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第4話「本当のことなんて、誰も言わない」
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それは、風のような噂だった。
ふいに吹いてきて、冷たく肌を撫でて、去っていく。
だけど、心の奥にはずっと残り続ける――そんな種類のもの。
その日、まひるは何でもない昼休みに、それを聞いた。
図書室で返却した本を抱えたまま教室に戻る途中。
前を歩くふたりの女子の会話が、ふと耳に入った。
「ねえねえ、黒瀬律ってさ、前に問題起こしてなかった?」
「中学の時でしょ?なんか、いじめっぽいのに関わってたって……」
「でさ、それで転校したんじゃなかったっけ? ていうか、あの人、今もほとんど友達いないよね」
その瞬間、まひるの足が止まった。
目の前のふたりには気づかれないまま、彼女は黙ってその場に立ち尽くした。
胸の中が一気に冷えていくのを感じた。
何も言えなかった。
何も、考えられなかった。
気づけば、抱えていた本の背表紙に力が入りすぎて、爪のあとが残っていた。
午後の授業は、ほとんど内容が頭に入らなかった。
教科書の文字がただの線にしか見えず、先生の声は遠く、こもっていた。
窓の外には、今日も重たい雲が垂れ込めている。
でも、雨は降らなかった。
雨さえ降ってくれれば、自分の気持ちを“それ”のせいにできたかもしれないのに。
噂は、どこからやってきたのかもわからない。
誰が最初に言ったのかも、確かめようがなかった。
けれど、それが「本当」か「嘘」かを判断するには、十分な威力を持っていた。
律がいじめに関わっていた。
過去に問題を起こした。
だから、今ひとりでいる。
それらの言葉が、まひるの心の中に棘のように突き刺さっていた。
放課後、教室を出る足取りは重かった。
まひるはそのまま美術室へと向かう。
理由は、自分でもわからなかった。
けれど、話さなければならない気がした。
ドアの前に立ち、ノックをする。
律がいるかどうか、わからなかった。
でも、開けずにはいられなかった。
「……あ」
中には、やはり律がいた。
机にスケッチブックを広げ、鉛筆を走らせていた。
まひるが入ってくると、一度だけこちらを見て、また目をキャンバスに戻す。
「……悪い。今日はちょっと、集中してる」
「うん。邪魔するつもりじゃなかった。少しだけ、話してもいい?」
律の手が止まる。
そして、静かに頷いた。
まひるは、室内に一歩入った。
戸を閉めると、外の世界がふわっと遠のく。
美術室の独特な静けさが、いつものようにふたりを包み込んだ。
「……ねえ、律くん。中学の頃……なにか、あったの?」
沈黙が、息を呑むように落ちた。
筆が止まったまま、律の視線がキャンバスから動かない。
まひるは、続けた。
「今日、廊下で……誰かが言ってた。
いじめに関わってたとか、転校した理由がそれだとか。……ほんとのこと、わからなくて。だから、聞いたの。……ごめん」
自分の声が、ひどく震えていた。
律にとって、これは触れてはいけないことだったのかもしれない。
でも、知らないままでいたくなかった。
黙って信じたふりをするのは、まひるにはできなかった。
律は、しばらくの沈黙のあと、小さく息を吐いた。
「……事実かどうか、って話なら、半分は本当で、半分は違う」
静かな、けれど明確な言葉だった。
「……俺は、ある子に対して、何も言わなかった。
周りがその子を笑ってたとき、止めなかったし、見て見ぬふりしてた。
それが結果的に、あいつを追い詰めた。
“関わってた”って言われても、否定できない」
まひるは、律の言葉を一言も逃さないように、心に刻みつけていた。
「でも、俺が誰かを傷つけたくてやったわけじゃない。
ただ、怖かった。
止めようとしたら、自分もやられる気がして。
それが、結局いちばん卑怯だったんだけど」
彼の声は、震えていなかった。
でも、それが逆に心に響いた。
ずっと、自分で自分を責め続けてきた人の声だった。
「……それで、その学校を離れたの?」
「うん。親が、いろいろ考えて。俺が希望したわけじゃない」
「今も、あのときのことを、後悔してる?」
「してる。……たぶん、ずっとすると思う」
まひるは、ただ黙って頷いた。
その言葉には、嘘がなかった。
彼は、自分のしたことを隠そうとしなかった。
それがまひるには、何よりも誠実に思えた。
「……ありがとう。話してくれて」
「……それでも、信じる?」
「うん。私は、“今”の律くんを知ってるから」
「……そっか」
短い言葉。
でも、それはまるで雨がやむ瞬間のようだった。
静かに、でも確かに、ふたりのあいだに落ちていた緊張が、すこし溶けていく。
その日、美術室を出たまひるの胸には、重たくも透明な何かが宿っていた。
それはたぶん、“覚悟”だった。
人を信じるということは、何も知らずに盲目的に寄り添うことではない。
過去の痛みも、汚れも、弱さも、ぜんぶ知ったうえで、その人のそばに立つということ。
律の背負ってきた後悔を、まひるはきっと理解できない。
でも、否定することも、できない。
あの青いキャンバス。
曇り空の隅に描かれた、にじんだような青。
あれは、律の過去そのものだったのかもしれない。
汚れではなく、記憶。
後悔ではなく、痕跡。
それでも、その青は、まひるにとって“きれい”だった。
どんなに沈んでいても、にごっていても、
見上げていたいと思える、そんな色だった。
夜。
まひるはノートに、また短い詩のような一文を書いた。
『誰かの過去を全部抱えることはできない。
でも、今のその人を支えることは、できるかもしれない。』
外は、静かに雨の匂いがしていた。
ふいに吹いてきて、冷たく肌を撫でて、去っていく。
だけど、心の奥にはずっと残り続ける――そんな種類のもの。
その日、まひるは何でもない昼休みに、それを聞いた。
図書室で返却した本を抱えたまま教室に戻る途中。
前を歩くふたりの女子の会話が、ふと耳に入った。
「ねえねえ、黒瀬律ってさ、前に問題起こしてなかった?」
「中学の時でしょ?なんか、いじめっぽいのに関わってたって……」
「でさ、それで転校したんじゃなかったっけ? ていうか、あの人、今もほとんど友達いないよね」
その瞬間、まひるの足が止まった。
目の前のふたりには気づかれないまま、彼女は黙ってその場に立ち尽くした。
胸の中が一気に冷えていくのを感じた。
何も言えなかった。
何も、考えられなかった。
気づけば、抱えていた本の背表紙に力が入りすぎて、爪のあとが残っていた。
午後の授業は、ほとんど内容が頭に入らなかった。
教科書の文字がただの線にしか見えず、先生の声は遠く、こもっていた。
窓の外には、今日も重たい雲が垂れ込めている。
でも、雨は降らなかった。
雨さえ降ってくれれば、自分の気持ちを“それ”のせいにできたかもしれないのに。
噂は、どこからやってきたのかもわからない。
誰が最初に言ったのかも、確かめようがなかった。
けれど、それが「本当」か「嘘」かを判断するには、十分な威力を持っていた。
律がいじめに関わっていた。
過去に問題を起こした。
だから、今ひとりでいる。
それらの言葉が、まひるの心の中に棘のように突き刺さっていた。
放課後、教室を出る足取りは重かった。
まひるはそのまま美術室へと向かう。
理由は、自分でもわからなかった。
けれど、話さなければならない気がした。
ドアの前に立ち、ノックをする。
律がいるかどうか、わからなかった。
でも、開けずにはいられなかった。
「……あ」
中には、やはり律がいた。
机にスケッチブックを広げ、鉛筆を走らせていた。
まひるが入ってくると、一度だけこちらを見て、また目をキャンバスに戻す。
「……悪い。今日はちょっと、集中してる」
「うん。邪魔するつもりじゃなかった。少しだけ、話してもいい?」
律の手が止まる。
そして、静かに頷いた。
まひるは、室内に一歩入った。
戸を閉めると、外の世界がふわっと遠のく。
美術室の独特な静けさが、いつものようにふたりを包み込んだ。
「……ねえ、律くん。中学の頃……なにか、あったの?」
沈黙が、息を呑むように落ちた。
筆が止まったまま、律の視線がキャンバスから動かない。
まひるは、続けた。
「今日、廊下で……誰かが言ってた。
いじめに関わってたとか、転校した理由がそれだとか。……ほんとのこと、わからなくて。だから、聞いたの。……ごめん」
自分の声が、ひどく震えていた。
律にとって、これは触れてはいけないことだったのかもしれない。
でも、知らないままでいたくなかった。
黙って信じたふりをするのは、まひるにはできなかった。
律は、しばらくの沈黙のあと、小さく息を吐いた。
「……事実かどうか、って話なら、半分は本当で、半分は違う」
静かな、けれど明確な言葉だった。
「……俺は、ある子に対して、何も言わなかった。
周りがその子を笑ってたとき、止めなかったし、見て見ぬふりしてた。
それが結果的に、あいつを追い詰めた。
“関わってた”って言われても、否定できない」
まひるは、律の言葉を一言も逃さないように、心に刻みつけていた。
「でも、俺が誰かを傷つけたくてやったわけじゃない。
ただ、怖かった。
止めようとしたら、自分もやられる気がして。
それが、結局いちばん卑怯だったんだけど」
彼の声は、震えていなかった。
でも、それが逆に心に響いた。
ずっと、自分で自分を責め続けてきた人の声だった。
「……それで、その学校を離れたの?」
「うん。親が、いろいろ考えて。俺が希望したわけじゃない」
「今も、あのときのことを、後悔してる?」
「してる。……たぶん、ずっとすると思う」
まひるは、ただ黙って頷いた。
その言葉には、嘘がなかった。
彼は、自分のしたことを隠そうとしなかった。
それがまひるには、何よりも誠実に思えた。
「……ありがとう。話してくれて」
「……それでも、信じる?」
「うん。私は、“今”の律くんを知ってるから」
「……そっか」
短い言葉。
でも、それはまるで雨がやむ瞬間のようだった。
静かに、でも確かに、ふたりのあいだに落ちていた緊張が、すこし溶けていく。
その日、美術室を出たまひるの胸には、重たくも透明な何かが宿っていた。
それはたぶん、“覚悟”だった。
人を信じるということは、何も知らずに盲目的に寄り添うことではない。
過去の痛みも、汚れも、弱さも、ぜんぶ知ったうえで、その人のそばに立つということ。
律の背負ってきた後悔を、まひるはきっと理解できない。
でも、否定することも、できない。
あの青いキャンバス。
曇り空の隅に描かれた、にじんだような青。
あれは、律の過去そのものだったのかもしれない。
汚れではなく、記憶。
後悔ではなく、痕跡。
それでも、その青は、まひるにとって“きれい”だった。
どんなに沈んでいても、にごっていても、
見上げていたいと思える、そんな色だった。
夜。
まひるはノートに、また短い詩のような一文を書いた。
『誰かの過去を全部抱えることはできない。
でも、今のその人を支えることは、できるかもしれない。』
外は、静かに雨の匂いがしていた。
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