14 / 16
14)終電と片道切符
しおりを挟む
1.終電間近の地下鉄ホームに、アナウンスがかすれたように響く。
「まもなく、〇〇行き、終電がまいります──」
芽衣(めい)は小さくため息をつき、手にしたスマートフォンを見つめた。画面には、グループLINEの通知が十件以上並んでいる。全部、今日の飲み会のやりとりだ。
(…どうして、ああいう時に限って断れないんだろ)
上司の悪ノリも、同僚の空気も、全部うまく受け流してきたつもりだった。でも、終電まで逃す寸前になるとは思っていなかった。
プラットフォームの端には数人の客がぽつりぽつりと立っていた。仕事帰りのサラリーマン、若いカップル、そして──一人、ホームの柱に背を預けて、じっと電車の来る方向を見つめている青年がいた。
20代半ばくらいだろうか。黒いフード付きのコート、足元はスニーカー。手には古びた切符。
それが珍しかった。今時、紙の切符なんて。
電車が滑り込むようにホームに入り、静かに停まる。芽衣は乗り込むと、ドア近くの隅に立った。しばらくして、さっきの青年がゆっくりと乗ってきて、彼女の隣に立った。
2.終点まで、あと十数駅。車内はがらがらで、座ろうと思えばいくらでも座れるのに、彼は立ったままだった。電車が動き出すと、ふいに彼の手から切符が落ちた。
「……あ」
とっさに芽衣が拾って手渡すと、彼は少し驚いた顔で言った。
「ありがとうございます」
「珍しいですね、切符なんて」
そう言った自分に驚いた。普段、見知らぬ人に話しかけるような性格ではないのに。
「ええ、まあ。片道だけの、記念切符なんです」
「記念?」
「……うまく説明できないけど、今日で、ここを出るので。最後にこれを使ってみたくなって」
その声には、どこか遠くを見るような響きがあった。
芽衣は何も返せず、ただ「そうなんですか」とだけ言った。
それきり、車内には再び静寂が戻った。
3.終電という空気のせいか、ひとつひとつの駅を過ぎるたびに、時がふわふわと溶けていくようだった。
芽衣は小さく肩をすくめた。窓の外には、自動販売機の光と、誰もいないホームだけが流れていく。
ふと、隣の青年がポケットから何かを取り出した。細長い紙片。それは、手紙だった。
「手紙なんて、時代遅れですかね」
「いえ……素敵だと思います。誰かに渡すんですか?」
彼は小さく笑った。
「本当は渡せたらよかった。でも、これはきっと……捨てられると思う」
「じゃあ、渡さないんですか?」
「いいんです。気持ちを書いた時点で、僕の中では終わってる。…初恋って、そういうものでしょ?」
芽衣は言葉をなくした。
“初恋”──その響きが、なぜか胸の奥に静かに染み込んでいく。
4.「終点、〇〇です。〇番線へのお乗り換えは──」
車内に流れるアナウンスが、彼女の思考をかき消した。ふと気づけば、もう終点だった。
芽衣が降りようとすると、青年も一緒に動いた。
出口の階段の前で、彼はふと立ち止まり、振り返った。
「お姉さん」
「……はい?」
「名乗れないけど、話せてよかったです。今日、誰にも話すつもりなかったんで」
芽衣は口元をゆるめた。
「こちらこそ。…あの、わたし芽衣って言います」
彼は驚いたように目を見開いた。ほんの少しの沈黙のあと──
「いい名前ですね」
それだけを残して、彼は切符を自動改札に差し込んで出ていった。
紙切れは、小さく吸い込まれ、二度と戻ってこなかった。
5.その夜、芽衣は家に帰ってから、ひとりで机に向かった。
メイクも落とさず、スマホも見ないまま、ノートの1ページを開いた。
(名前、聞けばよかったな)
そう思いながら、鉛筆を握る。ふと、さっきの彼の言葉が蘇る。
──“初恋って、そういうものでしょ?”
でも、それだけでは終わらせたくなかった。
名前も知らない誰かとの、終電の小さな記憶。
それを、彼女はこう書いた。
「今日、わたしは誰かの“初恋”の話を聞いた。
そして気づいた。
私の“初恋”は、きっと、まだ始まっていなかったんだって。」
「まもなく、〇〇行き、終電がまいります──」
芽衣(めい)は小さくため息をつき、手にしたスマートフォンを見つめた。画面には、グループLINEの通知が十件以上並んでいる。全部、今日の飲み会のやりとりだ。
(…どうして、ああいう時に限って断れないんだろ)
上司の悪ノリも、同僚の空気も、全部うまく受け流してきたつもりだった。でも、終電まで逃す寸前になるとは思っていなかった。
プラットフォームの端には数人の客がぽつりぽつりと立っていた。仕事帰りのサラリーマン、若いカップル、そして──一人、ホームの柱に背を預けて、じっと電車の来る方向を見つめている青年がいた。
20代半ばくらいだろうか。黒いフード付きのコート、足元はスニーカー。手には古びた切符。
それが珍しかった。今時、紙の切符なんて。
電車が滑り込むようにホームに入り、静かに停まる。芽衣は乗り込むと、ドア近くの隅に立った。しばらくして、さっきの青年がゆっくりと乗ってきて、彼女の隣に立った。
2.終点まで、あと十数駅。車内はがらがらで、座ろうと思えばいくらでも座れるのに、彼は立ったままだった。電車が動き出すと、ふいに彼の手から切符が落ちた。
「……あ」
とっさに芽衣が拾って手渡すと、彼は少し驚いた顔で言った。
「ありがとうございます」
「珍しいですね、切符なんて」
そう言った自分に驚いた。普段、見知らぬ人に話しかけるような性格ではないのに。
「ええ、まあ。片道だけの、記念切符なんです」
「記念?」
「……うまく説明できないけど、今日で、ここを出るので。最後にこれを使ってみたくなって」
その声には、どこか遠くを見るような響きがあった。
芽衣は何も返せず、ただ「そうなんですか」とだけ言った。
それきり、車内には再び静寂が戻った。
3.終電という空気のせいか、ひとつひとつの駅を過ぎるたびに、時がふわふわと溶けていくようだった。
芽衣は小さく肩をすくめた。窓の外には、自動販売機の光と、誰もいないホームだけが流れていく。
ふと、隣の青年がポケットから何かを取り出した。細長い紙片。それは、手紙だった。
「手紙なんて、時代遅れですかね」
「いえ……素敵だと思います。誰かに渡すんですか?」
彼は小さく笑った。
「本当は渡せたらよかった。でも、これはきっと……捨てられると思う」
「じゃあ、渡さないんですか?」
「いいんです。気持ちを書いた時点で、僕の中では終わってる。…初恋って、そういうものでしょ?」
芽衣は言葉をなくした。
“初恋”──その響きが、なぜか胸の奥に静かに染み込んでいく。
4.「終点、〇〇です。〇番線へのお乗り換えは──」
車内に流れるアナウンスが、彼女の思考をかき消した。ふと気づけば、もう終点だった。
芽衣が降りようとすると、青年も一緒に動いた。
出口の階段の前で、彼はふと立ち止まり、振り返った。
「お姉さん」
「……はい?」
「名乗れないけど、話せてよかったです。今日、誰にも話すつもりなかったんで」
芽衣は口元をゆるめた。
「こちらこそ。…あの、わたし芽衣って言います」
彼は驚いたように目を見開いた。ほんの少しの沈黙のあと──
「いい名前ですね」
それだけを残して、彼は切符を自動改札に差し込んで出ていった。
紙切れは、小さく吸い込まれ、二度と戻ってこなかった。
5.その夜、芽衣は家に帰ってから、ひとりで机に向かった。
メイクも落とさず、スマホも見ないまま、ノートの1ページを開いた。
(名前、聞けばよかったな)
そう思いながら、鉛筆を握る。ふと、さっきの彼の言葉が蘇る。
──“初恋って、そういうものでしょ?”
でも、それだけでは終わらせたくなかった。
名前も知らない誰かとの、終電の小さな記憶。
それを、彼女はこう書いた。
「今日、わたしは誰かの“初恋”の話を聞いた。
そして気づいた。
私の“初恋”は、きっと、まだ始まっていなかったんだって。」
0
あなたにおすすめの小説
【完結】恋の終焉~愛しさあまって憎さ1000倍~
つくも茄子
恋愛
五大侯爵家、ミネルヴァ・リゼ・ウォーカー侯爵令嬢は第二王子の婚約者候補。それと同時に、義兄とも婚約者候補の仲という複雑な環境に身を置いていた。
それも第二王子が恋に狂い「伯爵令嬢(恋人)を妻(正妃)に迎えたい」と言い出したせいで。
第二王子が恋を諦めるのが早いか。それとも臣籍降下するのが早いか。とにかく、選ばれた王子の婚約者候補の令嬢達にすれば迷惑極まりないものだった。
ミネルヴァは初恋の相手である義兄と結婚する事を夢見ていたというに、突然の王家からの横やりに怒り心頭。それでも臣下としてグッと堪えた。
そんな中での義兄の裏切り。
愛する女性がいる?
その相手と結婚したい?
何を仰っているのでしょうか?
混乱するミネルヴァを置き去りに義兄はどんどん話を続ける。
「お義兄様、あなたは婿入りのための養子縁組ですよ」と言いたいのをグッと堪えたミネルヴァであった。義兄を許す?許さない?答えは一つ。
ため息ひとつ――王宮に散る花びらのように
柴田はつみ
恋愛
「離縁を、お願いしたいのです」
笑顔で、震えずに、エレナはそう言った。
夫は言葉を失った。泣いてくれれば、怒ってくれれば、まだ受け止め方があった。しかしあの静けさは、エレナがもう十分に泣き終わった後の顔だと、ヴィクトルにはわかった。
幼なじみと結ばれた三年間。すれ違いは静かに始まり、深紅のドレスの令嬢によって加速した。ため息を飲み込み、完璧な微笑みを保ち続けた公爵夫人が、最後に選んだのは――。
王宮に散る花びらのような、夫婦の崩壊と再生の物語。
【完結】ジュリアはバツイチ人生を謳歌する
ariya
恋愛
エレン王国の名門貴族・アグリア伯爵家に嫁いだジュリア・アグリア(旧姓ベルティー)。
夫のアベル・アグリア伯爵は、騎士として王妃の護衛任務に没頭し、結婚翌日からほぼ別居状態。
社交界のパーティーでは妻のエスコートを代理人に任せ、父の葬儀にも顔を出さず、事務的な会話と手紙のやり取りだけの日々が続く。
ジュリアは8年間の冷遇に耐え抜いたが、ある朝の食事中、静かに切り出す。
「私たち、離婚しましょう」
アベルは絶句するが、ジュリアは淡々と不満を告げる。
どれも自分のしでかしたことにアベルは頭を抱える。
彼女はすでに離婚届と慰謝料の用意を済ませ、夫の仕事に理解を示さなかった「有責妻」として後腐れなく別れるつもりだった。
アベルは内心で反発しつつも、ジュリアの決意の固さに渋々サイン。
こうしてジュリア・アグリアは、伯爵夫人としての全てを置き去りにし、バツイチ人生を開始する。
すべてはあなたの為だった~狂愛~
矢野りと
恋愛
膨大な魔力を有する魔術師アレクサンダーは政略結婚で娶った妻をいつしか愛するようになっていた。だが三年経っても子に恵まれない夫妻に周りは離縁するようにと圧力を掛けてくる。
愛しているのは君だけ…。
大切なのも君だけ…。
『何があってもどんなことをしても君だけは離さない』
※設定はゆるいです。
※お話が合わないときは、そっと閉じてくださいませ。
繰り返す夜と嘘 〜【実録】既婚の僕と後輩の彼女、あの夜のキスから始まった13年の秘密〜
まさき
恋愛
結婚して半年の僕と、同じ職場の彼女。
出会った頃は、ただの先輩と新入社員だった。
互いに意識しながらも、
数年間、距離を保ち続けた。
ただ見つめるだけの関係。
けれど――
ある夏の夜。
納涼会の帰り道。
僕が彼女の手を握った瞬間、
すべてが変わった。
これは恋でも、友情でもない。
けれど理性では止められない、
名前のない関係。
13年続いた秘密。
誓約書。
そして、5年の沈黙。
これは――
実際にあった「夜」の記録。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる