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第三部:「ベア・キングダム」
第4話「影の剣」
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夜の端は、墨を水で薄めたように村の屋根を染めていた。
森辺の村の柵は新しく、木肌の匂いがまだ若い。
だが、その若さは心許ない。
外灯の油は節約され、光は布で覆われ、夜目に慣れた者だけが歩ける細い路地が蜘蛛の糸のように走っている。
(ここは、あのテントの夜と違う。拍手の代わりに、刃の音が隠れている。)
リリ・ノポルは薬草小屋の扉を固く閉め、内側の閂を落とした。
机の上には、昼間まとめた「森の間の掟」の写しが三部。
一つは村長へ、一つは関所へ、もう一つは旅の商人へ渡すため。
手元の紙には、赤いリボンで小さな印がつけてある。
(言葉は、厚すぎても薄すぎても届かない。人の耳は、都合の良いところだけ拾うから。——だから、大事なところは“短く、はっきり”。)
窓の外で、猫が低く鳴いた。
その鳴き方は、村の猫ではない。
フィンが路地の陰から顔を覗かせ、目だけで合図した。
リリは灯りを消し、扉の隙間から外へ出る。
夜気が頬に張りつき、夏の名残りの草いきれが鼻に触れた。
「来てくれたんだね。」
フィンは鼻を鳴らし、土の上に素早く爪で印を刻む。
短い点が三つ、線が二つ。
「三人。外の刃。——村の中に入っている。」
リリの喉がきゅっと締まる。
「誰を……?」
フィンは柵の方を見て、尾を低く振った。
「お前だ。そして、多分、村の“声を持つ者”。掟を配る前に、声を折るつもりだ。」
遠くで、犬の吠え声が三度短く切れた。
それは合図にも、悲鳴にも聞こえない調子。
リリは紙束を体の前に抱え、息を整える。
「逃げたら、掟は噂になる。残れば、掟は“嘘だ”って言われる。」
フィンは彼女の膝に額を当て、目を細めた。
「逃げないでいい。だが、“一人では立たない”。俺が走る。影の音は、風で消す。」
リリは頷き、薬草籠を肩にかけた。
籠の底には、バルトと一緒に考えた“匂いの印”が詰まっている。
樹脂に混ぜた野草と土。
火止めの喉の匂い。
見張り木の葉の匂い。
近寄ると眠くなる薬草の匂い。
(言葉が刃なら、匂いは網。刃は網に引っかかる。)
*
村長宅の裏庭には、古い楢の木が一本立っている。
その影に、すでに“影”がいた。
顔に布、手には短い刃。
足取りは軽く、木の根の位置を知っている動き。
(村人じゃない。でも、“歩き方”は、ここを歩き慣れている。)
リリは庭の縁に立ち、あえて声を出した。
「こんな夜に、何の用です?」
影が一瞬固まり、すぐ緩む。
刃の先が星明かりを吸い、細い光が喉元まで滑る。
「掟を、見に来た。」
声は若い。
怖れが混じるが、命令に従う硬さの方が勝っている。
リリは紙を一枚、胸の高さまで上げた。
「見るなら、明日にしてください。夜に読む掟は、盗み見た噂と同じになります。」
影が一歩寄る。
フィンはすでに、壁と影の間に潜って位置を取っている。
風がわずかに裏路地から回り込み、影の足元の土が薄く乾く。
リリは薬草籠から、小さな陶片に染み込ませた“眠り草”の匂いを取り出し、楢の根元にそっと置いた。
樹皮のひびに指先で押し込む。
(眠れ。——寝るのは、悪いことじゃない。)
影は気づかない。
刃が一段低い軌道で持ち上がり、差し伸べた紙の上辺を狙う。
その手首に、低い力が絡んだ。
フィンが噛むのでなく、前脚で“押す”。
刃の線がそれ、紙は破けない。
影は驚いて後ろに跳ぶ。
その踵が、眠り草の染みた土を踏む。
呼吸が一瞬乱れ、目が細くなる。
「何だ……?」
リリは紙を下げず、声を落とした。
「掟は、人を殺しません。」
影は答えない。
だが、わずかに足を引く。
眠りは刃ではない。
むしろそれが、影の心を少し緩めた。
緩みは隙だが、同時にやめる理由にもなる。
(やめて。やめられるなら、今。)
しかし、楢の影の先に、別の影がいた。
今度は、眠り草を避ける歩幅。
刃の角度が低く、肩が落ち、喉が閉じている。
殺しに来た歩き方。
フィンが低く唸る。
「二人目。こっちは、噛むぞ。」
リリは足を踏ん張り、紙を背に持ち替える。
掟は背。
刃は、正面。
(逃げない。逃げ場を、作る。)
彼女は籠からもうひとつ、今度は鼻を刺す“辛い樹脂”の玉を取り出し、影の足元へ投げた。
玉は弾け、鼻腔を強く打つ匂いが立つ。
影の呼吸が乱れ、刃の軌道が細く揺れる。
その一瞬、フィンが飛び、膝の外側を前脚で叩く。
影は崩れながら、なおも刃を持ち上げた。
刃はリリの肩口を掠めた。
浅い切り傷。
暖かい線が肌に走り、布が湿る。
「っ……!」
リリは声を飲み込んだ。
(痛みは、知らせだ。倒れる理由じゃない。)
彼女は紙を地面に広げ、血の指で掟の上に手を置く。
「——見なさい。」
影の目が、ほんの刹那、紙へ落ちる。
そこに、文字がある。
“火は無く。
刃は遠く。
足は遅く。
声は低く。
——森の間に入るもの、すべて。”
読み慣れない男の目にも、意味が喉に落ちたようだった。
迷いが生まれる。
その迷いの隙間に、風が入る。
フィンの尻尾が低く揺れ、犬の吠えが遠くで重なった。
村の犬が、一斉に三度吠える。
それは、村人への合図。
誰かが扉を開け、松明が灯り、その光が楢の幹に移る。
影は光を嫌って後退し、布の奥で舌を打つ。
「仕事だ。掟で飯は食えない。」
リリは、息を整え、声を強くした。
「あなたの飯は、火で焼いたパンですか。刃で切った肉ですか。それを運ぶ道が、燃えたらどうします。」
影が言葉を詰まらせた。
刃の先がわずかに下がる。
もう一人の、眠り草の方の影は、楢の根元で膝を折り、肩で呼吸をしている。
彼は殺しには来なかった者だ。
命令より先に、眠気と恐れが勝った。
(引け。今なら、引ける。)
影は二人、目だけでやりとりをし、柵の影の方へ溶けた。
フィンが追わない。
追えば、刃は背に回る。
ここは村。
森の律ではなく、人の律が支配する場所。
(ここで血を流せば、掟は“獣の掟”に戻る。)
村長が裏戸から出てきた。
白髪の間から、目だけが若い。
リリの肩の血に顔をしかめ、そして紙に目を落とした。
「……何を、した。」
リリは息を吸い、短く告げる。
「掟を、見せました。そして、刃を眠らせました。」
村長は長い沈黙のあと、頷いた。
「明日、広場で話せ。掟を読み上げろ。私も立つ。」
(届く。——届くなら、痛みは軽い。)
*
同じ時刻、村の反対側、納屋の影。
別の“影の剣”が、別の標的へと近づいていた。
標的は、熊でも少女でもない。
狼だった。
フィンは楢の庭にいる——そう彼らは見立てた。
だが狼の匂いは、あちこちに散っている。
路地の角、堆肥の山、井戸の縁。
それは意図的に撒かれた“匂いの幻”だった。
影は匂いを追い、納屋の裏で足を止める。
そこに、尻尾を入れて丸まった一匹の狼がいる。
寝息は浅く、耳が動かない。
——と、見えた。
影が刃を上げた瞬間、狼の体が土に崩れた。
草を詰めた灰色の毛皮——リリが古い敷物で作った囮だ。
上から、細い縄が落ち、影の手首に絡む。
その縄は、納屋の梁から走り、畑の杭へ繋がっている。
杭の後ろで、子どもが一人、縄を引いた。
少年は震えながらも歯を食いしばり、影の手を地面へ引き落とした。
「い、今だ!」
別の少年が石を投げる。
石は影の肩に当たり、刃が土に落ちる。
寝藁の中から、低い唸り声。
本物のフィンが影の背へ飛び、押し倒す。
「走れ!」
少年たちは悲鳴と笑いの中間の声を上げて納屋から飛び出し、犬が二匹吠えながら尾を振って後を追った。
影は地面を蹴り、手甲から小さな刃を外して振るった。
フィンは頭をひねり、それを耳の際で避ける。
刃は藁に刺さり、乾いた匂いが短く跳ねた。
フィンは影の手首を噛まず、逆の足首を前脚で押し、体重をかけて動きを奪った。
「噛めば、血が出る。血が出れば、掟は汚れる。」
影は呻き、手を伸ばした。
その先で、納屋の扉が開く。
農夫が鍬を握り、目を見開いて立っている。
「お、おい——」
フィンは農夫の目を見て、一度だけ短く吠えた。
それは森の合図ではなく、村の合図。
“今、見るな。
扉を閉めろ。”
農夫は理解した。
鍬を下げ、扉を閉め、閂を落とす音が夜に吸い込まれた。
影は諦め、土の中へ溶けるように退いた。
フィンは追わない。
(今日は、境界を“悟らせる日”。殺す日じゃない。)
*
その頃、森の縁。
バルトは谷の外、見張り木の根で、風を読んでいた。
遠いところで、鉄が噛み合う音がした気がした。
甘い蜜の歌が、雲の腹で輪を作る。
そして——地の奥で、別の震え。
ザルガスではない。
石でもない。
人でもない。
(……何かが、笑った。)
風の層が一枚めくれ、古い樹の記憶が鼻を通る。
そこに、湿った皮の匂い。
布ではない。
——獣の皮。
(獣人……?違う。これは、“被った”匂いだ。)
フィンの足音が、地を柔らかく叩いて近づく。
「村は持ちこたえた。怪我は浅い。影の剣は、森を知らない。だが——」
フィンは鼻を上げ、同じ匂いを嗅いだ。
「外に、もう一つの影。“森に化けた人”がいる。」
バルトは前脚で土を押さえ、線を一本引いた。
それは村と森の間に、もう一本の薄い境界を作る線。
(人の影に、森の仮面。——掟にも、仮面を剥ぐ条《くだり》が要る。)
リリが走ってきて、肩に布を当てた。
布は薬草の匂いがして、傷の熱をやさしく奪う。
彼女は手に紙を持ち、息を整えながら告げた。
「村の広場で、明日、読み上げます。村長が立ってくれる。でも、“金糸会”の手の者が紛れてる。言葉の歌で掟を甘くしようとする。」
フィンが鼻を鳴らす。
「歌に歌で返すのは、お前の仕事だ。俺の仕事は、影を薄くすること。」
フェンリュクが梢から滑り降り、翼を畳んだ。
「空からも、歌が聞こえる。“同盟の歌”と“金の歌”。音は似ている。」
リリは笑ってみせ、紙を胸に置いた。
「なら、私たちの歌は“土の歌”。匂いと線と、低い声。——高すぎる歌は、風に消えます。」
グロムが石の拳を握り、短く言った。
「壁は低く、広く。門は狭く、深く。」
バルトは皆の顔を見た。
リリの目は燃えているが、押しつぶされてはいない。
フィンの耳は立ち、尻尾は落ち着き、牙は隠れている。
フェンリュクの瞳は高空の色を写し、グロムの肩には煤がまだ残る。
(孤独ではない。——だから、選べる。)
夜がさらに深まり、森も村も、眠る者と見張る者の呼吸が重なった。
影はまだ動く。
だが、影は影だ。
掟に光が宿れば、輪郭ができる。
輪郭ができれば、触れられる。
触れられれば、選べる。
選べば、責任が生まれる。
責任は、重い。
(重さを、俺が持つ。
お前たちは、歌え。)
バルトは土に短く印を刻み、鼻で軽く鳴いた。
それは、谷で何度も交わしてきた、静かな合図。
“ここにいる。——明日もいる。”
夜風が、赤いリボンの端をやさしく撫でた。
村の奥で、犬が一度だけ吠え、すぐに黙る。
影の剣は、森の外側へ薄まり、代わりに雲の腹の歌が少し強くなった。
約束の声。
取引の声。
争いの予告。
そして、どこか遠くで、古い神の息のようなものが、森全体を一度だけ撫でていった。
(見ている。——なら、見せよう。吠えない王の、線の引き方を。)
夜は、やがて、東の色をほんの少し淡くした。
嵐はまだ来ない。
だが、風向きは、変わった。
掟が、ひとつの面になり、森と村の間に、低く広く、置かれようとしている。
その上に、王は立ち、影は試し、歌は争い、そして、朝はまた来る。
森辺の村の柵は新しく、木肌の匂いがまだ若い。
だが、その若さは心許ない。
外灯の油は節約され、光は布で覆われ、夜目に慣れた者だけが歩ける細い路地が蜘蛛の糸のように走っている。
(ここは、あのテントの夜と違う。拍手の代わりに、刃の音が隠れている。)
リリ・ノポルは薬草小屋の扉を固く閉め、内側の閂を落とした。
机の上には、昼間まとめた「森の間の掟」の写しが三部。
一つは村長へ、一つは関所へ、もう一つは旅の商人へ渡すため。
手元の紙には、赤いリボンで小さな印がつけてある。
(言葉は、厚すぎても薄すぎても届かない。人の耳は、都合の良いところだけ拾うから。——だから、大事なところは“短く、はっきり”。)
窓の外で、猫が低く鳴いた。
その鳴き方は、村の猫ではない。
フィンが路地の陰から顔を覗かせ、目だけで合図した。
リリは灯りを消し、扉の隙間から外へ出る。
夜気が頬に張りつき、夏の名残りの草いきれが鼻に触れた。
「来てくれたんだね。」
フィンは鼻を鳴らし、土の上に素早く爪で印を刻む。
短い点が三つ、線が二つ。
「三人。外の刃。——村の中に入っている。」
リリの喉がきゅっと締まる。
「誰を……?」
フィンは柵の方を見て、尾を低く振った。
「お前だ。そして、多分、村の“声を持つ者”。掟を配る前に、声を折るつもりだ。」
遠くで、犬の吠え声が三度短く切れた。
それは合図にも、悲鳴にも聞こえない調子。
リリは紙束を体の前に抱え、息を整える。
「逃げたら、掟は噂になる。残れば、掟は“嘘だ”って言われる。」
フィンは彼女の膝に額を当て、目を細めた。
「逃げないでいい。だが、“一人では立たない”。俺が走る。影の音は、風で消す。」
リリは頷き、薬草籠を肩にかけた。
籠の底には、バルトと一緒に考えた“匂いの印”が詰まっている。
樹脂に混ぜた野草と土。
火止めの喉の匂い。
見張り木の葉の匂い。
近寄ると眠くなる薬草の匂い。
(言葉が刃なら、匂いは網。刃は網に引っかかる。)
*
村長宅の裏庭には、古い楢の木が一本立っている。
その影に、すでに“影”がいた。
顔に布、手には短い刃。
足取りは軽く、木の根の位置を知っている動き。
(村人じゃない。でも、“歩き方”は、ここを歩き慣れている。)
リリは庭の縁に立ち、あえて声を出した。
「こんな夜に、何の用です?」
影が一瞬固まり、すぐ緩む。
刃の先が星明かりを吸い、細い光が喉元まで滑る。
「掟を、見に来た。」
声は若い。
怖れが混じるが、命令に従う硬さの方が勝っている。
リリは紙を一枚、胸の高さまで上げた。
「見るなら、明日にしてください。夜に読む掟は、盗み見た噂と同じになります。」
影が一歩寄る。
フィンはすでに、壁と影の間に潜って位置を取っている。
風がわずかに裏路地から回り込み、影の足元の土が薄く乾く。
リリは薬草籠から、小さな陶片に染み込ませた“眠り草”の匂いを取り出し、楢の根元にそっと置いた。
樹皮のひびに指先で押し込む。
(眠れ。——寝るのは、悪いことじゃない。)
影は気づかない。
刃が一段低い軌道で持ち上がり、差し伸べた紙の上辺を狙う。
その手首に、低い力が絡んだ。
フィンが噛むのでなく、前脚で“押す”。
刃の線がそれ、紙は破けない。
影は驚いて後ろに跳ぶ。
その踵が、眠り草の染みた土を踏む。
呼吸が一瞬乱れ、目が細くなる。
「何だ……?」
リリは紙を下げず、声を落とした。
「掟は、人を殺しません。」
影は答えない。
だが、わずかに足を引く。
眠りは刃ではない。
むしろそれが、影の心を少し緩めた。
緩みは隙だが、同時にやめる理由にもなる。
(やめて。やめられるなら、今。)
しかし、楢の影の先に、別の影がいた。
今度は、眠り草を避ける歩幅。
刃の角度が低く、肩が落ち、喉が閉じている。
殺しに来た歩き方。
フィンが低く唸る。
「二人目。こっちは、噛むぞ。」
リリは足を踏ん張り、紙を背に持ち替える。
掟は背。
刃は、正面。
(逃げない。逃げ場を、作る。)
彼女は籠からもうひとつ、今度は鼻を刺す“辛い樹脂”の玉を取り出し、影の足元へ投げた。
玉は弾け、鼻腔を強く打つ匂いが立つ。
影の呼吸が乱れ、刃の軌道が細く揺れる。
その一瞬、フィンが飛び、膝の外側を前脚で叩く。
影は崩れながら、なおも刃を持ち上げた。
刃はリリの肩口を掠めた。
浅い切り傷。
暖かい線が肌に走り、布が湿る。
「っ……!」
リリは声を飲み込んだ。
(痛みは、知らせだ。倒れる理由じゃない。)
彼女は紙を地面に広げ、血の指で掟の上に手を置く。
「——見なさい。」
影の目が、ほんの刹那、紙へ落ちる。
そこに、文字がある。
“火は無く。
刃は遠く。
足は遅く。
声は低く。
——森の間に入るもの、すべて。”
読み慣れない男の目にも、意味が喉に落ちたようだった。
迷いが生まれる。
その迷いの隙間に、風が入る。
フィンの尻尾が低く揺れ、犬の吠えが遠くで重なった。
村の犬が、一斉に三度吠える。
それは、村人への合図。
誰かが扉を開け、松明が灯り、その光が楢の幹に移る。
影は光を嫌って後退し、布の奥で舌を打つ。
「仕事だ。掟で飯は食えない。」
リリは、息を整え、声を強くした。
「あなたの飯は、火で焼いたパンですか。刃で切った肉ですか。それを運ぶ道が、燃えたらどうします。」
影が言葉を詰まらせた。
刃の先がわずかに下がる。
もう一人の、眠り草の方の影は、楢の根元で膝を折り、肩で呼吸をしている。
彼は殺しには来なかった者だ。
命令より先に、眠気と恐れが勝った。
(引け。今なら、引ける。)
影は二人、目だけでやりとりをし、柵の影の方へ溶けた。
フィンが追わない。
追えば、刃は背に回る。
ここは村。
森の律ではなく、人の律が支配する場所。
(ここで血を流せば、掟は“獣の掟”に戻る。)
村長が裏戸から出てきた。
白髪の間から、目だけが若い。
リリの肩の血に顔をしかめ、そして紙に目を落とした。
「……何を、した。」
リリは息を吸い、短く告げる。
「掟を、見せました。そして、刃を眠らせました。」
村長は長い沈黙のあと、頷いた。
「明日、広場で話せ。掟を読み上げろ。私も立つ。」
(届く。——届くなら、痛みは軽い。)
*
同じ時刻、村の反対側、納屋の影。
別の“影の剣”が、別の標的へと近づいていた。
標的は、熊でも少女でもない。
狼だった。
フィンは楢の庭にいる——そう彼らは見立てた。
だが狼の匂いは、あちこちに散っている。
路地の角、堆肥の山、井戸の縁。
それは意図的に撒かれた“匂いの幻”だった。
影は匂いを追い、納屋の裏で足を止める。
そこに、尻尾を入れて丸まった一匹の狼がいる。
寝息は浅く、耳が動かない。
——と、見えた。
影が刃を上げた瞬間、狼の体が土に崩れた。
草を詰めた灰色の毛皮——リリが古い敷物で作った囮だ。
上から、細い縄が落ち、影の手首に絡む。
その縄は、納屋の梁から走り、畑の杭へ繋がっている。
杭の後ろで、子どもが一人、縄を引いた。
少年は震えながらも歯を食いしばり、影の手を地面へ引き落とした。
「い、今だ!」
別の少年が石を投げる。
石は影の肩に当たり、刃が土に落ちる。
寝藁の中から、低い唸り声。
本物のフィンが影の背へ飛び、押し倒す。
「走れ!」
少年たちは悲鳴と笑いの中間の声を上げて納屋から飛び出し、犬が二匹吠えながら尾を振って後を追った。
影は地面を蹴り、手甲から小さな刃を外して振るった。
フィンは頭をひねり、それを耳の際で避ける。
刃は藁に刺さり、乾いた匂いが短く跳ねた。
フィンは影の手首を噛まず、逆の足首を前脚で押し、体重をかけて動きを奪った。
「噛めば、血が出る。血が出れば、掟は汚れる。」
影は呻き、手を伸ばした。
その先で、納屋の扉が開く。
農夫が鍬を握り、目を見開いて立っている。
「お、おい——」
フィンは農夫の目を見て、一度だけ短く吠えた。
それは森の合図ではなく、村の合図。
“今、見るな。
扉を閉めろ。”
農夫は理解した。
鍬を下げ、扉を閉め、閂を落とす音が夜に吸い込まれた。
影は諦め、土の中へ溶けるように退いた。
フィンは追わない。
(今日は、境界を“悟らせる日”。殺す日じゃない。)
*
その頃、森の縁。
バルトは谷の外、見張り木の根で、風を読んでいた。
遠いところで、鉄が噛み合う音がした気がした。
甘い蜜の歌が、雲の腹で輪を作る。
そして——地の奥で、別の震え。
ザルガスではない。
石でもない。
人でもない。
(……何かが、笑った。)
風の層が一枚めくれ、古い樹の記憶が鼻を通る。
そこに、湿った皮の匂い。
布ではない。
——獣の皮。
(獣人……?違う。これは、“被った”匂いだ。)
フィンの足音が、地を柔らかく叩いて近づく。
「村は持ちこたえた。怪我は浅い。影の剣は、森を知らない。だが——」
フィンは鼻を上げ、同じ匂いを嗅いだ。
「外に、もう一つの影。“森に化けた人”がいる。」
バルトは前脚で土を押さえ、線を一本引いた。
それは村と森の間に、もう一本の薄い境界を作る線。
(人の影に、森の仮面。——掟にも、仮面を剥ぐ条《くだり》が要る。)
リリが走ってきて、肩に布を当てた。
布は薬草の匂いがして、傷の熱をやさしく奪う。
彼女は手に紙を持ち、息を整えながら告げた。
「村の広場で、明日、読み上げます。村長が立ってくれる。でも、“金糸会”の手の者が紛れてる。言葉の歌で掟を甘くしようとする。」
フィンが鼻を鳴らす。
「歌に歌で返すのは、お前の仕事だ。俺の仕事は、影を薄くすること。」
フェンリュクが梢から滑り降り、翼を畳んだ。
「空からも、歌が聞こえる。“同盟の歌”と“金の歌”。音は似ている。」
リリは笑ってみせ、紙を胸に置いた。
「なら、私たちの歌は“土の歌”。匂いと線と、低い声。——高すぎる歌は、風に消えます。」
グロムが石の拳を握り、短く言った。
「壁は低く、広く。門は狭く、深く。」
バルトは皆の顔を見た。
リリの目は燃えているが、押しつぶされてはいない。
フィンの耳は立ち、尻尾は落ち着き、牙は隠れている。
フェンリュクの瞳は高空の色を写し、グロムの肩には煤がまだ残る。
(孤独ではない。——だから、選べる。)
夜がさらに深まり、森も村も、眠る者と見張る者の呼吸が重なった。
影はまだ動く。
だが、影は影だ。
掟に光が宿れば、輪郭ができる。
輪郭ができれば、触れられる。
触れられれば、選べる。
選べば、責任が生まれる。
責任は、重い。
(重さを、俺が持つ。
お前たちは、歌え。)
バルトは土に短く印を刻み、鼻で軽く鳴いた。
それは、谷で何度も交わしてきた、静かな合図。
“ここにいる。——明日もいる。”
夜風が、赤いリボンの端をやさしく撫でた。
村の奥で、犬が一度だけ吠え、すぐに黙る。
影の剣は、森の外側へ薄まり、代わりに雲の腹の歌が少し強くなった。
約束の声。
取引の声。
争いの予告。
そして、どこか遠くで、古い神の息のようなものが、森全体を一度だけ撫でていった。
(見ている。——なら、見せよう。吠えない王の、線の引き方を。)
夜は、やがて、東の色をほんの少し淡くした。
嵐はまだ来ない。
だが、風向きは、変わった。
掟が、ひとつの面になり、森と村の間に、低く広く、置かれようとしている。
その上に、王は立ち、影は試し、歌は争い、そして、朝はまた来る。
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積みかけアラフォーOL、公爵令嬢に転生したのでやりたいことをやって好きに生きる!
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