ベア・キングダム

naomikoryo

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第三部:「ベア・キングダム」

第1話「嵐の前触れ」

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夜明けの霧が、谷の底を白く満たしていた。
川面を這う薄いヴェールは、草の穂先で砕け、雫となって落ちる。
バルトは川沿いの大岩に前脚をかけ、昇りつつある光の気配をじっと見つめていた。
耳を澄ませば、遠い梢で鳥が翼を震わせる音、苔にしみる水の音、巣穴で子が寝返りを打つ微かな擦過が、層になって聞こえる。
(静かだ。この静けさは、守るに値する。)

あの戦いから幾週かが過ぎた。
ザルガスの黒旗は北へ退き、人間の兵列も森の境に杭を打ったまま動かなくなった。
谷では傷の癒えた仲間が戻り、子どもたちのいたずらが日常を取り戻し、夜には梟が低く歌い、朝には小川が銀糸のように光った。
だが、平和の匂いに、ほんのわずかな異物が混じっている。
風が、知らない塩の気配を運ぶ。
樹皮が乾く速度が、いつもより心持ち速い。
(変わる。森の外で、何かが動き出している。)

背後から、羊歯を揺らす軽い足音がした。
フィンが鼻先に露をつけたまま近づき、バルトの脇に並ぶ。

「見回ったが、北は静かだ。ザルガスは、まだ牙を研いでいる匂いはするが、しばらくは来ない。」

バルトは短く鼻を鳴らし、谷を見下ろした。
グロムが岩を運び、獣道の脇に低い石塀を積んでいる。
アライグマの母子は草の間で木の実を選り分け、子鹿はバルトの足跡を踏むたびに声にならない喜びで跳ねる。
(守る場所は、増えた。守るべきものも、増えた。)

昼近く、斥候役のカケスが慌ただしく飛び込み、枝に爪を立てたまま甲高く鳴いた。

「南だ、南。人間が来る。数は三。兵じゃない、けど、偉そうな匂い。」

フィンが視線で問いかける。
バルトは軽く頷き、谷の縁まで歩いた。
リリが乾いた薬草束を抱えて駆けてきて、息を切らせながら言う。

「私も行きます。人間の言葉、少しは……伝えられるから。」

バルトは彼女の瞳を見て、ゆっくりと首を傾けた。
(橋は、必要だ。
言葉が届かないなら、目と手で。)

南端の獣道は、湿った腐葉土の香りと、人の革靴の油の匂いが交じっていた。
やがて、木漏れ日の帯の向こうに三つの影が現れた。
先頭は深緑の外套の男で、身に纏った布の縁に金糸の刺繍が静かに光る。
頬は削られたように痩せ、眼差しは獲物を測る鷹のように冷静だ。
後ろに、黒髪を後ろで束ねた若い女性と、縦に割れた瞳孔を持つ猫科の獣人が続く。
獣人の尻尾は音なく揺れ、肩の筋が薄い布越しにも波立って見えた。

男は一歩進み、きちんとした発声で言う。

森の王に謁見を願う。我らは西方都市国家《リューネ》の使者。私の名はカレド・ファーレン。同盟の提案を携えてきた。」

リリが息を飲み、バルトの横で小さく頷いた。

「……同盟、って。」

フィンは尾を下げ気味に揺らし、一歩斜めに位置を変えた。

「森の“外”が、ついに口を開いたか。」

カレドは視線をバルトの目の高さに合わせるよう、あえて二歩下がってから口を開いた。

「森を通商路として開きたい。我らは代わりに外敵からこの森を守る。道には関所を置き、森の掟を犯す者は取り締まる。交易は繁栄をもたらし、あなたが守るべき命にも、実りをもたらすだろう。」

バルトは動かない。
鼻孔に、乾いた羊皮紙の匂いと、遠い港の塩の匂いが差し込む。
人の群れの匂いは、いつも雑多だ。
欲望と恐怖と、合理の匂い。

(道。道は、通すためにある。けれど、道は“線”だ。森は“面”で息をしている。線が面を切り裂くなら、血が出る。)

リリがそっと前に出て、両手を胸の前で組む。

「森には守らなきゃいけない小さな命が、たくさんあるんです。商隊がたくさん入ってきたら、足音だけで巣が壊れるところも……。」

女性の随員が柔らかい声で応じる。

「だからこそ、規則と見張りを置きます。私の名はミラ・オルド。交易路は細く、季節と本数を定め、踏み荒らさない道を選びます。森も、世界も繋がれば、互いに助け合えるでしょう。」

猫科の獣人が一歩前に出て、短く名乗った。

「ジャリク。西方の外れ、砂漠縁の群れから来た。獣の王の噂を、俺たちも聞いた。……見に来た。」

彼の縞の走る頬に、過去の傷あとが白く残っていた。
目は、よく訓練された兵のそれでありながら、どこか獣の誇りを守る硬さも持っていた。
バルトは一歩だけ近づき、相手が怯えぬ距離で止まる。
前脚を地面へ下ろし、爪の先で楕円を描き、その内側に点を一つ打つ。
リリが小声で訳す。

「ここが、私たちの“真ん中”。守る場所の、中心。」

カレドの眉がわずかに動いた。

「あなたは、人の言葉を理解するが、話せはしない。噂どおりだ。……森の王よ。我らは脅しに来たのではない。だが、森の外には多くの旗があり、多くの喉が飢えている。あなたが同盟を結ばず拒絶するなら、彼らはあなたを“障害”と見なす。」

フィンが低く唸り、わずかに牙を覗かせた。

「食い扶持がないなら、畑を耕すか、海に出ろ。森は腹の足しじゃない。」

ミラは視線を落とし、両手を開いて見せた。

「だから、話し合いに来たのです。あなた方が望む掟を、こちらに示してください。森の生き物の習性、季節の巡り、通ってよい時間帯、火の扱い、捨ててはならぬもの。わたしたちは紙に書き、外に広げます。」

紙という言葉に、古いテントの匂いが鼻の奥で蘇る。
湿った藁と、ポスターと、綱の油。

(紙に書かれた掟は、風に破れる。けれど、刻まれた掟は、爪と心に残る。)

バルトはもう一つ、線を引いた。
楕円の外に、ぐるりと大きな円。
外側の円の数箇所だけを、短い線で橋のように繋ぐ。
リリが目を細める。

「……細い道なら、通せる。でも、森を“丸ごと”は通せない。橋は選ぶ、って。」

カレドは口元にわずかな笑みを浮かべ、頷いた。

「理解した。議論の余地がある。だが、私の身一つでは決められない。あなた方も仲間と協議するだろう。三十日。三十日のうちに、返答を願いたい。」

彼は外套の内から封蝋の押された小さな筒を取り出し、リリに差し出した。

「これは書式。あなたが信じる“掟”を記すための枠だ。……もちろん、破り捨ててもいい。」

リリは戸惑いながらそれを受け取り、胸に抱えた。
バルトは短く鼻を鳴らし、客を谷の外れの平らな岩地へ案内した。
そこなら動物たちが不用意に近づかず、夜露もしのげる。
フィンは輪郭だけの影となり、周囲を一巡してから戻った。

「見張りは俺がやる。……なあ、バルト。“同盟”って、結ぶと何が起きる?」

バルトは答えられない。
言葉にできない問答が、胸の内の静かな水面で波紋を広げる。

(結べば、頼り合える。背中を預けられる瞬間が増える。けれど、結べば、ほどける縫い目も生まれる。引っ張られれば、どちらかが裂ける。)

焚き火の赤が小さく呼吸し、夜が降りた。
ジャリクが火の向こうから、低く囁いた。

「俺たち獣人は、長いあいだ“道”の脇で寝てきた。通る人間に石を投げられ、笑われ、たまに雇われ、飢えれば牙を剥いて、また追われた。……お前が王と呼ばれていると聞いた時、腹が鳴った。“王”って言葉に、山ほどの嘘と欲が乗るのを、俺は知ってる。けど、今、目の前の熊は違う匂いがする。」

バルトは焚き火越しに彼を見つめ、鼻先をわずかに下げた。

(俺は冠を被らない。俺が持つのは、寝床と匂いと、ここで生きる命の重さだ。)

ミラは火に手をかざし、笑みを薄くした。

「私は紙に掟を書くのが仕事。でも、本当の掟は、目で覚えるものだから。あなた方の暮らしを、見せてください。……覚えます。」

フィンはその言葉に鼻を鳴らし、木陰へ消えた。
夜番は彼が最も得意とする仕事のひとつだ。
リリは封蝋の筒を膝に置いたまま、火の揺らぎを見つめ続けた。

(掟。書けるのかな、私に。森のことを全部知ってるわけじゃない。でも、バルトの背中が何を守ろうとしているかは、知ってる。言葉にしないと、外の人には伝わらない。)

夜が深まるにつれ、森の音はゆっくりと入れ替わった。
昼の小鳥の囀りは遠ざかり、代わりにヤマネの小さな歯の音、夜を裂く梟の一撃の風切り、狐の足裏が苔を撫でる湿り。
バルトは焚き火から少し離れ、谷の中央へ戻る。
寝息の重さを数え、匂いの乱れを探す。
そのすべてが、いつもより敏感に皮膚へ触れてくる。

(嵐の手前の空気は、こういう冷たさだ。まだ遠い雷の匂いが、草の根に降りている。)

夜明け前、カレドが立ち上がり、外套の裾を払った。

「森の王よ。繰り返す。三十日だ。答えを、待つ。」

ジャリクは無言で胸に拳を当て、ミラは会釈して微笑んだ。
リリは封蝋の筒を抱き直し、小さく頭を下げる。
人の三人は、森の縁に溶けるように去っていった。
バルトは最後まで見送ってから、ゆっくりと谷を振り返る。
フィンが戻り、肩をすくめた。

「悪い奴らじゃない。でも、良いかどうかは別だ。人は群れの中で形を変える。」

グロムが遠くで岩を置き、こちらを見た。

「道を開けば、壁がいる。壁を築けば、門がいる。門には、番がいる。」

バルトは前脚で土を撫で、昨日描いた楕円の周りに、さらに細い線を一本、一本と加えていく。
季節の道。
産卵期の禁足。
水場の迂回。
火の禁止。
葬りの静寂。
リリが膝をつき、その一筆一筆を目で追う。
指でなぞり、覚え、封蝋の筒の中の紙に、震える手で写していく。
墨の匂いが、谷に新しい緊張の層を作る。
フィンが小さく笑い、空を見上げた。

「王の掟は、吠え声じゃなく、土に刻むのか。……らしいな。」

バルトは目を細め、鼻で乾いた土を吸い込んだ。

(吠えれば飛ぶ鳥もいる。土に置けば、足で覚える。)

昼過ぎ、谷には見知らぬ風が差し込んだ。
海の匂いに、鉄の匂いが混じる。
遠いどこかで、鍛えられた大勢の足音が、まだ姿を見せぬまま地平の裏で重なっているような圧。
リリは紙を胸に抱き、息を整える。

「三十日。……短いようで、長い。でも、足りないかもしれない。」

フィンは草を噛み、吐き捨てた。

「足りるさ。足りなくても、噛んで引き延ばす。」

グロムは石塀の上に座り、谷を見下ろした。

「来るなら、来い。壁は、立てば意味がある。」

バルトは谷の真ん中に座し、前脚を重ね、目を閉じた。
炎ではなく、水でもなく、土の深みに降りていくような静けさに身を置く。

(森は、まだ俺を信じてくれているか。俺は、森を信じているか。外を拒むだけなら、獣でいい。受け入れるだけなら、餌場でいい。選び取り、責任を背負うのが、王だ。)

目を開けると、赤いリボンが視界の端で揺れた。
リリがいつものように髪を結い直し、決意の色を強めていた。
その姿が、一瞬だけ、かつてのテントの客席の少女と重なる。
胸の奥で古い痛みが鳴り、すぐに温かさに変わる。

(あの時、守れなかった命。今ここで、守るために、選ぶ。)

夕暮れが、谷を金色に染める。
カケスが高く舞い、遠見の歌を短く鳴く。
風が変わった。
夜の入口が、早い。
ひとつの時代が、もう片方の時代の肩口に指をかける時の匂い。
バルトは立ち上がり、土に描いた掟の上を一歩ずつ踏みしめた。
その足跡が、柔らかく沈み、輪郭を刻む。
フィンが並び、リリが少し後ろからそれを追い、グロムが影のように支える。
空は藍に変わり、星がひとつずつ灯り始める。
森の王は、沈黙のまま、嵐の前の初めての一歩を踏み出した。

その歩みが、やがて《ベア・キングダム》という名で呼ばれる道の、最初の石となるのを、彼自身はまだ知らない。
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