラム”**だった。
名前を書かれた瞬間、運命が決まる。
記録された瞬間、実在が始まる。
手術とは、名前の書き換え。記録の上書き。存在の更新。
そして今――その次に名前を書かれるのは、俺だった。
目の前のファイルに、ペンが添えられている。
病院の意志が、俺に自分の名前を“書かせよう”としていた。
「透真さん。記録の続きを、書いてください」
看護師の声が、頭の中に直接響いた。
その言葉が、病院中の空気に染みついていた。
呼吸のひとつひとつ、壁を撫でる風の流れ、足元に滲む染み……
全てがそう言っていた。
莉央の両手には、まだ赤黒い痕跡が残っていた。
左手の甲には、注射針が刺さったような痕。
右手の手首には、輪状の圧迫痕――拘束ベルトに締められていたかのような形。
「……思い出したわけじゃない。覚えてたわけでもない。
ただ、“知っていた”。この病院が私を知っていた。私の身体が、覚えてた……」
莉央の目は虚ろだった。
まるで“過去”という抽象的な概念に、自我ごと取り込まれたような面持ちだった。
久賀が静かに口を開いた。
「記録を確認しよう。残っている断片があるかもしれない。
手術記録室には焼け残りの書類があった。さっきは時間がなくてすべて読めなかったが、今なら……」
「だめよ」
莉央が声を上げた。
「記録は“開かせるために”残されている。
私たちに“再び見せるため”に作り変えられてるの。あれは過去じゃない。“今”進行してる記録なのよ……!」
俺たちは一瞬、ためらった。
だが――行かなくてはならなかった。
“今、何が行われているのか”を知るために。
記録室に向かう途中、廊下の壁にある案内図が、以前とは違っていた。
以前は「1F:外来診察室」「2F:病棟」と書かれていた場所に、今はこう書かれている。
「現在の患者:3名」
「処置中:1名」
「記録中:進行中」
俺たち自身が、“記録の中に組み込まれている”という事実が、否応なく突きつけられていた。
記録室のドアは開いていた。
中は先ほどと同じく焦げ臭く、書類の山が崩れている。
だがひとつだけ、異常なものがあった。
中央のテーブルの上に、整然と並べられた「新しい記録ファイル」。
表紙にはこう書かれていた。
---
【症例番号:38-A】
氏名:白石透真
年齢:21歳
診断:認知分裂型記憶障害
手術状態:未処置/準備中
【症例番号:38-B】
氏名:三好莉央
年齢:20歳
診断:身体記憶侵襲症候群
手術状態:進行中
【症例番号:38-C】
氏名:久賀大地
年齢:21歳
診断:知覚逆流性認識障害
手術状態:待機中】
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「……これ、どういうことだ……」
俺は自分の名前を見つけ、足元が崩れるような感覚を覚えた。
“未処置”
“準備中”
つまり、これから俺は“処置される側”だということ。
ファイルのページをめくると、次の記述が目に入った。
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【備考】
対象透真は、症例38の起点個体である可能性がある。
記録の歪曲を発生させる“観察者的認識体”としての性質を有し、記録媒体への影響が報告されている。
処置に関しては慎重を要する。
記録保持が失敗した場合、病院構造に逆侵蝕のリスクあり。
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「……観察者的認識体?」
久賀が声をひそめる。
「つまり透真、お前はこの“記録世界”において、病院のルールすら“書き換える可能性のある存在”ってことだ。
逆に言えば、お前が処置されたら、この空間は完全に閉じられる。外から“記録の干渉”が起きなくなる」
「……じゃあ、俺がこのまま“記録されてしまえば”……もう二度と、誰もここから出られなくなるってことか?」
「可能性は高い。お前の存在が、外界との“ゆらぎ”になってる。
でもそれは、逆に言えば――お前が何かを“壊せる側”だってことでもある」
その時、記録室の蛍光灯がパッ、と一瞬だけ明滅した。
次の瞬間、壁に設置されていた“記録映写モニター”が自動的に起動した。
映像が映し出された。
それは――手術室。
赤い手術台の上、誰かが横たわっている。
視点は天井から、患者を見下ろしている固定カメラのもの。
画面の下に、テロップが流れる。
「症例38-B:処置進行中」
莉央だった。
「うそ……私、ここにいるのに……」
莉央が映像を見つめながら震える。
その莉央は、手術台の上で拘束され、白い布をかけられていた。
腕にはチューブが刺さり、目は開いていない。
けれど、映像の中の莉央の唇が、わずかに動いていた。
「……たす……けて……」
莉央が悲鳴を上げて倒れ込む。
その背中から――うっすらと“煙のような”自分自身が抜けかけていた。
「ダメだ……!記録に引きずられる!!」
俺は莉央を抱き寄せ、久賀が慌てて記録ファイルを閉じた。
その瞬間、モニターの映像がブラックアウトする。
ファイルを開くこと、それは“扉を開けること”と同じだったのだ。
「処置は終わっていない」
「記録が続く限り、患者は終わらない」
「終わらない手術は、やがて“存在そのもの”を変えていく」
まるで呪文のように、どこからともなく声が響いていた。
耳鳴りのような低い声。
そしてそれは、確かに**“俺の声”でもあった。**
記録は、過去を保存するものじゃない。
この病院において、**記録とは、“未来を上書きするプログラム”**だった。
名前を書かれた瞬間、運命が決まる。
記録された瞬間、実在が始まる。
手術とは、名前の書き換え。記録の上書き。存在の更新。
そして今――その次に名前を書かれるのは、俺だった。
目の前のファイルに、ペンが添えられている。
病院の意志が、俺に自分の名前を“書かせよう”としていた。
「透真さん。記録の続きを、書いてください」
看護師の声が、頭の中に直接響いた。
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