ベア・キングダム

naomikoryo

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第三部:「ベア・キングダム」

第2話「鉄と羽の使者」

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朝霧が薄くなり、日差しが葉の表に暖かく張り付いていく。
谷の縁では、露に濡れた草が足に絡み、踏まれた茎から青い香りが立ちのぼる。
バルトは広場の土に刻んだ印の周りを、ゆっくりとひと回りした。
昨夜、リリが紙に写し取った「掟」の骨組みが、土にも紙にも二重に存在している。

(線は細く。だが、折れない線に。)

フィンが戻ってきて、鼻を鳴らした。

「南の空に、鳥の影。……いや、鳥にしては大きすぎる。鉄の匂いも混じる。」

リリが顔を上げ、胸元の封筒を握り直す。

「また、使者……?」

風が裂ける音がした。
樹冠の向こうから現れた影は、翼を広げると三本の木の幅を覆った。
金褐色の羽毛と、しなやかな獣の胴。
鋭い鉤爪と鷲の首。
大気の筋を掴むように滑空し、谷の端でふわりと地に降りる。
グリフォンだった。
その背には軽装の騎乗具が据えられ、胸には《リューネ》の紋章を模した小さな旗が垂れている。

グリフォンは首を巡らせ、静かにバルトを見た。
琥珀色の瞳が揺れ、風の匂いと土の匂いを測る。

「……汝が、森の王か。」

その声は、風切り羽の擦れる音のように低く響いた。
バルトは近づき、鼻先で相手の肩をかすめるように挨拶した。

(語れる。空の者とも、語れる。)

翼の主は胸を張り、名を告げた。

「我は“フェンリュク”。空の階《かい》で巣を持つ者。人の使いとして来た。鉄の列が森の縁に立った。王に、上からの道の形を見せる役目だ。」

地上の茂みが割れ、鎧の擦過音が近づく。
陽に鈍く光る胸甲。
先日のカレドと同じ深緑の外套だが、こちらは実務向けに短く仕立てられ、各所に補強の鋲が見える。
四人。
槍と短弓。
列の中央に、見覚えのある顔がいた。
カレド・ファーレン。
その目は、一瞬フェンリュクとバルトを測り、次いでリリへと滑った。

「約束どおり、掟を見せてほしい。そして、こちらの案も示したい。鉄の車列《カラバン》の動き、天からの補助。
“鉄と羽”で、森を傷つけずに通す試みだ。」

フィンが皮肉に口端を上げる。

「鉄は土を砕き、羽は巣を荒らす。言葉は心地よいが、足跡は大きい。」

カレドは頷き、歩を緩めて広場の土に近づいた。
バルトが刻んだ楕円と点、外円と橋の印。
リリがしゃがみ込み、木の枝で印の意味を指し示す。

「ここが中心です。この点は水場。この細い橋が、通れる季節の道。雛の時期は封鎖、種子が飛ぶ日は速度を落とす。火は全面禁止、灰も持ち込まない。」

ミラが先に出て、紙束を開く。

「森の“時間割”……。通行の“間”を刻むのですね。」

カレドが顔を上げ、フェンリュクへ視線を投げた。

「上から見ると、森の混雑は風の流れのようにわかる。枝の密な帯、獣道の交差。空から誘導すれば、地上の列は細くまとまる。」

フェンリュクが喉を鳴らした。

「上は速い。だが、上の影は下の心を乱す。雛の耳は鋭い。」

バルトはグリフォンの目を見て、前脚で土を三度、軽く叩いた。

(空の者よ。お前の影を、薄くできるか。)

フェンリュクは首を傾げ、翼を少しだけ持ち上げて見せた。

「高く飛べば影は細い。雲の腹に沿えば、地上は気づかぬ。だが、合図は届かぬ。」

フィンが低く言う。

「なら、地で合図を拾う“風”が必要だ。俺が走る。木陰から木陰へ。」

リリが顔を上げ、紙に新たな記号を足した。

「“空の印”と“地の印”を対で置く。音ではなく、匂いと形で。……例えば、樹皮に樹脂を塗って、鼻で読める道しるべを。」

ミラが感嘆の息を漏らす。

「においの道標……。書ではなく、嗅覚の掟。人の官吏に教えるのは骨が折れますが、やってみましょう。」

カレドは短く手を挙げ、随員に合図した。

「試験運行を一度だけ、させてほしい。鉄は軽く。車輪幅は鹿道に重ねない。荷は半分。速度は人の歩みに合わせる。フェンリュクは雲腹を滑り、フィンは地で走る。王よ、あなたは“境界”に立っていてくれ。」

バルトは尾を静かに振り、土の橋の一つに前脚を置いた。

(来い。だが、試しは一度だけ。破れば、二度目はない。)

午後、森の縁に鉄の列が現れた。
とはいえ、よくある重い商隊ではない。
木製の箱を載せた低い荷台が連なり、軸は麻で巻かれ、車輪は樹脂で縁取られている。
馬は細身で、蹄に麻の靴を履かされていた。
人々の靴底にも布が巻かれ、無駄な金具の鳴りはしない。
列の先頭で、ミラが細い竿を持ち、その先に白い草紐を結び、低く掲げる。
フェンリュクが高空の薄雲を沿って滑り、揺れる草紐に影を重ねる。
フィンは地上で先行し、茂みの中の危うい芽吹きの帯を避けるよう、鼻で示し、短い吠えで合図を返す。
バルトは橋の起点に立ち、車輪が境界線に触れぬよう横幅を測る。

(線を押すな。線に甘えるな。線を尊べ。)

列は静かに森へ入った。
枝が擦れる音がわずかに鳴り、小鳥が一羽、低い位置から高い位置へと跳ね上がる。
バルトの耳がひく、と向いた。
巣。
この高さはまずい。
前脚で地面を叩き、リズムでフィンに知らせる。
フィンはすぐ竿を持つミラへ合図を投げ、ミラが列の速度をさらに落とす。
フェンリュクが一度高度を上げ、影を薄くする。
巣の中で小さな嘴がわずかに開き、再び眠りの深みに沈む。

(通れる。今は、通れる。)

谷の中腹、湿地を横切る手前で、予想外の匂いが突き立った。
焦げ。
粗末な脂と木片の、急いだ火の匂い。
フィンが瞬時に毛を立たせた。

「火だ。」

カレドが顔を上げ、顎で指示する。

「列は停止。消火へ。」

だが、バルトはすでに走っていた。
湿地の縁、背の低い灌木の陰。
そこに、手製の松明を持った二つの人影。
粗末な革衣。
腰には鋼の刃。
目は荒み、焦燥が皮膚に貼り付いている。

「早くやれ。森に線を通すんだ。先に印をつけた者が道を取る。」

隣の影が怯えながら問う。

「でも、使者たちが……」
「商会は“既成事実”を好む。火を走らせりゃ、森は割れる。あとは金でならすだけだ。」

バルトは彼らと列の間に割り込み、松明の前で立ち上がった。
影の男が狼狽えて後ずさる。
炎が揺れ、火の粉がバルトの胸毛に当たって消えた。
バルトは前脚を伸ばし、松明の根を掴むと、湿地の泥に無言で押し込んだ。
じゅう、と音がして煙が上がる。
もう一方の男が腰の刃に手をかけた。
フィンが低く吠え、ジャリクが影から飛び出して男の手首を押さえた。
ミラが素早く布を投げ、刃を包んで奪う。
カレドは後方の兵に短く命じた。

「拘束。火を使った者には鉄の手錠を。……名を問う前に、理由を問え。」

男は叫んだ。

「俺たちは仕事をしてるだけだ。森に道を通すのは決まってる。早い者勝ちだ。」

カレドは一歩近づき、低い声で言う。

「決まっていない。まだだ。今、まさに掟を作っている。」

男は鼻で笑った。

「掟?獣の掟か。紙に書かれた掟だけが掟だ。」

リリが一歩進み、男の前に紙を掲げた。
その紙には、土の印と同じ線が、震えつつも確かに記されている。

「これが、掟です。あなたも読めるように書きます。でも、破れば、ここは燃えます。燃えれば、あなたの取る道も消える。」

男は目を逸らし、拘束されて引かれていった。
フェンリュクが高空からひと鳴きし、影を細くして戻ってくる。

「上も、下も、火は嫌う。火は腹を空にする。」

バルトは湿った泥に前脚を押しつけ、火の黒い跡に土をかけた。

(火は、境界を食う。境界が食われれば、秩序も食われる。)

試験の列は、日が傾く前に森を抜けた。
足跡は浅く、枝は折れていない。
巣は静かで、雛の心拍は落ち着いている。
谷に戻ると、フィンが草の上にごろんと身を投げ出した。

「……骨が折れたが、折れてよかった。“折れる”前に、わかることがあった。」

カレドは汗を拭い、フェンリュクの胸元を軽く叩いた。

「助かった。空と地の合奏は、可能だ。」

ミラは紙束に走り書きを加え、リリの紙と並べる。

「“空の影は薄く。地の合図は匂いで。車は軽く。足は遅く。火はなし。”
――最低限の条項として、これを。“森の間《ま》の掟”。」

ジャリクは腰を伸ばし、バルトを見た。

「お前の王のやり方は、吠えないのに、よく通る。……腹に落ちる。」

バルトは彼の視線を受け、谷の中心の点へ歩いた。
その上に立ち、短く息を吐く。
リリが小さく笑い、紙を胸に抱える。

「三十日を待たずに、一つ、道ができた。でも、一つ、火口も見えた。」

カケスが枝から鳴いた。

「火の匂いを持ってたの、南の市の商会の印だよ。腕輪に刻んでた。“金糸会”。」

カレドの目がわずかに細くなる。

「彼らは速い。掟ができる前に、掟を破る。それを“先手”と言う。」

フィンが鼻を鳴らす。

「なら、俺たちも先手を打つ。森の入口に、王の“目”を置け。人の見張りではない。梢と地表の、目と耳と鼻。」

ミラが頷き、地図を開く。

「見張り小屋ではなく、“見張り木”。登りやすく、隠れやすく、鳴きやすい木を選んで、印を結ぶ。」

フェンリュクが翼を畳み、胸を張る。

「空にも“止まり石”を作る。風の良い高さ、雷の走らぬ線。そこで我らは待ち、目で合図を受け、影で返す。」

バルトは土に短い印を四方へ散らし、中心から淡く線をのばした。

(目を増やす。耳を増やす。声は、薄く、しかし届くように。)

夕刻、使者たちは再び礼を尽くし、森の外へ帰る支度を整えた。
カレドは鞍をつけた馬の首を撫で、最後に振り返る。

「王よ。今日の試みは、私の顔に泥ではなく“土”を塗ってくれた。土の匂いは、交渉の席で強い。だが、火を持つ手は、すぐ次の木陰に潜む。我々も、あなた方も、目を閉じないことだ。」

リリは封書に追加の紙を挟み、差し出した。

「これは“森の間の掟”の案です。まだ不完全ですが、あなたの言葉の枠に入れました。……外の言葉にするのを、手伝ってください。」

ミラが受け取り、柔らかく笑った。

「翻訳は得意です。あなたの目の温度も、できるだけ一緒に運びます。」

フェンリュクは地を蹴り、重力から軽やかに離れた。
翼が一度、谷の空気を撫で、影は雲の下に溶けていく。
カレドたちは森の縁へ消えた。
残された静寂の中で、バルトは広場の印の上に身を伏せた。
胸に土の冷たさ、背に風のやわらかさ。

(今日の線は、守れた。明日の線は、まだ見えない。)

フィンが隣に腰を下ろし、尻尾で小さく土を払った。

「“金糸会”。火が好きな手だ。次はもっと大きく付けるだろう、火を。」

リリが顔を上げ、赤いリボンを結び直す。

「火は、消す。消せなければ、広がる前に遮る。掟に“火の前の掟”を入れよう。」

グロムが遠い岩塀の上で頷いた。

「水の溝。土の帯。石の床。火は腹が空けば、そこでは噛めない。」

バルトはゆっくりと立ち上がり、土に新しい線を一本引いた。
それは水の道と重なり、森の低いところを選んで蛇行する。

(火止めの帯。森の“喉”を守る襟。)

夜が落ちた。
星は多く、風は涼しく、梟は今日の戦いを影にして飲み込んだ。
バルトは谷を見渡し、胸の奥で静かに問う。

(同盟は、森を強くするか。弱くするか。どちらにせよ、選んだら、背負う。)

遠く、南の方角。
風がわずかに熱を含んだ。
焦げの匂いではない。
なにか、甘く、油の混ざった嫌な香り。
フィンが顔を上げる。

「嗅いだか。」

バルトは頷き、空を見た。
雲の腹がうっすら橙に撫でられている。

(火は、囁く。静かなうちに、近づいてくる。)

谷の端で、カケスが短く鳴いた。

「南の端。人の群れ。木を倒す音。……火種、持ってる。」

リリが紙を抱きしめ、唇を結ぶ。
「行かないと。」

バルトは、土の線をもう一度見た。
そして、前脚で土を強く押さえ、立ち上がった。

(橋は作った。次は、守る番だ。)

森の王は、静かに歩き出した。
夜の気配は冷たいが、南の風はじわりと熱を持っている。
“鉄”は音を潜めて忍び寄り、“羽”は影を薄くして見守る。
その狭間で、火だけが声を潜められずに、微かな舌打ちで森を誘っていた。

(次の線は、炎の縁に引く。折れない線を。)
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