ベア・キングダム

naomikoryo

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第一部:「森の王の誕生」

第1話「銀狼と爪痕の森」

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目を覚ました瞬間、鼻をついたのは、甘くも鋭い匂いだった。
土。苔。獣。腐葉土に混じった野草と、樹液と、どこか生々しい鉄の匂い。

(……ここは?)

頭が重かった。だが、意識ははっきりしていた。
目を開けると、そこには見たことのない空が広がっていた。
高く、高く、透き通るような青。雲はゆっくりと流れ、木々の葉が風に揺れている。

バルトは、草むらの上に仰向けに倒れていた。
彼の巨大な体は、かすかに陽を浴びて温かかった。
起き上がろうとすると、腕──いや、前脚が重く感じた。
けれど、動かせた。しっかりと、確かに、かつての身体よりも研ぎ澄まされた感覚があった。

(……ああ、そうだ。ぼくは──)

少女を庇って命を落とした記憶が、ゆっくりと戻ってくる。
白い光、神の声、新たな使命。そして「バルト」という名。
今の彼は、もはや「サーカスのクマ」ではなかった。

バルトはそっと立ち上がった。
地面が柔らかく、足裏が土に吸い込まれるような感覚。
木々は高く生い茂り、湿った空気の中に、何層にも重なった匂いの層がある。

地球で嗅いだ匂いとはまるで違う。だが、不快ではなかった。
むしろ、懐かしいような感覚すらあった。

(これが──“自然”か。)

耳がひく、と動いた。
何かが近づいている。足音。だが、軽い。獣だ。
気配は一つではない。三つ、四つ。だが、どこか怯えている。

茂みがざわめき、一匹の小型の鹿が飛び出してきた。
その目は恐怖に見開かれており、鼻先には新しい血のにおい。
続いて、二頭の小型の獣が現れる。牙をむき出しにした、灰緑色の肌をした魔物だった。

(追われている……!)

バルトは躊躇なく飛び出した。
体が地を蹴り、低く構える。前足を突き出し、勢いのままに一体を叩き飛ばす。

バギッ、と骨が砕ける音。
魔物は叫ぶ暇もなく吹き飛ばされ、木に激突したまま動かなくなった。

残る一体が驚き、バルトに牙を向けたが──
その瞬間、別の影が飛び込んできた。
銀の毛並みが陽光を弾き、唸り声と共に閃く牙が、魔物の喉元を裂いた。

倒れた魔物の上に立っていたのは、四肢の筋肉が引き締まった、一匹の銀狼だった。
その毛並みは美しく、目には知性の光が宿っていた。

(……シルバーフェンリル。)

その名が、どこからともなく浮かんだ。
バルトは彼を見つめた。銀狼もまた、じっとバルトを見ていた。
互いに、一言も発しない。だが、空気が緊張していた。

「貴様……何者だ。」

──言葉が、聞こえた。

(……話せる。)

バルトの胸に小さな感動が走る。
しかし、自分の口からは、何の声も出なかった。
代わりに、低く、静かに、鼻を鳴らして応えた。

銀狼は目を細めた。
彼の目には、単なる野獣ではない、何か異質なものを感じ取っていた。

「魔物を、助けたわけではあるまい。獣を……守ったのか?」

バルトはゆっくりと頷いた。
そして、一歩前へ出て、倒れた小鹿の体をそっと鼻先で押しやる。
その行動に、銀狼は驚いたように耳を揺らした。

「まさか──言葉は通じるが、話せぬか。」

頷き。
それだけで、すべてを伝えるには足りない。
だが、銀狼は理解した。ある種の“王者の風格”が、バルトからにじみ出ていたのだ。

「……名は?」

バルトは自分の胸を前脚で軽く叩き、地面に爪で「◯」のような模様を描いた。
銀狼は首を傾げるが、彼の目に意志を見た。

「そうか。名は──バルト、としよう。いい名だ。」

(……そう、ぼくはバルト。)

「俺の名はフィン。シルバーフェンリルの末裔だ。群れを捨て、孤独に生きていた。」

フィンは、魔物に襲われた理由を語った。
この森には、最近“異変”が起きている。
魔物たちが縄張りを無視して侵入し、動物たちが棲み処を追われていた。

「森の秩序が崩れかけている。」

(秩序……)

バルトの中で、その言葉が反響した。
創造神アウラが語っていた、“混沌とした世界”という言葉と重なる。

「お前……何者なのだ、バルト。クマの姿をしていながら、ただのクマではない。」

バルトは何も言えない。
ただ、じっとフィンの目を見つめ、呼吸を整えた。

すると、フィンはふっと鼻を鳴らした。

「いいだろう。しばらく、お前に付き合ってみる。お前の行く先に、“秩序”があるならな。」

(仲間……)

初めて、この異世界で。
初めて、言葉を交わせる存在と巡り合った。

バルトは、その重みを噛み締めながら、夜の森に目を向けた。

風が、樹々の間を通り抜けていく。
小さな動物たちが、遠くで囁きあう。
どこかで魔物の叫び声が響いたが、それはもう、恐れではなかった。

バルトは、新たな一歩を踏み出す。
彼の傍らには、銀の狼。
その眼差しは、バルトと同じ方向を見ていた。

そして──
この出会いが、やがて“王国”の礎となることを、まだ誰も知らなかった。
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