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第三部:「ベア・キングダム」
第2話「鉄と羽の使者」
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朝霧が薄くなり、日差しが葉の表に暖かく張り付いていく。
谷の縁では、露に濡れた草が足に絡み、踏まれた茎から青い香りが立ちのぼる。
バルトは広場の土に刻んだ印の周りを、ゆっくりとひと回りした。
昨夜、リリが紙に写し取った「掟」の骨組みが、土にも紙にも二重に存在している。
(線は細く。だが、折れない線に。)
フィンが戻ってきて、鼻を鳴らした。
「南の空に、鳥の影。……いや、鳥にしては大きすぎる。鉄の匂いも混じる。」
リリが顔を上げ、胸元の封筒を握り直す。
「また、使者……?」
風が裂ける音がした。
樹冠の向こうから現れた影は、翼を広げると三本の木の幅を覆った。
金褐色の羽毛と、しなやかな獣の胴。
鋭い鉤爪と鷲の首。
大気の筋を掴むように滑空し、谷の端でふわりと地に降りる。
グリフォンだった。
その背には軽装の騎乗具が据えられ、胸には《リューネ》の紋章を模した小さな旗が垂れている。
グリフォンは首を巡らせ、静かにバルトを見た。
琥珀色の瞳が揺れ、風の匂いと土の匂いを測る。
「……汝が、森の王か。」
その声は、風切り羽の擦れる音のように低く響いた。
バルトは近づき、鼻先で相手の肩をかすめるように挨拶した。
(語れる。空の者とも、語れる。)
翼の主は胸を張り、名を告げた。
「我は“フェンリュク”。空の階《かい》で巣を持つ者。人の使いとして来た。鉄の列が森の縁に立った。王に、上からの道の形を見せる役目だ。」
地上の茂みが割れ、鎧の擦過音が近づく。
陽に鈍く光る胸甲。
先日のカレドと同じ深緑の外套だが、こちらは実務向けに短く仕立てられ、各所に補強の鋲が見える。
四人。
槍と短弓。
列の中央に、見覚えのある顔がいた。
カレド・ファーレン。
その目は、一瞬フェンリュクとバルトを測り、次いでリリへと滑った。
「約束どおり、掟を見せてほしい。そして、こちらの案も示したい。鉄の車列《カラバン》の動き、天からの補助。
“鉄と羽”で、森を傷つけずに通す試みだ。」
フィンが皮肉に口端を上げる。
「鉄は土を砕き、羽は巣を荒らす。言葉は心地よいが、足跡は大きい。」
カレドは頷き、歩を緩めて広場の土に近づいた。
バルトが刻んだ楕円と点、外円と橋の印。
リリがしゃがみ込み、木の枝で印の意味を指し示す。
「ここが中心です。この点は水場。この細い橋が、通れる季節の道。雛の時期は封鎖、種子が飛ぶ日は速度を落とす。火は全面禁止、灰も持ち込まない。」
ミラが先に出て、紙束を開く。
「森の“時間割”……。通行の“間”を刻むのですね。」
カレドが顔を上げ、フェンリュクへ視線を投げた。
「上から見ると、森の混雑は風の流れのようにわかる。枝の密な帯、獣道の交差。空から誘導すれば、地上の列は細くまとまる。」
フェンリュクが喉を鳴らした。
「上は速い。だが、上の影は下の心を乱す。雛の耳は鋭い。」
バルトはグリフォンの目を見て、前脚で土を三度、軽く叩いた。
(空の者よ。お前の影を、薄くできるか。)
フェンリュクは首を傾げ、翼を少しだけ持ち上げて見せた。
「高く飛べば影は細い。雲の腹に沿えば、地上は気づかぬ。だが、合図は届かぬ。」
フィンが低く言う。
「なら、地で合図を拾う“風”が必要だ。俺が走る。木陰から木陰へ。」
リリが顔を上げ、紙に新たな記号を足した。
「“空の印”と“地の印”を対で置く。音ではなく、匂いと形で。……例えば、樹皮に樹脂を塗って、鼻で読める道しるべを。」
ミラが感嘆の息を漏らす。
「においの道標……。書ではなく、嗅覚の掟。人の官吏に教えるのは骨が折れますが、やってみましょう。」
カレドは短く手を挙げ、随員に合図した。
「試験運行を一度だけ、させてほしい。鉄は軽く。車輪幅は鹿道に重ねない。荷は半分。速度は人の歩みに合わせる。フェンリュクは雲腹を滑り、フィンは地で走る。王よ、あなたは“境界”に立っていてくれ。」
バルトは尾を静かに振り、土の橋の一つに前脚を置いた。
(来い。だが、試しは一度だけ。破れば、二度目はない。)
午後、森の縁に鉄の列が現れた。
とはいえ、よくある重い商隊ではない。
木製の箱を載せた低い荷台が連なり、軸は麻で巻かれ、車輪は樹脂で縁取られている。
馬は細身で、蹄に麻の靴を履かされていた。
人々の靴底にも布が巻かれ、無駄な金具の鳴りはしない。
列の先頭で、ミラが細い竿を持ち、その先に白い草紐を結び、低く掲げる。
フェンリュクが高空の薄雲を沿って滑り、揺れる草紐に影を重ねる。
フィンは地上で先行し、茂みの中の危うい芽吹きの帯を避けるよう、鼻で示し、短い吠えで合図を返す。
バルトは橋の起点に立ち、車輪が境界線に触れぬよう横幅を測る。
(線を押すな。線に甘えるな。線を尊べ。)
列は静かに森へ入った。
枝が擦れる音がわずかに鳴り、小鳥が一羽、低い位置から高い位置へと跳ね上がる。
バルトの耳がひく、と向いた。
巣。
この高さはまずい。
前脚で地面を叩き、リズムでフィンに知らせる。
フィンはすぐ竿を持つミラへ合図を投げ、ミラが列の速度をさらに落とす。
フェンリュクが一度高度を上げ、影を薄くする。
巣の中で小さな嘴がわずかに開き、再び眠りの深みに沈む。
(通れる。今は、通れる。)
谷の中腹、湿地を横切る手前で、予想外の匂いが突き立った。
焦げ。
粗末な脂と木片の、急いだ火の匂い。
フィンが瞬時に毛を立たせた。
「火だ。」
カレドが顔を上げ、顎で指示する。
「列は停止。消火へ。」
だが、バルトはすでに走っていた。
湿地の縁、背の低い灌木の陰。
そこに、手製の松明を持った二つの人影。
粗末な革衣。
腰には鋼の刃。
目は荒み、焦燥が皮膚に貼り付いている。
「早くやれ。森に線を通すんだ。先に印をつけた者が道を取る。」
隣の影が怯えながら問う。
「でも、使者たちが……」
「商会は“既成事実”を好む。火を走らせりゃ、森は割れる。あとは金でならすだけだ。」
バルトは彼らと列の間に割り込み、松明の前で立ち上がった。
影の男が狼狽えて後ずさる。
炎が揺れ、火の粉がバルトの胸毛に当たって消えた。
バルトは前脚を伸ばし、松明の根を掴むと、湿地の泥に無言で押し込んだ。
じゅう、と音がして煙が上がる。
もう一方の男が腰の刃に手をかけた。
フィンが低く吠え、ジャリクが影から飛び出して男の手首を押さえた。
ミラが素早く布を投げ、刃を包んで奪う。
カレドは後方の兵に短く命じた。
「拘束。火を使った者には鉄の手錠を。……名を問う前に、理由を問え。」
男は叫んだ。
「俺たちは仕事をしてるだけだ。森に道を通すのは決まってる。早い者勝ちだ。」
カレドは一歩近づき、低い声で言う。
「決まっていない。まだだ。今、まさに掟を作っている。」
男は鼻で笑った。
「掟?獣の掟か。紙に書かれた掟だけが掟だ。」
リリが一歩進み、男の前に紙を掲げた。
その紙には、土の印と同じ線が、震えつつも確かに記されている。
「これが、掟です。あなたも読めるように書きます。でも、破れば、ここは燃えます。燃えれば、あなたの取る道も消える。」
男は目を逸らし、拘束されて引かれていった。
フェンリュクが高空からひと鳴きし、影を細くして戻ってくる。
「上も、下も、火は嫌う。火は腹を空にする。」
バルトは湿った泥に前脚を押しつけ、火の黒い跡に土をかけた。
(火は、境界を食う。境界が食われれば、秩序も食われる。)
試験の列は、日が傾く前に森を抜けた。
足跡は浅く、枝は折れていない。
巣は静かで、雛の心拍は落ち着いている。
谷に戻ると、フィンが草の上にごろんと身を投げ出した。
「……骨が折れたが、折れてよかった。“折れる”前に、わかることがあった。」
カレドは汗を拭い、フェンリュクの胸元を軽く叩いた。
「助かった。空と地の合奏は、可能だ。」
ミラは紙束に走り書きを加え、リリの紙と並べる。
「“空の影は薄く。地の合図は匂いで。車は軽く。足は遅く。火はなし。”
――最低限の条項として、これを。“森の間《ま》の掟”。」
ジャリクは腰を伸ばし、バルトを見た。
「お前の王のやり方は、吠えないのに、よく通る。……腹に落ちる。」
バルトは彼の視線を受け、谷の中心の点へ歩いた。
その上に立ち、短く息を吐く。
リリが小さく笑い、紙を胸に抱える。
「三十日を待たずに、一つ、道ができた。でも、一つ、火口も見えた。」
カケスが枝から鳴いた。
「火の匂いを持ってたの、南の市の商会の印だよ。腕輪に刻んでた。“金糸会”。」
カレドの目がわずかに細くなる。
「彼らは速い。掟ができる前に、掟を破る。それを“先手”と言う。」
フィンが鼻を鳴らす。
「なら、俺たちも先手を打つ。森の入口に、王の“目”を置け。人の見張りではない。梢と地表の、目と耳と鼻。」
ミラが頷き、地図を開く。
「見張り小屋ではなく、“見張り木”。登りやすく、隠れやすく、鳴きやすい木を選んで、印を結ぶ。」
フェンリュクが翼を畳み、胸を張る。
「空にも“止まり石”を作る。風の良い高さ、雷の走らぬ線。そこで我らは待ち、目で合図を受け、影で返す。」
バルトは土に短い印を四方へ散らし、中心から淡く線をのばした。
(目を増やす。耳を増やす。声は、薄く、しかし届くように。)
夕刻、使者たちは再び礼を尽くし、森の外へ帰る支度を整えた。
カレドは鞍をつけた馬の首を撫で、最後に振り返る。
「王よ。今日の試みは、私の顔に泥ではなく“土”を塗ってくれた。土の匂いは、交渉の席で強い。だが、火を持つ手は、すぐ次の木陰に潜む。我々も、あなた方も、目を閉じないことだ。」
リリは封書に追加の紙を挟み、差し出した。
「これは“森の間の掟”の案です。まだ不完全ですが、あなたの言葉の枠に入れました。……外の言葉にするのを、手伝ってください。」
ミラが受け取り、柔らかく笑った。
「翻訳は得意です。あなたの目の温度も、できるだけ一緒に運びます。」
フェンリュクは地を蹴り、重力から軽やかに離れた。
翼が一度、谷の空気を撫で、影は雲の下に溶けていく。
カレドたちは森の縁へ消えた。
残された静寂の中で、バルトは広場の印の上に身を伏せた。
胸に土の冷たさ、背に風のやわらかさ。
(今日の線は、守れた。明日の線は、まだ見えない。)
フィンが隣に腰を下ろし、尻尾で小さく土を払った。
「“金糸会”。火が好きな手だ。次はもっと大きく付けるだろう、火を。」
リリが顔を上げ、赤いリボンを結び直す。
「火は、消す。消せなければ、広がる前に遮る。掟に“火の前の掟”を入れよう。」
グロムが遠い岩塀の上で頷いた。
「水の溝。土の帯。石の床。火は腹が空けば、そこでは噛めない。」
バルトはゆっくりと立ち上がり、土に新しい線を一本引いた。
それは水の道と重なり、森の低いところを選んで蛇行する。
(火止めの帯。森の“喉”を守る襟。)
夜が落ちた。
星は多く、風は涼しく、梟は今日の戦いを影にして飲み込んだ。
バルトは谷を見渡し、胸の奥で静かに問う。
(同盟は、森を強くするか。弱くするか。どちらにせよ、選んだら、背負う。)
遠く、南の方角。
風がわずかに熱を含んだ。
焦げの匂いではない。
なにか、甘く、油の混ざった嫌な香り。
フィンが顔を上げる。
「嗅いだか。」
バルトは頷き、空を見た。
雲の腹がうっすら橙に撫でられている。
(火は、囁く。静かなうちに、近づいてくる。)
谷の端で、カケスが短く鳴いた。
「南の端。人の群れ。木を倒す音。……火種、持ってる。」
リリが紙を抱きしめ、唇を結ぶ。
「行かないと。」
バルトは、土の線をもう一度見た。
そして、前脚で土を強く押さえ、立ち上がった。
(橋は作った。次は、守る番だ。)
森の王は、静かに歩き出した。
夜の気配は冷たいが、南の風はじわりと熱を持っている。
“鉄”は音を潜めて忍び寄り、“羽”は影を薄くして見守る。
その狭間で、火だけが声を潜められずに、微かな舌打ちで森を誘っていた。
(次の線は、炎の縁に引く。折れない線を。)
谷の縁では、露に濡れた草が足に絡み、踏まれた茎から青い香りが立ちのぼる。
バルトは広場の土に刻んだ印の周りを、ゆっくりとひと回りした。
昨夜、リリが紙に写し取った「掟」の骨組みが、土にも紙にも二重に存在している。
(線は細く。だが、折れない線に。)
フィンが戻ってきて、鼻を鳴らした。
「南の空に、鳥の影。……いや、鳥にしては大きすぎる。鉄の匂いも混じる。」
リリが顔を上げ、胸元の封筒を握り直す。
「また、使者……?」
風が裂ける音がした。
樹冠の向こうから現れた影は、翼を広げると三本の木の幅を覆った。
金褐色の羽毛と、しなやかな獣の胴。
鋭い鉤爪と鷲の首。
大気の筋を掴むように滑空し、谷の端でふわりと地に降りる。
グリフォンだった。
その背には軽装の騎乗具が据えられ、胸には《リューネ》の紋章を模した小さな旗が垂れている。
グリフォンは首を巡らせ、静かにバルトを見た。
琥珀色の瞳が揺れ、風の匂いと土の匂いを測る。
「……汝が、森の王か。」
その声は、風切り羽の擦れる音のように低く響いた。
バルトは近づき、鼻先で相手の肩をかすめるように挨拶した。
(語れる。空の者とも、語れる。)
翼の主は胸を張り、名を告げた。
「我は“フェンリュク”。空の階《かい》で巣を持つ者。人の使いとして来た。鉄の列が森の縁に立った。王に、上からの道の形を見せる役目だ。」
地上の茂みが割れ、鎧の擦過音が近づく。
陽に鈍く光る胸甲。
先日のカレドと同じ深緑の外套だが、こちらは実務向けに短く仕立てられ、各所に補強の鋲が見える。
四人。
槍と短弓。
列の中央に、見覚えのある顔がいた。
カレド・ファーレン。
その目は、一瞬フェンリュクとバルトを測り、次いでリリへと滑った。
「約束どおり、掟を見せてほしい。そして、こちらの案も示したい。鉄の車列《カラバン》の動き、天からの補助。
“鉄と羽”で、森を傷つけずに通す試みだ。」
フィンが皮肉に口端を上げる。
「鉄は土を砕き、羽は巣を荒らす。言葉は心地よいが、足跡は大きい。」
カレドは頷き、歩を緩めて広場の土に近づいた。
バルトが刻んだ楕円と点、外円と橋の印。
リリがしゃがみ込み、木の枝で印の意味を指し示す。
「ここが中心です。この点は水場。この細い橋が、通れる季節の道。雛の時期は封鎖、種子が飛ぶ日は速度を落とす。火は全面禁止、灰も持ち込まない。」
ミラが先に出て、紙束を開く。
「森の“時間割”……。通行の“間”を刻むのですね。」
カレドが顔を上げ、フェンリュクへ視線を投げた。
「上から見ると、森の混雑は風の流れのようにわかる。枝の密な帯、獣道の交差。空から誘導すれば、地上の列は細くまとまる。」
フェンリュクが喉を鳴らした。
「上は速い。だが、上の影は下の心を乱す。雛の耳は鋭い。」
バルトはグリフォンの目を見て、前脚で土を三度、軽く叩いた。
(空の者よ。お前の影を、薄くできるか。)
フェンリュクは首を傾げ、翼を少しだけ持ち上げて見せた。
「高く飛べば影は細い。雲の腹に沿えば、地上は気づかぬ。だが、合図は届かぬ。」
フィンが低く言う。
「なら、地で合図を拾う“風”が必要だ。俺が走る。木陰から木陰へ。」
リリが顔を上げ、紙に新たな記号を足した。
「“空の印”と“地の印”を対で置く。音ではなく、匂いと形で。……例えば、樹皮に樹脂を塗って、鼻で読める道しるべを。」
ミラが感嘆の息を漏らす。
「においの道標……。書ではなく、嗅覚の掟。人の官吏に教えるのは骨が折れますが、やってみましょう。」
カレドは短く手を挙げ、随員に合図した。
「試験運行を一度だけ、させてほしい。鉄は軽く。車輪幅は鹿道に重ねない。荷は半分。速度は人の歩みに合わせる。フェンリュクは雲腹を滑り、フィンは地で走る。王よ、あなたは“境界”に立っていてくれ。」
バルトは尾を静かに振り、土の橋の一つに前脚を置いた。
(来い。だが、試しは一度だけ。破れば、二度目はない。)
午後、森の縁に鉄の列が現れた。
とはいえ、よくある重い商隊ではない。
木製の箱を載せた低い荷台が連なり、軸は麻で巻かれ、車輪は樹脂で縁取られている。
馬は細身で、蹄に麻の靴を履かされていた。
人々の靴底にも布が巻かれ、無駄な金具の鳴りはしない。
列の先頭で、ミラが細い竿を持ち、その先に白い草紐を結び、低く掲げる。
フェンリュクが高空の薄雲を沿って滑り、揺れる草紐に影を重ねる。
フィンは地上で先行し、茂みの中の危うい芽吹きの帯を避けるよう、鼻で示し、短い吠えで合図を返す。
バルトは橋の起点に立ち、車輪が境界線に触れぬよう横幅を測る。
(線を押すな。線に甘えるな。線を尊べ。)
列は静かに森へ入った。
枝が擦れる音がわずかに鳴り、小鳥が一羽、低い位置から高い位置へと跳ね上がる。
バルトの耳がひく、と向いた。
巣。
この高さはまずい。
前脚で地面を叩き、リズムでフィンに知らせる。
フィンはすぐ竿を持つミラへ合図を投げ、ミラが列の速度をさらに落とす。
フェンリュクが一度高度を上げ、影を薄くする。
巣の中で小さな嘴がわずかに開き、再び眠りの深みに沈む。
(通れる。今は、通れる。)
谷の中腹、湿地を横切る手前で、予想外の匂いが突き立った。
焦げ。
粗末な脂と木片の、急いだ火の匂い。
フィンが瞬時に毛を立たせた。
「火だ。」
カレドが顔を上げ、顎で指示する。
「列は停止。消火へ。」
だが、バルトはすでに走っていた。
湿地の縁、背の低い灌木の陰。
そこに、手製の松明を持った二つの人影。
粗末な革衣。
腰には鋼の刃。
目は荒み、焦燥が皮膚に貼り付いている。
「早くやれ。森に線を通すんだ。先に印をつけた者が道を取る。」
隣の影が怯えながら問う。
「でも、使者たちが……」
「商会は“既成事実”を好む。火を走らせりゃ、森は割れる。あとは金でならすだけだ。」
バルトは彼らと列の間に割り込み、松明の前で立ち上がった。
影の男が狼狽えて後ずさる。
炎が揺れ、火の粉がバルトの胸毛に当たって消えた。
バルトは前脚を伸ばし、松明の根を掴むと、湿地の泥に無言で押し込んだ。
じゅう、と音がして煙が上がる。
もう一方の男が腰の刃に手をかけた。
フィンが低く吠え、ジャリクが影から飛び出して男の手首を押さえた。
ミラが素早く布を投げ、刃を包んで奪う。
カレドは後方の兵に短く命じた。
「拘束。火を使った者には鉄の手錠を。……名を問う前に、理由を問え。」
男は叫んだ。
「俺たちは仕事をしてるだけだ。森に道を通すのは決まってる。早い者勝ちだ。」
カレドは一歩近づき、低い声で言う。
「決まっていない。まだだ。今、まさに掟を作っている。」
男は鼻で笑った。
「掟?獣の掟か。紙に書かれた掟だけが掟だ。」
リリが一歩進み、男の前に紙を掲げた。
その紙には、土の印と同じ線が、震えつつも確かに記されている。
「これが、掟です。あなたも読めるように書きます。でも、破れば、ここは燃えます。燃えれば、あなたの取る道も消える。」
男は目を逸らし、拘束されて引かれていった。
フェンリュクが高空からひと鳴きし、影を細くして戻ってくる。
「上も、下も、火は嫌う。火は腹を空にする。」
バルトは湿った泥に前脚を押しつけ、火の黒い跡に土をかけた。
(火は、境界を食う。境界が食われれば、秩序も食われる。)
試験の列は、日が傾く前に森を抜けた。
足跡は浅く、枝は折れていない。
巣は静かで、雛の心拍は落ち着いている。
谷に戻ると、フィンが草の上にごろんと身を投げ出した。
「……骨が折れたが、折れてよかった。“折れる”前に、わかることがあった。」
カレドは汗を拭い、フェンリュクの胸元を軽く叩いた。
「助かった。空と地の合奏は、可能だ。」
ミラは紙束に走り書きを加え、リリの紙と並べる。
「“空の影は薄く。地の合図は匂いで。車は軽く。足は遅く。火はなし。”
――最低限の条項として、これを。“森の間《ま》の掟”。」
ジャリクは腰を伸ばし、バルトを見た。
「お前の王のやり方は、吠えないのに、よく通る。……腹に落ちる。」
バルトは彼の視線を受け、谷の中心の点へ歩いた。
その上に立ち、短く息を吐く。
リリが小さく笑い、紙を胸に抱える。
「三十日を待たずに、一つ、道ができた。でも、一つ、火口も見えた。」
カケスが枝から鳴いた。
「火の匂いを持ってたの、南の市の商会の印だよ。腕輪に刻んでた。“金糸会”。」
カレドの目がわずかに細くなる。
「彼らは速い。掟ができる前に、掟を破る。それを“先手”と言う。」
フィンが鼻を鳴らす。
「なら、俺たちも先手を打つ。森の入口に、王の“目”を置け。人の見張りではない。梢と地表の、目と耳と鼻。」
ミラが頷き、地図を開く。
「見張り小屋ではなく、“見張り木”。登りやすく、隠れやすく、鳴きやすい木を選んで、印を結ぶ。」
フェンリュクが翼を畳み、胸を張る。
「空にも“止まり石”を作る。風の良い高さ、雷の走らぬ線。そこで我らは待ち、目で合図を受け、影で返す。」
バルトは土に短い印を四方へ散らし、中心から淡く線をのばした。
(目を増やす。耳を増やす。声は、薄く、しかし届くように。)
夕刻、使者たちは再び礼を尽くし、森の外へ帰る支度を整えた。
カレドは鞍をつけた馬の首を撫で、最後に振り返る。
「王よ。今日の試みは、私の顔に泥ではなく“土”を塗ってくれた。土の匂いは、交渉の席で強い。だが、火を持つ手は、すぐ次の木陰に潜む。我々も、あなた方も、目を閉じないことだ。」
リリは封書に追加の紙を挟み、差し出した。
「これは“森の間の掟”の案です。まだ不完全ですが、あなたの言葉の枠に入れました。……外の言葉にするのを、手伝ってください。」
ミラが受け取り、柔らかく笑った。
「翻訳は得意です。あなたの目の温度も、できるだけ一緒に運びます。」
フェンリュクは地を蹴り、重力から軽やかに離れた。
翼が一度、谷の空気を撫で、影は雲の下に溶けていく。
カレドたちは森の縁へ消えた。
残された静寂の中で、バルトは広場の印の上に身を伏せた。
胸に土の冷たさ、背に風のやわらかさ。
(今日の線は、守れた。明日の線は、まだ見えない。)
フィンが隣に腰を下ろし、尻尾で小さく土を払った。
「“金糸会”。火が好きな手だ。次はもっと大きく付けるだろう、火を。」
リリが顔を上げ、赤いリボンを結び直す。
「火は、消す。消せなければ、広がる前に遮る。掟に“火の前の掟”を入れよう。」
グロムが遠い岩塀の上で頷いた。
「水の溝。土の帯。石の床。火は腹が空けば、そこでは噛めない。」
バルトはゆっくりと立ち上がり、土に新しい線を一本引いた。
それは水の道と重なり、森の低いところを選んで蛇行する。
(火止めの帯。森の“喉”を守る襟。)
夜が落ちた。
星は多く、風は涼しく、梟は今日の戦いを影にして飲み込んだ。
バルトは谷を見渡し、胸の奥で静かに問う。
(同盟は、森を強くするか。弱くするか。どちらにせよ、選んだら、背負う。)
遠く、南の方角。
風がわずかに熱を含んだ。
焦げの匂いではない。
なにか、甘く、油の混ざった嫌な香り。
フィンが顔を上げる。
「嗅いだか。」
バルトは頷き、空を見た。
雲の腹がうっすら橙に撫でられている。
(火は、囁く。静かなうちに、近づいてくる。)
谷の端で、カケスが短く鳴いた。
「南の端。人の群れ。木を倒す音。……火種、持ってる。」
リリが紙を抱きしめ、唇を結ぶ。
「行かないと。」
バルトは、土の線をもう一度見た。
そして、前脚で土を強く押さえ、立ち上がった。
(橋は作った。次は、守る番だ。)
森の王は、静かに歩き出した。
夜の気配は冷たいが、南の風はじわりと熱を持っている。
“鉄”は音を潜めて忍び寄り、“羽”は影を薄くして見守る。
その狭間で、火だけが声を潜められずに、微かな舌打ちで森を誘っていた。
(次の線は、炎の縁に引く。折れない線を。)
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すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、
天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。
そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、
少しずつ距離を縮めていく。
魔法で国を守る最強魔術師。
料理で国を救う特級厨師。
――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、
ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。
すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚!
笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。
貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
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この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
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