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14)終電と片道切符
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1.終電間近の地下鉄ホームに、アナウンスがかすれたように響く。
「まもなく、〇〇行き、終電がまいります──」
芽衣(めい)は小さくため息をつき、手にしたスマートフォンを見つめた。画面には、グループLINEの通知が十件以上並んでいる。全部、今日の飲み会のやりとりだ。
(…どうして、ああいう時に限って断れないんだろ)
上司の悪ノリも、同僚の空気も、全部うまく受け流してきたつもりだった。でも、終電まで逃す寸前になるとは思っていなかった。
プラットフォームの端には数人の客がぽつりぽつりと立っていた。仕事帰りのサラリーマン、若いカップル、そして──一人、ホームの柱に背を預けて、じっと電車の来る方向を見つめている青年がいた。
20代半ばくらいだろうか。黒いフード付きのコート、足元はスニーカー。手には古びた切符。
それが珍しかった。今時、紙の切符なんて。
電車が滑り込むようにホームに入り、静かに停まる。芽衣は乗り込むと、ドア近くの隅に立った。しばらくして、さっきの青年がゆっくりと乗ってきて、彼女の隣に立った。
2.終点まで、あと十数駅。車内はがらがらで、座ろうと思えばいくらでも座れるのに、彼は立ったままだった。電車が動き出すと、ふいに彼の手から切符が落ちた。
「……あ」
とっさに芽衣が拾って手渡すと、彼は少し驚いた顔で言った。
「ありがとうございます」
「珍しいですね、切符なんて」
そう言った自分に驚いた。普段、見知らぬ人に話しかけるような性格ではないのに。
「ええ、まあ。片道だけの、記念切符なんです」
「記念?」
「……うまく説明できないけど、今日で、ここを出るので。最後にこれを使ってみたくなって」
その声には、どこか遠くを見るような響きがあった。
芽衣は何も返せず、ただ「そうなんですか」とだけ言った。
それきり、車内には再び静寂が戻った。
3.終電という空気のせいか、ひとつひとつの駅を過ぎるたびに、時がふわふわと溶けていくようだった。
芽衣は小さく肩をすくめた。窓の外には、自動販売機の光と、誰もいないホームだけが流れていく。
ふと、隣の青年がポケットから何かを取り出した。細長い紙片。それは、手紙だった。
「手紙なんて、時代遅れですかね」
「いえ……素敵だと思います。誰かに渡すんですか?」
彼は小さく笑った。
「本当は渡せたらよかった。でも、これはきっと……捨てられると思う」
「じゃあ、渡さないんですか?」
「いいんです。気持ちを書いた時点で、僕の中では終わってる。…初恋って、そういうものでしょ?」
芽衣は言葉をなくした。
“初恋”──その響きが、なぜか胸の奥に静かに染み込んでいく。
4.「終点、〇〇です。〇番線へのお乗り換えは──」
車内に流れるアナウンスが、彼女の思考をかき消した。ふと気づけば、もう終点だった。
芽衣が降りようとすると、青年も一緒に動いた。
出口の階段の前で、彼はふと立ち止まり、振り返った。
「お姉さん」
「……はい?」
「名乗れないけど、話せてよかったです。今日、誰にも話すつもりなかったんで」
芽衣は口元をゆるめた。
「こちらこそ。…あの、わたし芽衣って言います」
彼は驚いたように目を見開いた。ほんの少しの沈黙のあと──
「いい名前ですね」
それだけを残して、彼は切符を自動改札に差し込んで出ていった。
紙切れは、小さく吸い込まれ、二度と戻ってこなかった。
5.その夜、芽衣は家に帰ってから、ひとりで机に向かった。
メイクも落とさず、スマホも見ないまま、ノートの1ページを開いた。
(名前、聞けばよかったな)
そう思いながら、鉛筆を握る。ふと、さっきの彼の言葉が蘇る。
──“初恋って、そういうものでしょ?”
でも、それだけでは終わらせたくなかった。
名前も知らない誰かとの、終電の小さな記憶。
それを、彼女はこう書いた。
「今日、わたしは誰かの“初恋”の話を聞いた。
そして気づいた。
私の“初恋”は、きっと、まだ始まっていなかったんだって。」
「まもなく、〇〇行き、終電がまいります──」
芽衣(めい)は小さくため息をつき、手にしたスマートフォンを見つめた。画面には、グループLINEの通知が十件以上並んでいる。全部、今日の飲み会のやりとりだ。
(…どうして、ああいう時に限って断れないんだろ)
上司の悪ノリも、同僚の空気も、全部うまく受け流してきたつもりだった。でも、終電まで逃す寸前になるとは思っていなかった。
プラットフォームの端には数人の客がぽつりぽつりと立っていた。仕事帰りのサラリーマン、若いカップル、そして──一人、ホームの柱に背を預けて、じっと電車の来る方向を見つめている青年がいた。
20代半ばくらいだろうか。黒いフード付きのコート、足元はスニーカー。手には古びた切符。
それが珍しかった。今時、紙の切符なんて。
電車が滑り込むようにホームに入り、静かに停まる。芽衣は乗り込むと、ドア近くの隅に立った。しばらくして、さっきの青年がゆっくりと乗ってきて、彼女の隣に立った。
2.終点まで、あと十数駅。車内はがらがらで、座ろうと思えばいくらでも座れるのに、彼は立ったままだった。電車が動き出すと、ふいに彼の手から切符が落ちた。
「……あ」
とっさに芽衣が拾って手渡すと、彼は少し驚いた顔で言った。
「ありがとうございます」
「珍しいですね、切符なんて」
そう言った自分に驚いた。普段、見知らぬ人に話しかけるような性格ではないのに。
「ええ、まあ。片道だけの、記念切符なんです」
「記念?」
「……うまく説明できないけど、今日で、ここを出るので。最後にこれを使ってみたくなって」
その声には、どこか遠くを見るような響きがあった。
芽衣は何も返せず、ただ「そうなんですか」とだけ言った。
それきり、車内には再び静寂が戻った。
3.終電という空気のせいか、ひとつひとつの駅を過ぎるたびに、時がふわふわと溶けていくようだった。
芽衣は小さく肩をすくめた。窓の外には、自動販売機の光と、誰もいないホームだけが流れていく。
ふと、隣の青年がポケットから何かを取り出した。細長い紙片。それは、手紙だった。
「手紙なんて、時代遅れですかね」
「いえ……素敵だと思います。誰かに渡すんですか?」
彼は小さく笑った。
「本当は渡せたらよかった。でも、これはきっと……捨てられると思う」
「じゃあ、渡さないんですか?」
「いいんです。気持ちを書いた時点で、僕の中では終わってる。…初恋って、そういうものでしょ?」
芽衣は言葉をなくした。
“初恋”──その響きが、なぜか胸の奥に静かに染み込んでいく。
4.「終点、〇〇です。〇番線へのお乗り換えは──」
車内に流れるアナウンスが、彼女の思考をかき消した。ふと気づけば、もう終点だった。
芽衣が降りようとすると、青年も一緒に動いた。
出口の階段の前で、彼はふと立ち止まり、振り返った。
「お姉さん」
「……はい?」
「名乗れないけど、話せてよかったです。今日、誰にも話すつもりなかったんで」
芽衣は口元をゆるめた。
「こちらこそ。…あの、わたし芽衣って言います」
彼は驚いたように目を見開いた。ほんの少しの沈黙のあと──
「いい名前ですね」
それだけを残して、彼は切符を自動改札に差し込んで出ていった。
紙切れは、小さく吸い込まれ、二度と戻ってこなかった。
5.その夜、芽衣は家に帰ってから、ひとりで机に向かった。
メイクも落とさず、スマホも見ないまま、ノートの1ページを開いた。
(名前、聞けばよかったな)
そう思いながら、鉛筆を握る。ふと、さっきの彼の言葉が蘇る。
──“初恋って、そういうものでしょ?”
でも、それだけでは終わらせたくなかった。
名前も知らない誰かとの、終電の小さな記憶。
それを、彼女はこう書いた。
「今日、わたしは誰かの“初恋”の話を聞いた。
そして気づいた。
私の“初恋”は、きっと、まだ始まっていなかったんだって。」
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