ベア・キングダム

naomikoryo

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第二部:「混沌の調停者」

第5話「血の川の前で」

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夜が明ける前から、森はざわついていた。
鳥の鳴き声はなく、風は重く湿っている。
北からは低く響く咆哮、南からは鎧と槍の音──ふたつの軍勢が、同じ一点へ向かっていた。

その地点は、森の中央を横切る大河。
普段は静かに流れるその川も、今は赤黒い朝焼けを映し、戦場になることを予感させていた。



リリは必死に森を駆けていた。
昨日の夜から走り続け、足は泥にまみれ、息は苦しく、胸は焼けるようだった。
(間に合わなきゃ……! バルトに知らせなきゃ……!)

枝をかき分けるたびに、服に小さな裂け目が増えていく。
それでも止まらない。
バルトが知らずに戦いに巻き込まれれば、あの日と同じ悲劇になる──いや、それ以上の。



その頃、川の北岸。
黒旗を掲げた魔物軍が集結していた。
オーク、トロル、飛行魔物──そして、その中央に立つのは魔将ザルガス。
鎧の継ぎ目から覗く肌は硬い鱗のようで、眼光は鋼をも溶かす冷たさを帯びていた。

「川を渡る前に人間を叩き潰す。」
その声は低く、だが軍全体に響いた。

南岸には、人間軍が盾を並べ、弓兵が矢を番えている。
カロル・ヴァイスが先頭で馬にまたがり、鋭い声で命令を飛ばす。
「奴らが動いたら、一斉射撃だ!」

両軍の間には、わずか十数歩分の川幅しかない。
一陣の風が吹けば、戦いが始まる距離。



その時だった。
川の中央の浅瀬に、巨大な影が現れた。

バルトだった。
水しぶきを上げながら、ゆっくりと川を渡り、両軍の間に立つ。
濡れた毛皮が朝の光を反射し、体躯はまるで黒い壁のようにそびえていた。

(……やめろ。これ以上、森を血で汚すな。)

彼は言葉を発せず、ただ両軍に向かって咆哮を上げた。
その声は雷鳴のように空気を震わせ、兵士も魔物も一瞬動きを止めた。

だが──
矢羽の音が、静寂を破った。

誰の指示でもなかった。
人間側の一人の兵が、恐怖と焦りで矢を放ってしまったのだ。
同時に、魔物側の飛行兵が突撃し、川面を蹴って南岸へ向かった。

次の瞬間、戦場が動いた。



バルトは飛んできた矢を前脚で払い落とし、飛行魔物の進路に体当たりした。
水しぶきが舞い、二つの軍勢の先頭が一気に乱れる。
その混乱の中、ザルガスが吼えた。

「構うな! 川を越えろ!」

カロルも剣を掲げる。
「全軍、突撃!」

轟音のような掛け声と共に、両軍が川へなだれ込む。

バルトはそれを止めようと、目の前の兵士たちを押し返し、魔物の突進を阻む。
だが、あまりにも数が多すぎた。

視界の隅で、巨大な影が動いた。
グロムだった。
「バルト……!」
その声と共に、彼はバルトの前に立ち、迫る槍を受け止める。

鉄と石がぶつかる衝撃音。
しかし次の瞬間、魔物の刃がグロムの肩を裂いた。
石片が飛び散り、彼の巨体がわずかによろめく。

(……守らなきゃ。)

バルトの胸の奥で、熱いものが爆ぜた。



岸辺に辿り着いたリリは、凄惨な光景に息を呑んだ。
両軍が入り乱れ、川は赤く染まり始めている。
その中心で、バルトが濁流のような敵を押し返していた。

「バルト……!」

彼女の声は届かない。
だが、その視線だけは確かにバルトの背を追っていた。

(まだ……終わらせない。森を、守る。)
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