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第三部:「ベア・キングダム」
第3話「囁く炎」
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南の風は甘かった。
けれど、その甘さは熟した果実のそれではなく、油と樹脂と、焦げた草一本が放つ警告のような、ねばつく匂いだった。
バルトは谷を出る前に、土へ爪で短い印を描き足した。
細い波線をいくつも並べ、その間を短い棒で縫う。
リリが膝をつき、息を整えながらそれを目で追う。
「“水の帯”。そして、“土の舌”。——火を飲み込ませる準備。」
フィンが肩を低くし、風上に鼻を向ける。
「急ぐぞ。南端の楡の帯で、すでに一本、火が踊ってる。」
グロムは短く頷き、背に縄を巻いた。
縄の先には、谷の小川から汲んだ皮袋がいくつも結ばれている。
バルトは一歩、二歩と動き、谷の中央の点を見た。
(戻ってくる。ここを、守るために。)
南へ向かう獣道は湿り、足の裏に泥の冷たさが滲む。
やがて、湿りは乾きへ変わり、土は痩せ、草は背を低くし、風は熱に重くなった。
樹冠の向こうに、煤の指が立ち上る。
一筋、二筋。
それはまだ、森を呑むに足らぬほど弱々しい。
だからこそ、危うい。
(小さい火は、囁く。“今なら間に合う”と。——そして、毎度、誰かが遅れる。)
最初の火は、倒れた枯れ枝の束の中で、青白く舌を伸ばしていた。
足跡がある。
軽い靴底が二つ、重い靴が一つ。
薄い灰が不自然なほど均等に撒かれ、火はそこから“賢く”広がろうとしている。
フィンが低く唸り、周囲の獣に短く号令を飛ばす。
「左翼、湿りを掘り出せ。右は落ち葉を掃け。風下の溝、すぐに。」
リスたちが素早く散り、尾で葉を掃き、地の薄皮を剥いで湿りを露わにする。
アナグマが爪で溝を掘り、土が黒い線を描く。
フクロウが木上から短く鳴き、風の向きを刻む。
グロムが膝をつき、皮袋を肩から滑らせ、火の根に水を落とす。
じゅ、と音がして、火が一瞬ため息をつく。
バルトは前脚で燃えている枝をひとまとめにし、湿った土へ押し付けた。
火はぐずり、黒い煙を吐き、やがて黙った。
(一本。囁きは、ここで終わり。)
だが、風が別の舌でバルトの耳を撫でた。
二筋目。
火は既にひとつ先の樹帯に跳び、低い灌木の根を舐めている。
そこには、わざと乾かされた草束が結わえ付けられ、火が喜ぶ道筋が用意されていた。
フィンが走り、鼻で結び目を解き、歯で草束を引き抜く。
バルトは枝を持ち上げ、グロムは水を落とし、リリは懐から濡れ布を出して火の粉を押さえる。
リリの頬には汗が光り、息は浅い。
けれど、その目は火よりも強かった。
「もう一本……向こう。」
彼女が指差した先、楡の影から人影が揺れた。
茶色い袖、浅いフード。
顔は灰で汚し、目だけが乾いている。
手には、細い鉄の筒。
バルトの耳がぴくりと動く。
火種を吹き込むための管。
乾いた細枝を束ねた“種火”が、その筒の先に潜み、息ひとつで森の床に散る仕掛け。
男は、息を吸った。
バルトは、走った。
巨体が落ち葉を蹴り、地面と低い唸りを交わす。
男が驚き、管を捨てて逃げる。
フィンが弧を描いて回り込み、男の足首を狙う。
男は小刀を抜き、刃でフィンを払う。
刃は空を切り、フィンは獣道の草に紛れる。
バルトが前に出て、男の行く手を塞いだ。
男は刃を振り上げ——刃は地に落ちた。
ジャリクの拳が男の手首を打ち、刃が飛んだのだ。
猫科の獣人は静かに言った。
「火は、砂漠でも嫌われる。」
男は唇を噛み、吐き捨てる。
「お前らは——」
言葉は最後まで続かなかった。
グロムの影が、静かに男の後ろへ立っていたからだ。
石の拳が微かに握られる音だけが、森に落ちた。
リリが駆け寄り、男の腰の袋を見つけて顔をしかめる。
「樹脂に油……香りでごまかしてある。」
ミラの筆跡のように整った字の、商会の印。
金糸で縁取られた小さな札。
“金糸会”。
フィンが舌打ちし、尾を低く揺らす。
「これで三。全部、奴らの印だ。」
男は目を逸らし、吐息を乱した。
「仕事だ。道を通すのに、何が悪い。火は早い。森は遅い。」
リリは首を振り、紙を掲げた。
「掟は早い。書く手があれば、早くなる。——あなたたちの火より。」
男は拘束され、ミラの随員に引き渡された。
ミラは短く、しかしはっきりと言う。
「商会が動けば、都市も動く。——だから、止める書を、今夜のうちに出す。」
カレドの名が彼女の唇の裏で鳴り、風に溶けた。
彼は森の縁で人の道を繋ぎ、ミラは森の内で掟の言葉を紡ぐ。
二つの糸が、細く強く結ばれていく。
だが、火は一度で終わらない。
夕刻へ傾く陽の中で、風は向きを変え、別の樹帯の下草へ、小さな朱を置いた。
囁きは、いつも同じ声では来ない。
バルトは息を吐き、谷で引いた線を思い出す。
(“火止めの帯”。水の喉。土の襟。)
彼は前脚で地を掻き、湿りを掘り起こした。
グロムが呼吸のように石を運び、浅い溝の底に敷く。
フィンが獣道を走り、アナグマとテンに合図を散らし、掘る場所を増やす。
梢ではフクロウが東風から西風へ転じる合図を二度鳴き、カケスが火の粉の落ちる位置を叫ぶ。
リリは濡れ布と薬草を交換し、火の粉で荒れた皮膚に手のひらを置き、そのまま次の場所へ走る。
フェンリュクは雲腹を滑りつつ、影を薄く保って上空の煙の筋を読み、火の舌の次の伸び先を合図の影で示した。
バルトは動きのすべてを受け、最も弱いところへ身を置いた。
炎が地面を舐めようとした瞬間、その舌の根に前脚を差し込み、湿りと土とで押しつぶす。
熱が毛皮を焦がし、皮膚の下に針のような痛みが刺さる。
(痛みは、残る。——残る印は、次に早く動く手になる。)
日が落ち、空が藍に沈む時、火の囁きはようやく途切れた。
小さな赤がいくつか残り、それも獣たちの吐息と土の手で眠らされた。
湿った土の匂いが勝ち、焦げの甘さが遠のく。
谷から持ってきた皮袋は空になり、グロムの石の肩には黒い煤が斑に乗っている。
フィンが舌の端で前脚を舐め、息を整えた。
「……今回は、間に合った。」
フェンリュクが低く鳴き、雲の低いところから舞い降りる。
「上にも、火の歌は届いた。次は、もっと遠くで囁く。」
ミラは紙を広げ、短く書いた。
“火前の掟”。
“火を持つ者、森の縁にて名を記し、油を関所に預けること。”
“火を運ぶ理由を紙に書くこと。
火を使う場所を土に描くこと。
火のそばに水を置くこと。”
リリは頷き、指で土に同じ印をなぞった。
「掟は紙だけじゃ足りない。土にも、皮にも、匂いにも。」
彼女は腰の袋から乾いた樹脂を出し、標となる木の幹に薄く塗る。
樹脂には、野草の匂いが混ぜてある。
この匂いは、火止めの帯の“喉”の印。
嗅げばわかる掟。
人の鼻には弱く、獣の鼻には強い。
風が少し変わった。
夏の夜の入口にある、深い湿りと暗い土の匂い。
だが、その底に、金属の乾いた臭気がひそむ。
カケスが枝から声を落とした。
「南の道に、人の列。火じゃない。刃の匂い。」
フィンが立ち上がる。
リリが紙を胸にかかえ、赤いリボンをきゅっと結び直した。
ミラは書を巻き、胸元で押さえる。
フェンリュクは翼を広げ、夜風の筋を探る。
グロムは石の拳を握り、谷の方角へ一度顔を向けた。
バルトは森の暗さへ目を凝らし、静かに鼻を鳴らした。
(火は、囁いた。今度は、鉄が囁く。——聞こえている。)
人の列は、松明を掲げない。
代わりに、灯りを布で覆い、足音を抑え、鎖帷子の響きを麻布でくるみ、暗さを味方にしていた。
先頭の男が手を上げると、列は止まり、左右に散った。
森の“間”を避け、掟の線をわざと踏み越えようとしている。
フィンが歯を見せる。
「掟を知らないのではない。知っていて、踏む。」
ミラが顔をしかめた。
「……掟の作者を試しに来た。」
リリは前に出ようとした。
バルトは前脚を伸ばし、肩の前でそっとそれを止めた。
そして、彼女の掌に、土を少し乗せた。
(言葉はお前に。線は、俺に。)
バルトは一歩、また一歩と進む。
暗がりから現れた影が刃を上げる。
バルトは刃の線を見ずに、足の重心、肩の張り、肘の角度を見る。
次の動きは、そこに出る。
刃が落ちるより早く、前脚が刃の根を払い、男の膝が土へ沈む。
声は上がらない。
彼らはそれでも静かに動く者たちだ。
——訓練され、命じられている。
もう一人が背から回り、短槍の穂先が低く走る。
フィンが影から飛び、槍の柄を噛んで捻る。
穂先が逸れ、幹に刺さる。
ミラは短い笛を二度鳴らし、フェンリュクが高空から影を落とした。
影は刹那、彼らの心の呼吸を乱す。
グロムの足が地を踏み、微かな震動が走る。
足裏に「ここは石だ」という合図。
人の足は、ほんの一秒、遅れる。
バルトは、その一秒を掴む。
刃を持つ手首を土に押し込み、膝を折らせ、目を見ずに、呼吸の速さだけを感じ取る。
(殺さない。でも、通さない。)
列の後方から、低い声がした。
「下がれ。」
一人、他の影とは違う密度の男が前に出た。
顔は布で覆われ、瞳だけが月のない夜の水面のように冷たい。
腰で重い何かが鳴る。
鎖ではない。
——鉄の棒。
それは火の囁きと同じくらい、森に似合わぬ音だった。
男は棒を軽く振った。
空気がうねり、バルトの頬毛が僅かに逆立つ。
(重い。——魔術の鉄か。)
フィンが歯を鳴らす。
「王。こいつは、普通じゃない。」
男は棒の先で土をなぞった。
バルトが昼に刻んだ線の一つ。
彼はそこに、足を置いた。
線は消えない。
だが、踏まれた線は、次の線を求める。
バルトは前脚を広げ、低く構えた。
(線は、動く。
線は、守る者が立って初めて、線になる。)
男が踏み込んだ。
鉄の棒が弧を描き、空気がめくれ、土が少し跳ねる。
バルトは棒の根元に体を寄せ、肩で受け、重さを地へ落とす。
棒の衝撃が大地へ抜け、男の足が半歩、遅れる。
フィンが横から走り、男の膝裏へ短く当てる。
男は倒れない。
体幹が強い。
棒が返り、フィンの鼻先を掠めた。
血の匂いが、針のように短く鋭い。
リリが短く悲鳴を飲み込み、ミラが笛を三度鳴らす。
フェンリュクの影が二つに割れ、ひとつは男の背、ひとつは彼の視界の隅を掠める。
男は初めて視線をわずかに上げ——その一瞬、バルトは前脚を棒の根元から離し、土に描いた線の上に、己の体を重ねた。
(ここが、境界。越えるなら、折れる。)
男の棒が再び落ちる。
バルトは棒の外側を掴むように前脚を絡め、内へ引き込み、重さを自分の胸と地面の間に落とした。
棒が土にめり込み、男の手がわずかに開く。
フィンが走り、ジャリクが影から伸び、ミラの布が棒の先を包み、グロムの足が一度、地を鳴らした。
棒は手から離れ、土に沈んだ。
男は瞬きを二度だけし、無言で後退した。
その瞳は、今度は森の奥ではなく、バルトの足元を見ていた。
線を。
土の線を。
男は背を向け、列に合図し、影は森の縁へ溶けていった。
追撃はしない。
バルトは息を吐き、火の跡と同じように、足跡の浅さを確認した。
(まだ浅い。深くなる前に、掟を、目に入れさせる。)
静けさが戻ると、夜は一気に冷えた。
リリはフィンの鼻先に布を当て、薬草を揉み込む。
「ごめんね。私が叫びそうになって、影が揺れた。」
フィンは鼻を鳴らし、尻尾をほんの少しだけ打った。
「王の線は動かない。俺の傷は動く。それでいい。」
ミラは紙に短く記す。
“鉄の棒。
魔術の気配。
掟の線を試す者。”
フェンリュクが夜の空に戻り、梢の向こうから二度、低く鳴いた。
「上でも、線が見えた。細いが、光っていた。」
グロムは石の拳を開き、湿った土を掬い上げた。
その手から、土は落ちずに、掌に残った。
「湿り。壁になる。」
バルトは頷き、森の暗さに目を馴染ませた。
風下の遠いどこかで、また小さな甘い匂いが生まれている。
今度は火ではない。
蜜の匂い。
だが、その蜜は蜂の巣ではない。
人の手で煮詰められた、言葉の蜜。
約束。
取引。
誘い。
(“同盟”は、囁かない。——歌う。きれいに、遠くまで。)
谷へ戻る道すがら、リリが小さく口を開いた。
「バルト。掟は、書ける。でも、掟を守らせるには、もっと“目”がいる。村の人にも、森の掟を見てもらいたい。
……私、村で話す。」
フィンが肩をすくめる。
「また孤立するぞ。」
リリは笑った。
その笑みは強がりではなく、疲れた火を吹き消す時の静かな強さだった。
「孤立は慣れてる。でも、今は一人じゃない。」
赤いリボンが夜風に揺れ、暗闇の中でもわずかに色を持っていた。
バルトは鼻を鳴らし、彼女の肩の高さに前脚を下ろして土を叩いた。
三度。
リリは頷く。
「三十日も待たない。明日、話す。」
谷が見えた時、空の低いところで雲が淡く光った。
遠い雷ではない。
人の街の灯が、雲の腹を撫でているのだ。
《リューネ》。
外の世界が、こちらを見ている。
フィンが低く呟く。
「嵐の前の夜明けは、いつも静かだ。」
バルトは谷の中央の点に歩み、土に新しい線を引いた。
細く、しかし深く。
それは水の帯と重なり、火止めの襟をなぞり、見張り木へと伸び、最後に谷の縁で止まった。
(ここが、今の“終わり”。ここから先は、まだ描けない。——だから、守る。)
夜が完全に落ち、星が増えた。
森は息を取り戻し、火の囁きは夢の底へ沈む。
だが、鉄の囁きは土の下で息を潜め、言葉の歌は雲の腹で輪になって漂っている。
バルトは目を閉じた。
耳は開いたまま、鼻は風を読んだまま。
(選ぶ。受け入れる線と、拒む線。——どちらも、明日までに濃くする。)
そして、森の王は、静かに眠らない夜を始めた。
囁きは遠のき、また近づく。
そのたびに、土の線は一本ずつ増え、谷の心臓は、少しずつ強くなるのだった。
けれど、その甘さは熟した果実のそれではなく、油と樹脂と、焦げた草一本が放つ警告のような、ねばつく匂いだった。
バルトは谷を出る前に、土へ爪で短い印を描き足した。
細い波線をいくつも並べ、その間を短い棒で縫う。
リリが膝をつき、息を整えながらそれを目で追う。
「“水の帯”。そして、“土の舌”。——火を飲み込ませる準備。」
フィンが肩を低くし、風上に鼻を向ける。
「急ぐぞ。南端の楡の帯で、すでに一本、火が踊ってる。」
グロムは短く頷き、背に縄を巻いた。
縄の先には、谷の小川から汲んだ皮袋がいくつも結ばれている。
バルトは一歩、二歩と動き、谷の中央の点を見た。
(戻ってくる。ここを、守るために。)
南へ向かう獣道は湿り、足の裏に泥の冷たさが滲む。
やがて、湿りは乾きへ変わり、土は痩せ、草は背を低くし、風は熱に重くなった。
樹冠の向こうに、煤の指が立ち上る。
一筋、二筋。
それはまだ、森を呑むに足らぬほど弱々しい。
だからこそ、危うい。
(小さい火は、囁く。“今なら間に合う”と。——そして、毎度、誰かが遅れる。)
最初の火は、倒れた枯れ枝の束の中で、青白く舌を伸ばしていた。
足跡がある。
軽い靴底が二つ、重い靴が一つ。
薄い灰が不自然なほど均等に撒かれ、火はそこから“賢く”広がろうとしている。
フィンが低く唸り、周囲の獣に短く号令を飛ばす。
「左翼、湿りを掘り出せ。右は落ち葉を掃け。風下の溝、すぐに。」
リスたちが素早く散り、尾で葉を掃き、地の薄皮を剥いで湿りを露わにする。
アナグマが爪で溝を掘り、土が黒い線を描く。
フクロウが木上から短く鳴き、風の向きを刻む。
グロムが膝をつき、皮袋を肩から滑らせ、火の根に水を落とす。
じゅ、と音がして、火が一瞬ため息をつく。
バルトは前脚で燃えている枝をひとまとめにし、湿った土へ押し付けた。
火はぐずり、黒い煙を吐き、やがて黙った。
(一本。囁きは、ここで終わり。)
だが、風が別の舌でバルトの耳を撫でた。
二筋目。
火は既にひとつ先の樹帯に跳び、低い灌木の根を舐めている。
そこには、わざと乾かされた草束が結わえ付けられ、火が喜ぶ道筋が用意されていた。
フィンが走り、鼻で結び目を解き、歯で草束を引き抜く。
バルトは枝を持ち上げ、グロムは水を落とし、リリは懐から濡れ布を出して火の粉を押さえる。
リリの頬には汗が光り、息は浅い。
けれど、その目は火よりも強かった。
「もう一本……向こう。」
彼女が指差した先、楡の影から人影が揺れた。
茶色い袖、浅いフード。
顔は灰で汚し、目だけが乾いている。
手には、細い鉄の筒。
バルトの耳がぴくりと動く。
火種を吹き込むための管。
乾いた細枝を束ねた“種火”が、その筒の先に潜み、息ひとつで森の床に散る仕掛け。
男は、息を吸った。
バルトは、走った。
巨体が落ち葉を蹴り、地面と低い唸りを交わす。
男が驚き、管を捨てて逃げる。
フィンが弧を描いて回り込み、男の足首を狙う。
男は小刀を抜き、刃でフィンを払う。
刃は空を切り、フィンは獣道の草に紛れる。
バルトが前に出て、男の行く手を塞いだ。
男は刃を振り上げ——刃は地に落ちた。
ジャリクの拳が男の手首を打ち、刃が飛んだのだ。
猫科の獣人は静かに言った。
「火は、砂漠でも嫌われる。」
男は唇を噛み、吐き捨てる。
「お前らは——」
言葉は最後まで続かなかった。
グロムの影が、静かに男の後ろへ立っていたからだ。
石の拳が微かに握られる音だけが、森に落ちた。
リリが駆け寄り、男の腰の袋を見つけて顔をしかめる。
「樹脂に油……香りでごまかしてある。」
ミラの筆跡のように整った字の、商会の印。
金糸で縁取られた小さな札。
“金糸会”。
フィンが舌打ちし、尾を低く揺らす。
「これで三。全部、奴らの印だ。」
男は目を逸らし、吐息を乱した。
「仕事だ。道を通すのに、何が悪い。火は早い。森は遅い。」
リリは首を振り、紙を掲げた。
「掟は早い。書く手があれば、早くなる。——あなたたちの火より。」
男は拘束され、ミラの随員に引き渡された。
ミラは短く、しかしはっきりと言う。
「商会が動けば、都市も動く。——だから、止める書を、今夜のうちに出す。」
カレドの名が彼女の唇の裏で鳴り、風に溶けた。
彼は森の縁で人の道を繋ぎ、ミラは森の内で掟の言葉を紡ぐ。
二つの糸が、細く強く結ばれていく。
だが、火は一度で終わらない。
夕刻へ傾く陽の中で、風は向きを変え、別の樹帯の下草へ、小さな朱を置いた。
囁きは、いつも同じ声では来ない。
バルトは息を吐き、谷で引いた線を思い出す。
(“火止めの帯”。水の喉。土の襟。)
彼は前脚で地を掻き、湿りを掘り起こした。
グロムが呼吸のように石を運び、浅い溝の底に敷く。
フィンが獣道を走り、アナグマとテンに合図を散らし、掘る場所を増やす。
梢ではフクロウが東風から西風へ転じる合図を二度鳴き、カケスが火の粉の落ちる位置を叫ぶ。
リリは濡れ布と薬草を交換し、火の粉で荒れた皮膚に手のひらを置き、そのまま次の場所へ走る。
フェンリュクは雲腹を滑りつつ、影を薄く保って上空の煙の筋を読み、火の舌の次の伸び先を合図の影で示した。
バルトは動きのすべてを受け、最も弱いところへ身を置いた。
炎が地面を舐めようとした瞬間、その舌の根に前脚を差し込み、湿りと土とで押しつぶす。
熱が毛皮を焦がし、皮膚の下に針のような痛みが刺さる。
(痛みは、残る。——残る印は、次に早く動く手になる。)
日が落ち、空が藍に沈む時、火の囁きはようやく途切れた。
小さな赤がいくつか残り、それも獣たちの吐息と土の手で眠らされた。
湿った土の匂いが勝ち、焦げの甘さが遠のく。
谷から持ってきた皮袋は空になり、グロムの石の肩には黒い煤が斑に乗っている。
フィンが舌の端で前脚を舐め、息を整えた。
「……今回は、間に合った。」
フェンリュクが低く鳴き、雲の低いところから舞い降りる。
「上にも、火の歌は届いた。次は、もっと遠くで囁く。」
ミラは紙を広げ、短く書いた。
“火前の掟”。
“火を持つ者、森の縁にて名を記し、油を関所に預けること。”
“火を運ぶ理由を紙に書くこと。
火を使う場所を土に描くこと。
火のそばに水を置くこと。”
リリは頷き、指で土に同じ印をなぞった。
「掟は紙だけじゃ足りない。土にも、皮にも、匂いにも。」
彼女は腰の袋から乾いた樹脂を出し、標となる木の幹に薄く塗る。
樹脂には、野草の匂いが混ぜてある。
この匂いは、火止めの帯の“喉”の印。
嗅げばわかる掟。
人の鼻には弱く、獣の鼻には強い。
風が少し変わった。
夏の夜の入口にある、深い湿りと暗い土の匂い。
だが、その底に、金属の乾いた臭気がひそむ。
カケスが枝から声を落とした。
「南の道に、人の列。火じゃない。刃の匂い。」
フィンが立ち上がる。
リリが紙を胸にかかえ、赤いリボンをきゅっと結び直した。
ミラは書を巻き、胸元で押さえる。
フェンリュクは翼を広げ、夜風の筋を探る。
グロムは石の拳を握り、谷の方角へ一度顔を向けた。
バルトは森の暗さへ目を凝らし、静かに鼻を鳴らした。
(火は、囁いた。今度は、鉄が囁く。——聞こえている。)
人の列は、松明を掲げない。
代わりに、灯りを布で覆い、足音を抑え、鎖帷子の響きを麻布でくるみ、暗さを味方にしていた。
先頭の男が手を上げると、列は止まり、左右に散った。
森の“間”を避け、掟の線をわざと踏み越えようとしている。
フィンが歯を見せる。
「掟を知らないのではない。知っていて、踏む。」
ミラが顔をしかめた。
「……掟の作者を試しに来た。」
リリは前に出ようとした。
バルトは前脚を伸ばし、肩の前でそっとそれを止めた。
そして、彼女の掌に、土を少し乗せた。
(言葉はお前に。線は、俺に。)
バルトは一歩、また一歩と進む。
暗がりから現れた影が刃を上げる。
バルトは刃の線を見ずに、足の重心、肩の張り、肘の角度を見る。
次の動きは、そこに出る。
刃が落ちるより早く、前脚が刃の根を払い、男の膝が土へ沈む。
声は上がらない。
彼らはそれでも静かに動く者たちだ。
——訓練され、命じられている。
もう一人が背から回り、短槍の穂先が低く走る。
フィンが影から飛び、槍の柄を噛んで捻る。
穂先が逸れ、幹に刺さる。
ミラは短い笛を二度鳴らし、フェンリュクが高空から影を落とした。
影は刹那、彼らの心の呼吸を乱す。
グロムの足が地を踏み、微かな震動が走る。
足裏に「ここは石だ」という合図。
人の足は、ほんの一秒、遅れる。
バルトは、その一秒を掴む。
刃を持つ手首を土に押し込み、膝を折らせ、目を見ずに、呼吸の速さだけを感じ取る。
(殺さない。でも、通さない。)
列の後方から、低い声がした。
「下がれ。」
一人、他の影とは違う密度の男が前に出た。
顔は布で覆われ、瞳だけが月のない夜の水面のように冷たい。
腰で重い何かが鳴る。
鎖ではない。
——鉄の棒。
それは火の囁きと同じくらい、森に似合わぬ音だった。
男は棒を軽く振った。
空気がうねり、バルトの頬毛が僅かに逆立つ。
(重い。——魔術の鉄か。)
フィンが歯を鳴らす。
「王。こいつは、普通じゃない。」
男は棒の先で土をなぞった。
バルトが昼に刻んだ線の一つ。
彼はそこに、足を置いた。
線は消えない。
だが、踏まれた線は、次の線を求める。
バルトは前脚を広げ、低く構えた。
(線は、動く。
線は、守る者が立って初めて、線になる。)
男が踏み込んだ。
鉄の棒が弧を描き、空気がめくれ、土が少し跳ねる。
バルトは棒の根元に体を寄せ、肩で受け、重さを地へ落とす。
棒の衝撃が大地へ抜け、男の足が半歩、遅れる。
フィンが横から走り、男の膝裏へ短く当てる。
男は倒れない。
体幹が強い。
棒が返り、フィンの鼻先を掠めた。
血の匂いが、針のように短く鋭い。
リリが短く悲鳴を飲み込み、ミラが笛を三度鳴らす。
フェンリュクの影が二つに割れ、ひとつは男の背、ひとつは彼の視界の隅を掠める。
男は初めて視線をわずかに上げ——その一瞬、バルトは前脚を棒の根元から離し、土に描いた線の上に、己の体を重ねた。
(ここが、境界。越えるなら、折れる。)
男の棒が再び落ちる。
バルトは棒の外側を掴むように前脚を絡め、内へ引き込み、重さを自分の胸と地面の間に落とした。
棒が土にめり込み、男の手がわずかに開く。
フィンが走り、ジャリクが影から伸び、ミラの布が棒の先を包み、グロムの足が一度、地を鳴らした。
棒は手から離れ、土に沈んだ。
男は瞬きを二度だけし、無言で後退した。
その瞳は、今度は森の奥ではなく、バルトの足元を見ていた。
線を。
土の線を。
男は背を向け、列に合図し、影は森の縁へ溶けていった。
追撃はしない。
バルトは息を吐き、火の跡と同じように、足跡の浅さを確認した。
(まだ浅い。深くなる前に、掟を、目に入れさせる。)
静けさが戻ると、夜は一気に冷えた。
リリはフィンの鼻先に布を当て、薬草を揉み込む。
「ごめんね。私が叫びそうになって、影が揺れた。」
フィンは鼻を鳴らし、尻尾をほんの少しだけ打った。
「王の線は動かない。俺の傷は動く。それでいい。」
ミラは紙に短く記す。
“鉄の棒。
魔術の気配。
掟の線を試す者。”
フェンリュクが夜の空に戻り、梢の向こうから二度、低く鳴いた。
「上でも、線が見えた。細いが、光っていた。」
グロムは石の拳を開き、湿った土を掬い上げた。
その手から、土は落ちずに、掌に残った。
「湿り。壁になる。」
バルトは頷き、森の暗さに目を馴染ませた。
風下の遠いどこかで、また小さな甘い匂いが生まれている。
今度は火ではない。
蜜の匂い。
だが、その蜜は蜂の巣ではない。
人の手で煮詰められた、言葉の蜜。
約束。
取引。
誘い。
(“同盟”は、囁かない。——歌う。きれいに、遠くまで。)
谷へ戻る道すがら、リリが小さく口を開いた。
「バルト。掟は、書ける。でも、掟を守らせるには、もっと“目”がいる。村の人にも、森の掟を見てもらいたい。
……私、村で話す。」
フィンが肩をすくめる。
「また孤立するぞ。」
リリは笑った。
その笑みは強がりではなく、疲れた火を吹き消す時の静かな強さだった。
「孤立は慣れてる。でも、今は一人じゃない。」
赤いリボンが夜風に揺れ、暗闇の中でもわずかに色を持っていた。
バルトは鼻を鳴らし、彼女の肩の高さに前脚を下ろして土を叩いた。
三度。
リリは頷く。
「三十日も待たない。明日、話す。」
谷が見えた時、空の低いところで雲が淡く光った。
遠い雷ではない。
人の街の灯が、雲の腹を撫でているのだ。
《リューネ》。
外の世界が、こちらを見ている。
フィンが低く呟く。
「嵐の前の夜明けは、いつも静かだ。」
バルトは谷の中央の点に歩み、土に新しい線を引いた。
細く、しかし深く。
それは水の帯と重なり、火止めの襟をなぞり、見張り木へと伸び、最後に谷の縁で止まった。
(ここが、今の“終わり”。ここから先は、まだ描けない。——だから、守る。)
夜が完全に落ち、星が増えた。
森は息を取り戻し、火の囁きは夢の底へ沈む。
だが、鉄の囁きは土の下で息を潜め、言葉の歌は雲の腹で輪になって漂っている。
バルトは目を閉じた。
耳は開いたまま、鼻は風を読んだまま。
(選ぶ。受け入れる線と、拒む線。——どちらも、明日までに濃くする。)
そして、森の王は、静かに眠らない夜を始めた。
囁きは遠のき、また近づく。
そのたびに、土の線は一本ずつ増え、谷の心臓は、少しずつ強くなるのだった。
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