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第5話「いちばんきれいな、あの青を」
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放課後の空が、いつもより少しだけ明るく感じた。
雲の切れ間からこぼれた光が、教室の床に淡く射し込んでいる。
それは太陽というには心もとないけれど、
曇り空に慣れてしまった目には、眩しいほどだった。
白石まひるは教室の窓辺に立ち、その光を眺めていた。
今日もまた、律の絵を見たくなっていた。
彼が描く“青”は、どこか自分の気持ちと重なって見える。
言葉では伝えられない感情を、色で表してくれているような気がした。
まひるにとって、律の絵はまるで鏡のようだった。
それは、ただ“きれい”なだけじゃない。
触れたとき、胸の奥にある痛みまでも映し出される。
けれど――だからこそ、目を離せない。
美術室の扉をノックすると、今日も律はいた。
窓際の一番奥、キャンバスの前に座り、静かに筆を走らせていた。
「……こんにちは」
「うん」
その短い応答だけで、なんだか安心できた。
無理に言葉を交わさなくても、同じ空間にいるだけで落ち着ける。
そんな存在は、これまで誰もいなかった。
「……新しい絵?」
「そう。少しずつ描いてる」
「見てもいい?」
律は黙って、ほんの少しだけ体をずらす。
まひるは隣に立って、キャンバスをのぞき込んだ。
そこには、これまでとは違う“空”が描かれていた。
灰色ではない。
青だった。
しかも、それは明るい青。
にごりも、影もない、透明な青だった。
まひるは思わず息を呑んだ。
「……すごく、きれい」
「そう?」
「うん。なんか、前より……光があるっていうか」
「うん。そういうの、描いてみたかった」
律の声は、ほんの少しだけ柔らかくなっていた。
まひるには、それがとても嬉しかった。
「この青……どういう気持ちで描いたの?」
律は少し考えるような表情をして、
やがてぽつりと答えた。
「たぶん……“ありがとう”かな」
「ありがとう?」
「誰かが、俺をちゃんと見てくれたから。
……それが嬉しかった。
だから、その気持ちを描いてみた」
その言葉に、まひるの胸がぎゅっとなる。
それは、誰に向けられた言葉だったのだろう。
思い当たるのは、自分しかいなかった。
でも、確信は持てなかった。
ただ、その青が――とても、優しかった。
その日は、律とほとんど会話をしないまま時間が過ぎていった。
でも、それでよかった。
筆の音と、教室の静けさが、何より心地よかったから。
帰り際、まひるはふと口を開いた。
「ねえ、私さ……今まで、自分のこと、誰にも見てもらえてないって思ってた」
律が、筆を止める。
彼女は続けた。
「図書室で本を読んでても、クラスで静かにしてても、
誰も私のこと、気にしてなかった。
だから、自分でもそういう存在だって思い込んでた」
「でも、律くんが『知ってる』って言ってくれたとき、
初めて、ちょっとだけ……嬉しかった。
私も誰かの視界に入ってたんだって、思えた」
その声は、震えてはいなかった。
でも、どこか儚く、雨上がりの空のようだった。
律はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと立ち上がると、まひるに向かって言った。
「俺も、同じだった。
誰も俺のことなんて見てないって、思ってた。
でも……たぶん、君のことは、ずっと見てた」
まひるの胸が、跳ねた。
それは雷のように激しい感情ではない。
けれど、確かに心の奥まで響く音だった。
「……だから、この青は、君のおかげかもしれない」
「え……?」
律は視線をそらしながら、小さく笑った。
「……恥ずかしいから、今のは忘れて」
でも、忘れられるわけがなかった。
まひるの心の中には、あの青がそのまま流れ込んでくるようだった。
透明で、あたたかくて、少しだけ泣きたくなるような青。
帰り道、雨は降っていなかった。
空は、鈍い色のまま。
でも、雲の切れ間から、少しだけ青が覗いていた。
まひるは、その空を見上げた。
律の描いた青と、ほんの少しだけ重なって見えた。
ふと、彼の言葉が脳裏によみがえる。
「……この青は、君のおかげかもしれない」
そんなことを言われたのは、生まれて初めてだった。
誰かの中に、自分の存在が色として残るなんて。
それが嬉しくて、でもどこか怖くて、胸がざわざわした。
人を好きになるって、こういうことなんだろうか。
まだ、その名前を口に出すには、怖さがあった。
でも、心はもう、律に向かって傾き始めていた。
その夜、まひるは詩を書いた。
『誰かの世界に、自分の色が混ざるとき
それは静かで、あたたかくて、
少しだけ、こわい。』
ページを閉じたあと、まひるは手をぎゅっと握りしめた。
律の青。
その色を、もっと見ていたいと思った。
でも――
その青が、またどこかへ消えてしまうんじゃないかと、
なぜかそんな不安も、同時に胸に宿りはじめていた。
雲の切れ間からこぼれた光が、教室の床に淡く射し込んでいる。
それは太陽というには心もとないけれど、
曇り空に慣れてしまった目には、眩しいほどだった。
白石まひるは教室の窓辺に立ち、その光を眺めていた。
今日もまた、律の絵を見たくなっていた。
彼が描く“青”は、どこか自分の気持ちと重なって見える。
言葉では伝えられない感情を、色で表してくれているような気がした。
まひるにとって、律の絵はまるで鏡のようだった。
それは、ただ“きれい”なだけじゃない。
触れたとき、胸の奥にある痛みまでも映し出される。
けれど――だからこそ、目を離せない。
美術室の扉をノックすると、今日も律はいた。
窓際の一番奥、キャンバスの前に座り、静かに筆を走らせていた。
「……こんにちは」
「うん」
その短い応答だけで、なんだか安心できた。
無理に言葉を交わさなくても、同じ空間にいるだけで落ち着ける。
そんな存在は、これまで誰もいなかった。
「……新しい絵?」
「そう。少しずつ描いてる」
「見てもいい?」
律は黙って、ほんの少しだけ体をずらす。
まひるは隣に立って、キャンバスをのぞき込んだ。
そこには、これまでとは違う“空”が描かれていた。
灰色ではない。
青だった。
しかも、それは明るい青。
にごりも、影もない、透明な青だった。
まひるは思わず息を呑んだ。
「……すごく、きれい」
「そう?」
「うん。なんか、前より……光があるっていうか」
「うん。そういうの、描いてみたかった」
律の声は、ほんの少しだけ柔らかくなっていた。
まひるには、それがとても嬉しかった。
「この青……どういう気持ちで描いたの?」
律は少し考えるような表情をして、
やがてぽつりと答えた。
「たぶん……“ありがとう”かな」
「ありがとう?」
「誰かが、俺をちゃんと見てくれたから。
……それが嬉しかった。
だから、その気持ちを描いてみた」
その言葉に、まひるの胸がぎゅっとなる。
それは、誰に向けられた言葉だったのだろう。
思い当たるのは、自分しかいなかった。
でも、確信は持てなかった。
ただ、その青が――とても、優しかった。
その日は、律とほとんど会話をしないまま時間が過ぎていった。
でも、それでよかった。
筆の音と、教室の静けさが、何より心地よかったから。
帰り際、まひるはふと口を開いた。
「ねえ、私さ……今まで、自分のこと、誰にも見てもらえてないって思ってた」
律が、筆を止める。
彼女は続けた。
「図書室で本を読んでても、クラスで静かにしてても、
誰も私のこと、気にしてなかった。
だから、自分でもそういう存在だって思い込んでた」
「でも、律くんが『知ってる』って言ってくれたとき、
初めて、ちょっとだけ……嬉しかった。
私も誰かの視界に入ってたんだって、思えた」
その声は、震えてはいなかった。
でも、どこか儚く、雨上がりの空のようだった。
律はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと立ち上がると、まひるに向かって言った。
「俺も、同じだった。
誰も俺のことなんて見てないって、思ってた。
でも……たぶん、君のことは、ずっと見てた」
まひるの胸が、跳ねた。
それは雷のように激しい感情ではない。
けれど、確かに心の奥まで響く音だった。
「……だから、この青は、君のおかげかもしれない」
「え……?」
律は視線をそらしながら、小さく笑った。
「……恥ずかしいから、今のは忘れて」
でも、忘れられるわけがなかった。
まひるの心の中には、あの青がそのまま流れ込んでくるようだった。
透明で、あたたかくて、少しだけ泣きたくなるような青。
帰り道、雨は降っていなかった。
空は、鈍い色のまま。
でも、雲の切れ間から、少しだけ青が覗いていた。
まひるは、その空を見上げた。
律の描いた青と、ほんの少しだけ重なって見えた。
ふと、彼の言葉が脳裏によみがえる。
「……この青は、君のおかげかもしれない」
そんなことを言われたのは、生まれて初めてだった。
誰かの中に、自分の存在が色として残るなんて。
それが嬉しくて、でもどこか怖くて、胸がざわざわした。
人を好きになるって、こういうことなんだろうか。
まだ、その名前を口に出すには、怖さがあった。
でも、心はもう、律に向かって傾き始めていた。
その夜、まひるは詩を書いた。
『誰かの世界に、自分の色が混ざるとき
それは静かで、あたたかくて、
少しだけ、こわい。』
ページを閉じたあと、まひるは手をぎゅっと握りしめた。
律の青。
その色を、もっと見ていたいと思った。
でも――
その青が、またどこかへ消えてしまうんじゃないかと、
なぜかそんな不安も、同時に胸に宿りはじめていた。
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