ベア・キングダム

naomikoryo

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第三部:「ベア・キングダム」

第5話「ベア・キングダムの宣言」

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朝の霧は薄く、村の広場は粘土色の土が乾き、靴底の跡が蜘蛛の巣のように残っていた。
屋台は閉じられ、荷車は端に寄せられ、臨時の台が二段組まれている。
台の上には、白い布と、黒い炭筆、樹脂を染み込ませた小瓶。
布の端は石で押さえられ、風で皺がさざめくたびに光が細く走る。

(線を、ここに置く。土の上でだけでなく、人の目の前に。)

リリ・ノポルは赤いリボンを結び直し、両手で胸の鼓動を一度押さえた。
肩口の傷は布に隠れ、薬草の匂いがかすかに立つ。
広場の周りには、村人、商人、兵の影が混じっている。
子どもは親の背から覗き、犬は尻尾を落として座り、老女は杖を握り、若い男は腕を組んだ。
彼らの目は、それぞれに違う光を宿し、同じ一点を待っていた。
台の手前、地面に丸い印が描かれている。
楕円と、その中央の点。
外側にもう一つの大きな円。
円と円を繋ぐ、四本の細い橋。
それは、谷で幾度も刻まれた「王の印」。
今日、初めて人の広場の真ん中に置かれた。

フィンは台の陰に身を伏せ、耳を立てて群衆のざわめきの流れを読む。
グロムは広場の外れの大樹の陰に座り、目を閉じて呼吸を整える。
フェンリュクは雲腹のすぐ下を滑り、影を薄くしながら気流を測る。
カレド・ファーレンとミラ・オルドは広場の脇に立ち、使者の外套を暑さの中でも整えている。
彼らの足元には、封蠟の押された筒が二つあり、その一つがリリの足元の布の上に置かれている。

(歌を高くしない。土の声で話す。——ここは、森の扉の手前。)

正午の鐘が二度、遠い教会から低く響いた。
村長が台に上がり、咳払いを一つ。
白髪の下の目は、昨夜よりさらに固い。

「森辺の村の民よ。今日は、“掟”を聞く。森の王——バルトの名の下に、“森の間”に立つ者の掟だ。」

ざわめきの波が広がり、すぐに引いた。
リリが台の上に一歩進み、深く息を吸う。
空は薄い青。
雲は細い糸で、風は白い布の皺を撫でるだけ。

(怖い。——でも、怖さは前に押してくれる力にもなる。)

彼女は炭筆を取り、白布の上の左端に最初の一画を下ろした。

「一。火は、森の外で息を吸い、森の中で眠ること。火を持ち込む者は、入口で油と火種を預け、理由を土に記すこと。」

句点。
筆が止まり、空気の面が一枚変わる。
紙の“黒”が布の“白”に食い込み、音のない音を立てる。
リリは続ける。

「二。刃は、森の間では遠く。刃を運ぶ者は布で包み、抜かず、見せず、見つけても騒がないこと。刃を抜くのは、水と命が危うい時だけ。」

句点。
兵の列の端で、誰かが喉を鳴らし、沈黙で咳を飲み込む。

「三。足は、遅く。車は、軽く。蹄は、柔らかく。道は、森の“細い橋”に合わせ、季節の間に従うこと。」

句点。
商人たちの背がわずかに揺れ、手の中で布袋の口紐が音を立てないように結び直される。

「四。声は、低く。歌は、短く。子の巣と雛の耳に、影と静けさを。」

句点。
子どもが親の背で目を瞬き、梟の鳴き声を真似しかけて親に肩をつつかれる。

「五。掟は、紙だけではなく、土と匂いに記すこと。見張り木の樹皮に、印の樹脂を。水の喉と火止めの襟に、鼻で読める道標を。」

句点。
ミラが微かに笑み、紙束の端を整える。
リリは黒を置き、樹脂小瓶の栓を抜く。
風に揺れながらも、滴は“喉”の印として布に丸く落ち、匂いがごく薄く広がった。
それは人にはほとんどわからず、犬と獣人の鼻にははっきりと届く。
フェンリュクが遠くで喉を鳴らし、影をさらに薄くする。

(文字だけでは、足りない。匂いを混ぜる。線は、目だけのものではない。)

群衆の中から、乾いた声が飛んだ。

「掟を作るのは誰だ。人か、獣か。」

リリは顔を上げ、声の方を見た。
金糸会の印の腕輪が袖からわずかに覗いている。
男は薄笑いの口元で、首をすくめる。

「掟は飯をくれない。森は静かで、腹は鳴る。森の王が、腹を満たしてくれるのか。」

ざわめきが荒くなりかけ、村長が杖で台を軽く叩く。
音が集まり、目が戻る。
リリは黒の粉で指先を黒くし、その指で布の中央の円をなぞった。

「——ここを“ベア・キングダム”と呼びます。」

空気が止まり、次の瞬間に色を変えた。
言葉が名をつける時、場所は“ただの場所”でいることをやめる。
視線がいっせいに布の中心に吸い込まれ、印が地図のように見え始める。

「王は吠えません。でも、立ちます。掟は、誰かの腹を満たすためではなく、腹が鳴る者が腹を満たす道を残すためにあります。」

句点。
金糸会の男が鼻で笑い、手を上げた。

「名をつければ領地か。紙に描けば国か。なら、印税は誰が取る。」

その時、土の音が一つ落ちた。
広場の端から、巨大な影が歩いてくる。
バルトだった。
村の犬が吠えずに尾を揺らし、子どもが息を止め、大人が反射的に半歩引く。
バルトは布の前に立ち、ゆっくりと前脚を上げ、布の中央の点に置いた。
その動きは、舞台の一幕のように静かで、しかし誰の目にも止まらなかった者はいない。
彼はもう片方の前脚で、外側の円を軽く叩いた。

“ここが、境界”。
“ここが、守る中心”。
その二つの意味が、言葉のない音で広場に降りた。

(言葉はいらない。線が語る。——線の上に立つ者が、語る。)

フィンが台の下から出てきて、短く吠えた。
それは谷で、仲間に合図する時の“始まり”の声。
グロムが大樹の陰から立ち上がり、石の拳を胸に当て、ゆっくりと叩く。
石が石を鳴らす低い音が、広場の土を柔らかく震わせた。
フェンリュクが高空で一度だけ輪を描き、その影が布の外円を沿って滑る。
ミラは紙を高く掲げ、カレドは右手を胸に当て、短く頭を垂れた。
村長は杖を地に置き、両手を布の両端に当てた。
その所作は、古い祭礼のように静かで、権力の演説のような荒さはない。

リリは最後の一文を書き入れた。

「六。森の王は、言葉を話さない。ゆえに、王の意は“行い”と“線”と“匂い”で伝えられること。王の代弁は、森に生きる者と、森を通る者の“合意”によってのみなされること。」

句点。
彼女は炭筆を置き、布から一歩下がった。
金糸会の男が何か言おうと口を開く。
その前に、別の声が割り込んだ。
老人の声。
隻眼の漁師だ。

「川は“掟”がなくても流れる。だが“網”がなければ魚はすぐ死ぬ。掟は網だ。破れ目は縫えばいい。燃やすのは、阿呆だけだ。」

笑いが何人かの口端に生まれ、若い男が腕を組み直し、女が子の頭を撫でた。
兵の列の端にいた一人が、槍の石突を土に軽くつく。
それは同意か、礼儀か、本人にもわからない小さな合図。
だが、音は土に印を残す。

カレドが一歩前へ進み、村長に向き直る。

「リューネは、これを“覚書”として受け取りたい。森の掟は、我らの通行の掟でもある。“ベア・キングダム”の名を、文書に記す。」

金糸会の男が唇を歪める。

「街は紙が好きだ。紙は火が好きだ。」

ミラが静かに笑った。

「だから、土にも匂いにも残すのです。——あなたが火を好むなら、あなたの手から油を外で預かります。」

男の目が細くなり、視線がバルトへ流れる。
挑発の火が一瞬立ちかけ、すぐに消える。
バルトはただ、立っている。
彼の背は風で揺れず、目は誰も刺さない。
しかし、誰もその目の前を通り過ぎて布を踏もうとはしない。

(立つだけでいい。ここは、もう“舞台”じゃない。——ここは、場だ。)

リリは布の端を持ち、白布を台からそっと下ろした。
村長がそれを受け、広場の中央の掲示板に掛ける。
釘は打たれない。
木の楔で、布を挟む。
布の上で、樹脂の薄い輪が光り、風に乗って微かに匂う。
子どもが鼻をひく、とさせ、犬が尻尾を揺らした。

「これが、“宣言”です。」

リリの声は大きくはない。
だが、広場の隅まで届いた。

「ベア・キングダムは、森の間に“低い壁”を置きます。門は狭く、深く。来る者は、遅く、軽く。去る者は、静かに。——それが嫌いなら、迂回してください。」

句点。
沈黙。
次の瞬間、拍手が一つ。
老女の両手がゆっくりと打ち合わさる。
それに続き、子どもの手がぱちんと鳴り、農夫の手が土を叩くように鳴り、兵の手袋が布の音を立て、商人の指輪が互いにわずかにぶつかる音が混ざる。
拍手はやがて均一をやめ、それぞれの速さと間を持つ。
谷の拍手を、バルトはよく知っている。
ここでの拍手は違う。
でも、悪くない。

(拍手は、線に風を入れる。風は、火ではない。)

カレドが封筒を開き、ミラが筆を走らせる。

「“ベア・キングダム”の名と、掟の骨子。“上からの影は薄く”。“地の合図は匂いで”。“火はなし”。——リューネ代表、仮署。」

彼は最後に筆を置き、リリへ差し出した。

「あなたの名も、ここに。」

リリは首を横に振り、布と土を示した。

「私は“橋”です。名前は、橋に刻みません。——土に残れば、十分です。」

ミラは微笑み、代わりに欄外に小さく“森辺の村の娘”とだけ書き添えた。

その時、広場の外れで、鈍い鳴動が一つした。
グロムが振り向き、フィンが耳を伏せ、バルトの毛がほんの少し逆立つ。
遠くの街道の方角から、鉄の軋みと、布で覆った灯りの鈍色。
金糸会の列だ。
松明は持たず、火は隠し、掟の掲示の瞬間を見計らっていた。
広場の空気が緊張し、兵の手が槍の柄を握る。
バルトは一歩、布の前へ出た。
前脚を、布の下の土に強く置いた。
フィンが低く吠え、フェンリュクが高空で輪を描く。
リリは大きく息を吸い、声を張った。

「——掟に従ってください。」

金糸会の先頭の男が騎乗の上で顎を上げ、布を一瞥する。
腕輪の金糸が曇り、目の奥が冷たい。
彼は手を上げ、列に合図した。
列は止まり、数人が荷から油瓶を下ろし、村の関所の方へ向かう。
油を預けるために。
彼らは掟を破らない。
今は、破れない。
広場の“場”が、彼らの足の下の土を固くしている。

(今日の線は、通った。——明日はまた、別の線を引く。)

夕暮れが広場の影を長くし、布の白は橙に染まった。
村長は掲示板の前に立ち続け、誰が見に来ても同じ調子で指をさし、同じ言葉で“短く、はっきり”説明した。
子どもは布の匂いを嗅いで笑い、老人は杖で地を突き、新しい線の上に自分の足を置いてみる。
兵は槍を土に軽く刺し、商人は帳面に小さく印をつけ、犬は疲れて眠った。
バルトは布の前から退き、広場の端へ移り、丸い木玉に前脚をかけた。
玉はリリが夜なべで削った柔らかな木。
バルトがそっと乗ると、玉は土の上で静かに転がる。
群衆のざわめきが一瞬だけ笑いへ弾け、すぐに温かさに戻る。

(舞台ではない。でも、これは、俺だ。——ここに居る、という印。)

夜が降り、灯りが点り、布は暗がりの中で白い島のように浮いた。
カレドは外套の裾を直し、ミラと短く言葉を交わす。
フェンリュクは見張り木の上の止まり石に移り、翼を畳んだ。
グロムは石塀を背に座り、目を閉じ、耳だけを開いた。
フィンは路地の影を一つずつ覗き、匂いの網に新しい結び目を増やした。
リリは布の前に立ち、指で掟をなぞり、深く頷いた。
バルトは広場の端で空を仰ぎ、胸の奥で静かに問う。

(森よ。この名を、受け入れるか。この線を、守れるか。)

風が一度、谷から広場へ抜け、白布をやさしく鳴らした。
それは、拍手ではない。
でも、拍手に似た、肯う音だった。
遠くで、雲の腹が薄く光り、街の歌がまた一つ輪を大きくした。
同時に、北の暗がりの底で、石の眠りが微かに返事をする。
ザルガスの残滓が、静かに身じろぎをする気配。

(聞こえている。——だから、見せ続ける。吠えない王の、線の引き方を。)

その夜の終わり、広場の布に近づいた一匹の小さな狐が、樹脂の匂いをひと嗅ぎして、満足げに尾を振った。
それを見ていた子どもが小さく笑い、寝る前に布へ手を伸ばし、そっと指で円をなぞった。
指は黒くならず、樹脂の匂いだけが少し指先に残った。
その匂いは、朝になっても消えず、子どもは鼻を近づけて何度も確かめた。

(匂いで覚える掟。それなら、忘れない。)

“ベア・キングダム”。
名は、布の上だけでなく、口から口へ移り、匂いに乗って森の小道を伝い、空の薄雲にも薄く映った。
宣言は、声でも紙でもなく、土と匂いと一頭の熊の立ち方で行われた。
それを見た者は、皆、各々のやり方で理解した。
そして、外の世界は、その名を地図に小さく書き込み始めた。
小さく。
だが、消えない線で。

夜が明けるまで、バルトは眠らなかった。
眠らない静けさの中で、次の線の場所を、心の土に細く刻み続けた。

(壁は低く、広く。門は狭く、深く。——ここから、始める。)
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