ベア・キングダム

naomikoryo

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第三部:「ベア・キングダム」

第7話「王の決断」

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朝の気温は低く、土の匂いは重たかった。
白い布の掟は広場に残し、土の線は“馬の背”へ向かって延びている。
森の南と北からの足音はそれぞれ膨らみ、やがて一つの細道へ収束するはずだった。

(ここで止める。ここで流す。ここで、選ぶ。)

“馬の背”は長く盛り上がった砂礫の尾根だった。
左右は湿地で、草の根の下はすぐに水。
真ん中だけが乾き、細く固い。
並んで走れない。
早くも走れない。
両側に足を滑らせれば、すぐに膝まで沈む。
フィンが尾根の端から端まで走り、鼻で風を切り分ける。

「匂いの印、置いた。風下に“眠り草”。風上に“火止めの喉”。――ここは、喧嘩じゃない。“間引き”の場だ。」

グロムが石の肩で湿地の縁を押し固め、浅い石畳を蛇のように敷く。

「退き路。落ちる者を、返す道。」

フェンリュクが薄雲の腹を撫で、影を細く引いた。

「上は狭い。合図は一つずつ。間違えれば、風が嘘をつく。」

リリは深く息を吸い、胸の前で手を握る。

「“王の場”を、外の言葉にもする。短く。はっきり。」

バルトは尾根の中央に立ち、土に爪で短い印を刻んだ。
正面の地面に、丸。
左右に、二つの点。
そして、その先に、細い線を一本だけ伸ばす。

(ここを、通す。ここで、返す。ここで、止める。)

南から最初に現れたのは、南辺騎士団の第三槍隊だった。
ローデリヒは兜を脇に抱え、馬を降り、尾根の手前で足を止める。
騎士たちも同じように下馬し、槍の穂先に布を巻く。

「ここが“王の場”か。細いな。」

ローデリヒの視線は笑っていなかったが、柔らかさを持っていた。

「通りたい。だが、通さぬとお前が言うなら、理由を聞こう。」

リリが一歩前へ出た。

「理由は“掟”です。速さは敵。多さは敵。ここで“間引き”ます。護衛は五。商隊の列は五台。それ以上は湿地に返る。今日の森は、それ以上を飲めない。」

ローデリヒは頷き、短く笑った。

「間引き、か。狩りの言葉だな。だが、わかる。五で行こう。」

彼は部下に合図する。
槍が下がり、馬は尾根の手前に残され、選ばれた五人が歩を揃える。
金糸会の列が後方に来て足を止めた。
腕輪の男は口元に笑みを乗せたまま、数を指で数える。

「五台。足りない。――後ろに積めば、十台分になる。」

ミラが背から紙を取り出し、静かに返す。

「重さは軽く。――掟です。」

フィンが尾根の端に立ち、牙を隠したまま低く唸る。

「重ければ、沈む。」

男は舌の音を小さく鳴らし、荷を結び直させた。
工匠ギルドは測量棒を束ね、一本だけを持って尾根の中央へ進む。
棒の先は雛の巣の高さより、確かに上にあった。
聖具商は油瓶を関所に預けているため荷は軽い。
ファルマは礼をして列の最後に立つ。

「お願いした“夜の道”は、今は通さない。――昼の掟に従う。」

リリは頷き、空を見た。

(上も、静か。今は、通せる。)

北の風が微かに鳴り、黒骨の飾りの匂いが薄く混じった。
フェンリュクが影をふっと薄め、合図する。

「北の残滓は“見ている”。叫ばない。」

バルトは動かない。
前脚を、土の中央の点に置いたまま、呼吸だけを深くする。

(ここが、場。ここから、目を逸らさない。)

通過は始まった。
ローデリヒの五は、足を揃え、石の上だけを踏み、槍の布が湿らぬ高さで慎重に進む。
工匠は棒先で空を指さし、フェンリュクの影と重ねてから、一歩ずつ計る。
聖具商は歌わない。
ただ心の中で祈り、声は外へ出さない。
金糸会は、男の指示で足を揃えたが、第三台の片側の車輪だけがわずかに太く、尾根の縁をかすめた。
フィンの耳がぴくりと動き、低く吠える。

「縁だ。」

グロムが石の退き路を半歩押し、沈みかけた車輪を戻す。
荷の下から革袋が滑り落ち、湿地の泥に沈みかけた。
ミラが棒で引っ掛け、リリが手を伸ばし、樹脂の匂いの印の上に置く。
袋の口は固く縛られ、油の匂いがわずかに漏れた。
リリが目を細める。

「油は預けたはず。」

男は笑みを薄めず、肩をすくめた。

「香油だ。信仰の商い。」

ファルマが一歩前へ出て、袋を手に取った。
僅かに嗅ぎ、首を振る。

「これは香油に混ぜられた“火走り”です。火を呼ぶ混ぜ物。――掟に反します。」

金糸会の男の笑みが消えた。
ローデリヒが振り返り、短く言う。

「預けろ。」

男は歯の音を噛み、袋を差し出す。
関所へ戻され、名札が赤で印された。
フェンリュクが高空でわずかに輪を描き、影を細く落とした。
列は再び進む。
湿地の息は穏やかで、尾根の石は乾いたまま。

(通せるものは通す。通さないものは、掟で止める。――それでいい。)

尾根の中ほど。
“馬の背”が最も高く、風が裏返る場所で、バルトは前脚を土から離し、ひとつだけ踏み直した。
中央の点に、薄い爪痕が増える。
それは合図だった。
北の茂みから、黒骨の飾りをつけた小さな群れが現れ、尾根の縁に立った。
オークが一人、小鬼が二。
遠巻きに“声”の輪を掲げ、しかし鳴らさない。
オークは喉で笑い、バルトへ顎をしゃくった。

「見に来ただけだ。……王の“場”を。」

フィンの毛がわずかに逆立つ。
リリは息を吸い、声を落とした。

「見なさい。でも、線を踏まないで。」

オークは肩を揺らし、足を引く。
骨は鳴らない。
風は静かだ。
フェンリュクが影をさらに薄くして戻る。

(見せる。――見せて、縛る。縛って、通す。)

尾根の終わりが近づく頃、金糸会の男が最後尾で合図した。
荷の影で、人が一人、匍匐で縁へ下り、湿地の草を切り始める。
細い刃。
切り口に樹脂。
“滑り道”を作るつもりだった。
フィンが吠える前に、バルトは低く踏み鳴らした。
足裏から浅い震えが走り、湿地の水がぷくりと泡を吐く。
匍匐の男は驚いて手を止め、刃を落とした。
リリが走り寄り、男の手首に布を巻く。

「怪我する。――掟に従って。」

男はリリの目を一瞬見て、目を逸らした。
金糸会の先頭の男が舌打ちを溶かすように笑い、荷の上で腕を組む。

「王の熊。王の娘。――演目が多い。」

ミラが短く答える。

「演目ではありません。“場”です。」

男の笑みは、今度こそ本当に消えた。

夕陽が湿地の水面に細い金色の帯を作る頃、最初の五台と五人は尾根を渡り切った。
ローデリヒは振り返り、槍の布に指を当て、軽く敬礼する。

「掟は悪くない。速さが敵になる場では、盾は重荷だ。」

工匠は測量棒を肩に担ぎ、尾根の出入りの段差に印をつける。

「“繕い”は必要ない。ここは“狭い”から効いている。」

聖具商のファルマは手を胸に当て、深く礼をする。

「“夜の道”の印、後で教えてください。」

金糸会の列は、静かに、しかし確実に無言で過ぎていった。
腕輪の男だけが最後に一度だけ振り返り、掟の布ではなく、土の中央の爪痕を見た。
その目は、覚えておく目だった。

南の列が遠ざかると、北の黒骨の飾りがすっと下がった。
オークが薄笑いを消さずに言う。

「お前の“場”は、噛み応えがある。――次は、牙を持って来る。」

フィンが低く返す。

「牙を持て。でも、掟を噛んだら、折れる。」

小鬼の一人が骨片をひょいと投げ、湿地に落として音を確かめる。
その音は重く、すぐに泥に飲まれた。
オークは肩をすくめ、森の奥へ退いた。
骨は鳴らさない。
風は静かなまま、夜の匂いに変わっていく。

(今日は、通した。―選んだ“場”で。)

戻りの道すがら、リリは肩の力を抜くように大きく息を吐いた。

「怖かった。でも、怖いって、ちゃんと役に立つんだね。」

フィンが鼻で肩を軽く突く。

「怖いと、目が開く。耳も開く。足も速くなる。――過ぎれば、転ぶ。」

フェンリュクが止まり木へ戻り、翼を畳む前に短く鳴いた。

「雲の腹に、街の歌。掟の名を、誰かが歌った。」

ミラが紙をまとめ、カレドへ渡す覚書を指で弾く。

「“王の場”。“間引き”。“低い壁、狭い門”。――言葉は短く。でも、意味は濃く。」

グロムは石の拳を開き、湿地の泥を落とした。

「泥は、重い。だが、冷たい。火は、嫌う。」

バルトは皆の歩調を見て、土の上に三度、軽く爪を置いた。

(ここまで。――まだ、途中。)

谷に戻ると、白布の前で子どもが二人、指で円をなぞっていた。
匂いは薄くなっても、指は道を覚えている。
村長は掲示板の脇で杖にもたれ、眠っているのか目を閉じているのか判別のつかない顔で立っていた。
バルトが近づくと、彼は片目を開け、うなずいた。

「通ったか。」

リリが笑って頷く。

「はい。五台だけ。」

村長は目を閉じ、短く言った。

「それでいい。」

その簡素さが、白布の上の線をまた一つ強くした。

夜。
谷の空気は涼しく、遠い野営の灯は雲の腹に薄く滲んでいた。
フィンは草に腹を落とし、尻尾で土を叩いて合図する。

「明日も来る。旗は増える。目も増える。」

ミラは火のそばで紙の角を指で整え、静かに言う。

「“王の場”を増やす?いえ、増やしません。――“王の場”は一つでいい。迷わせない。」

カレドは短剣を鞘に収め、バルトを見た。

「あなたは吠えない。しかし、今日の場は、誰よりも雄弁だった。」

フェンリュクが止まり石の上で片目を閉じ、片目を開いたまま眠りに入る。
グロムは石塀に背を当て、目を閉じた。
リリは白布の前に立ち、掟の最後に小さな括弧を付け加える。

(王の場において――王は選ぶ。選んだ責任は、王が負う。)

バルトはそれを見て、静かに鼻を鳴らした。

(重さは、俺に。――それでいい。)

風が一度、森の奥から抜けた。
その風に紛れて、遠い場所で古い骨が小さく鳴り、さらに遠い場所で金具が乾いた音を立てた。
そして、もっと遠い北の空気の底で、深い岩がゆっくりと寝返りを打つような震えがした。
ザルガスではない。
しかし、彼の残した“秩序なき力”が、別の手で撫でられた気配。

(聞こえている。見ている。――なら、見せ続ける。)

夜は長いが、線は消えない。
土に刻まれた爪痕は、露で濡れ、朝になればまた乾き、次の一日へ移る。
“王の決断”は、吠え声ではなく、足の置き方で続いていく。
低い壁。
狭い門。
細い橋。
そして、一つの“場”。
明日、外の歌がいかに賑やかでも、ここに立つ者の静けさは変わらない。
バルトは目を閉じ、眠らない眠りへ落ちた。
耳は開いたまま、鼻は風を読み、心は土をなぞる。

(ここで、選ぶ。ここで、背負う。――ここで、生かす。)

やがて、夜の底で梟が一度だけ鳴き、谷は一斉に息を合わせた。
明日の線は、もう引かれつつある。
そして、その向こう側で、誰かがまた、こちらへ向けて歌い始める。
だが、歌は風。
線は土。
風に煽られても、土は揺れない。
“王の決断”は、静かに、しかし確かに、森全体へ根を伸ばしていった。
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