雨のち、青(アオハル・シリーズ)

naomikoryo

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第3話「青のキャンバスに触れた日」

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雨が降らなかった日は、逆に落ち着かなかった。

その日、空は朝から真っ白だった。
曇ってはいるけれど、雨は降らない。
天気予報では「夕方から弱い雨」と言っていたが、まひるは信じていなかった。
予報の「弱い雨」は、たいてい予想よりも強く降る。

それでも、傘を持つ手に、昨日までのような緊張感はなかった。
むしろ少しだけ、期待している自分がいた。

昨日、律と傘を一緒にしたこと。
あの傘の下で交わした、静かな会話。
特別な言葉はなかったけれど、確かにあの時間が、まひるの心を温めていた。

思い出すたびに、少し恥ずかしいような、嬉しいような気持ちになる。
こんな感情、いつから持っていなかっただろう。

放課後、美術室の前に立ったのは、ほんの偶然だった。

本当は、図書室に行くつもりだった。
けれど、校舎の階段を下りる途中、廊下の端からふと聞こえてきたのだ。

「カサ、カサ……」
何かを描く筆の音。
静かな教室に微かに響く、紙と筆の触れ合う音。

その音に、まひるの足は自然と止まった。

窓から差し込む光は薄く、時間が止まったような空気が漂っていた。
美術室のドアは半開きになっていて、中に人の気配がある。

「黒瀬くん……いるのかな」

自分でも驚くほど自然に、そんな言葉が口からこぼれた。
昨日のことがきっかけで、彼がそこに“いてくれる”という予感があった。

まひるは迷いながらも、そっとドアを開けた。
ギィ、と静かに音が鳴る。
その音に気づいたのか、キャンバスの前にいた人物が振り返る。

やはり、律だった。

「……あ、ごめんなさい。邪魔、だったかな」
「いや、別に」
律は筆を持ったまま、首を横に振った。

「いつもここで描いてるの?」
「人がいない時間だけ」
「……部活の人、いないんだね」
「ほとんど来ない。俺も幽霊部員みたいなもんだし」

言葉少ななやりとり。
けれど、まひるの中にあった緊張は不思議と薄れていた。

「……見せてもらっても、いい?」
「……どれを?」
「描いてるやつ」

少しの沈黙のあと、律は「いいよ」と小さくうなずいた。

まひるが近づくと、そこには大きなキャンバスが立てかけられていた。
描かれていたのは――“空”だった。

だけど、それはただの青空ではなかった。

画面のほとんどは濃淡のグレーと白で占められていて、
その中に、ぽつんと小さな青が差し込んでいた。

中心ではない。
端のほうに、にじむように描かれた青。

青は、鮮やかではなかった。
どこか沈んでいて、にごっているようにも見えた。
けれど、まひるはその色に、なぜか強く引きつけられた。

「……きれい」
口にしてから、それがあまりにありきたりな言葉に思えて、思わず恥ずかしくなる。

でも、律は「ありがとう」と返した。

「……この青、空?」
「空、かな。でも、空じゃないかもしれない」
「じゃあ……海?」
「うん、かも。どっちでもいい」
「え?」

律は少しだけ笑った。

「見る人が決めればいい。
俺にとっては“逃げ場”みたいなもんだから」

まひるは、その言葉に胸をつかれた気がした。

「逃げ場……?」
「うん。現実から、ちょっと離れる場所。
音もしないし、人もいない。
色だけがある、そういう場所」

そのとき、まひるはふと自分の中にも似た感覚があることに気づいた。
図書室。
本の中の世界。
音が消えて、自分だけがそこにいる世界。

「……私も、本を読むとき、そうかも。
読んでる間だけ、現実じゃないところにいるみたいで」
「だからかもね」
「え?」
「昨日、君が泣いてたの見て、放っておけなかったのは。
……同じ匂いがした気がした」

言葉の意味をすぐには理解できなかった。
でも、それはたぶん――“共鳴”だった。

ふたりとも、心のどこかで世界との距離をとっていた。
声を大きく出すことも、感情をぶつけることも得意ではなかった。
だけど、絵や本という形で、世界と繋がっていた。

その静かな共通点が、まひるの心をそっとなでていく。

「……絵って、いいね」
「なにが?」
「言葉にできないことも、伝えられる気がするから」

律はその言葉に、わずかに目を細めた。
それが笑みだったのかどうかはわからない。
けれど、その目には確かにやわらかさがあった。

「……白石さんって、絵、描かないの?」
「私は、文字のほうが得意。
詩とか、短編とか。文芸部で」
「そっか。……見てみたいな、君の言葉」

心臓が跳ねた。
不意にそんなふうに言われたのは、初めてだった。

「……また、今度ね」

そう言って、まひるは少しだけ俯いた。
隠すように微笑んだ自分を、律に見られたくなかった。

その日、まひるは初めて「また会いたい」と思った。
律と話すとき、言葉の少なさが気にならなかった。
むしろその“余白”に、安心を覚えた。

話さなくてもいい。
でも、同じ場所にいられる。

絵の中の青は、確かに暗く、沈んでいた。
けれど、その色に惹かれた自分もまた、
誰かに見つけてほしい“青”を、心のどこかに抱えていたのかもしれない。

まひるはその夜、ノートを広げて一行だけ書いた。

『あなたの絵を見て、少しだけ泣きたくなった。
でも、それはきっと悲しい涙じゃない。』
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